こばわ。
いま読んでいる本です。

前田愛『樋口一葉の世界』。
日記、作品、歴史的背景から
樋口一葉を論じている本。
本が書かれた時代のためか、
一葉その人と作品がつよく結びつけられていく。

前田愛が評価しているのは
一葉の初期の作品(上流社会の社交の場を垣間見る位置にいた頃書かれた、一葉のそのような社会への憧れとロマネスク、鬱屈を作品に託しているもの)
ではなく、
家が没落していくなかで書かれた後期の作品。
前田はその作風の変化を
「物語の生活者から『塵の中』の生活者」という。
王朝の古典文学語りから、
もっとずっと低みにある身の回りの話・噂話・お金のやりとりに眼差しが向けられ、筆が走っていく。
後期と言っても、一葉は25才で他界するので、
たった二年の間なのだけれど。
(奇跡の二年と呼ばれる)

今ね、『にごりえ』のとこまで読んで、
だんだん狂ってきてます、一葉。
離人症の疑いがかけられとる、前田さんに。

この本の中に引用されている一葉の
日記の言葉がからだにはりつく。
孫引きごめん。

「世はいかさまに成らんとすらん。上が上なるきはに、此人と覚ゆるもなく、浅ましく憂き人のみ多かれば、いかで埋もれたるむぐらの中に、共にかたるべき人もやとて、此あやしきあたりまで求むるに、すべてはかなき利己流のしれ物ならざるはなく……」(P155・156より)

前田は一葉の作品に「埋もれたるむぐらの中」からの言葉を見る。明治社会の底辺に生きた者の言葉として、一葉のこの言葉は今でもある響きを持っている。そうしてそれを、今よりずっと前に評価していたんだなあ、マエダシー。

前田さんの本読んでいこうと思います。