今日は大学にある演劇博物館の図書館に入った。初めて。
安い教会のような建物で、
古く、図書室は木の匂いのする所だった。
歩くたびにギシギシと音がする床なので、「図書室では静粛に」っつう言葉が
まずもって第一に床に裏切られている空間だった。
でも、けっこう好きだ、こういうところ。
昨日、吐いた。気持ち悪くて。
自分で自分が嫌になって、もうダメだ、いけないと感じたら、
バイト上がりにゲロが来た。
わたしはもうダメだと思った。東京新聞の広告欄が「ぢ」だったのもダメだと思った。
いろんなところからダメが来る。文章かけてないし。
一番ダメなのは自分だが、そんなザ・モースト・ダメストをどうにかするガッツが
出ず、ゲロ。汚い。このままではいけない。
で、今日は5号館の演劇博物館に何をしに行ったのかというと、
坂手洋二の戯曲を読むためである。
ウチの大学で、坂手洋二の戯曲が読めるのはここだけなのだ。
しかも、閲覧のみで、借りられない。
ケチくせぇ!蔵書量がウリになってねぇ!
つうか戸山図書館(文学部の図書館)に置いてくれよ戯曲なんだからさー!!
ブーブー。文句たれまくり。
- 坂手 洋二
- 最後の一人までが全体である―坂手洋二戯曲集
P227より
私、明るくないの。
このセリフ。楽しい・明るい人々の最後に区切りをつけるかのように、ぼそりと出てくる。
私、明るくないの。告白。私、明るくないの。いきなりの主張。誰も聞いてないのに聞いた
瞬間終わりが来る言葉。
P157より
君はゾウさん。ちょっと耳が大きすぎるだけで、何も悪いことはしていない。
自分が大きすぎるんじゃないかなーって心配しすぎ。
わたしはこのセリフがとても好きだ。わたしの周りにはこんなゾウさんが多く、(言うまでもなく
私もその一人だが)そんなゾウさんたちがわっちゃわっちゃしてる姿がかわいいのだ。わたしもそ
のひとり。ウッキョッキョ☆
P245より
……全体の中から一人が欠けてしまったとき、「最後の一人までが全体である」、
この命題は成立しません。全員をフォローできなかったら全体じゃない。死んでし
まった人間を数に入れようというまやかしは、この命題を否定することです。
P257より
誰が最後の一人かを確かめるためには、全体の枠組みが要る。一人を捜し出すために
全体が必要とされるのだ。全体が大事なんじゃない。最後の一人が大事なんだ。最後の
一人のために、全体は用意される。
「みんな」は「全体」じゃないけれど、全体が最後の一人を捜してる。それに気づいたとき、
この戯曲は終わる。世界の仕組みの最も大切なものには触れないまま。大切なのは、最後の
一人じゃない。全体が最後の一人を求める構造に気づくことなのだ。