今日は大学にある演劇博物館の図書館に入った。初めて。

安い教会のような建物で、061113_152713.jpg
古く、図書室は木の匂いのする所だった。

歩くたびにギシギシと音がする床なので、「図書室では静粛に」っつう言葉が

まずもって第一に床に裏切られている空間だった。

 

でも、けっこう好きだ、こういうところ。

 

昨日、吐いた。気持ち悪くて。

自分で自分が嫌になって、もうダメだ、いけないと感じたら、

バイト上がりにゲロが来た。

わたしはもうダメだと思った。東京新聞の広告欄が「ぢ」だったのもダメだと思った。

いろんなところからダメが来る。文章かけてないし。

 

一番ダメなのは自分だが、そんなザ・モースト・ダメストをどうにかするガッツが

出ず、ゲロ。汚い。このままではいけない。

 

で、今日は5号館の演劇博物館に何をしに行ったのかというと、

坂手洋二の戯曲を読むためである。

ウチの大学で、坂手洋二の戯曲が読めるのはここだけなのだ。

しかも、閲覧のみで、借りられない。

ケチくせぇ!蔵書量がウリになってねぇ!

つうか戸山図書館(文学部の図書館)に置いてくれよ戯曲なんだからさー!!

ブーブー。文句たれまくり。

 

坂手 洋二
最後の一人までが全体である―坂手洋二戯曲集

P227より

私、明るくないの。

    このセリフ。楽しい・明るい人々の最後に区切りをつけるかのように、ぼそりと出てくる。

  私、明るくないの。告白。私、明るくないの。いきなりの主張。誰も聞いてないのに聞いた

  瞬間終わりが来る言葉。

 

P157より

君はゾウさん。ちょっと耳が大きすぎるだけで、何も悪いことはしていない。

自分が大きすぎるんじゃないかなーって心配しすぎ。

    わたしはこのセリフがとても好きだ。わたしの周りにはこんなゾウさんが多く、(言うまでもなく

  私もその一人だが)そんなゾウさんたちがわっちゃわっちゃしてる姿がかわいいのだ。わたしもそ

  のひとり。ウッキョッキョ☆

 

P245より

……全体の中から一人が欠けてしまったとき、「最後の一人までが全体である」、

この命題は成立しません。全員をフォローできなかったら全体じゃない。死んでし

まった人間を数に入れようというまやかしは、この命題を否定することです。

 

P257より

誰が最後の一人かを確かめるためには、全体の枠組みが要る。一人を捜し出すために

全体が必要とされるのだ。全体が大事なんじゃない。最後の一人が大事なんだ。最後の

一人のために、全体は用意される。

    「みんな」は「全体」じゃないけれど、全体が最後の一人を捜してる。それに気づいたとき、

   この戯曲は終わる。世界の仕組みの最も大切なものには触れないまま。大切なのは、最後の

   一人じゃない。全体が最後の一人を求める構造に気づくことなのだ。