メダカです。

 

前回上げた記事のタイトル間違えてました。

まあ、これで世の中がおかしくなることは…

ないので

スルーしましょう爆  笑

 

閲覧数が少ないのは

こういう時はイイことだ(あは

 

 

さて、

昨日書きたかった事なのですが

ふっと私の祖父と父の事を

書いておこうかなと思います。

 

まずは祖父から。

私の祖父は70歳で肺がんで亡くなりました。

両親共働きで、私が初孫だったため

祖父の胡坐の中で

とてもかわいがってもらいました。

寡黙な人でしたが

私がいつも笑わせていたそうです。

 

彼は田舎の18人兄弟の!長男で

最初の奥さんは病気で亡くなり

私が短大に行くまで

ずっと実の祖母だと思っていた人と

再婚しました。

 

 

しばらくして、赤紙が来て

海兵としてフィリピンへ渡ったようです。

フィリピンに船が着いても

彼は機関士だったため

更に南方へ下ります。

なかなか運の強い人です。

 

 

その後パプアニューギニアに上陸したようです。

 

ここからは全て祖母から聞いた話で

本当に辛かったこととか

凄惨なことは寡黙さの中に漂っている気がします。

知っている限りを上げますが

お暇なら読んでいってください。

 

 

1、海軍だから遠泳の時間があった

祖父は山の人でさほど泳げなかったのですが、

褌一つで海に全員飛び込まされたんだそうです。

ある日、足が攣って溺れたのですが

どうすることもできず、泡が上に昇っていくのを

静かに見ていたんだそうです。

意識が飛び始めた時、

ボートで後ろから来た先輩たちに掬い上げて

助けてもらったそうです。

 

この時習ったことは、

大海原に投げ出されたら褌を長ーーーーーく

伸ばすってこと。

鱶(フカ)サメなどが彼らより丈の長いものを

襲わない からだそうです。

 

 

太平洋航海中、

トビウオの群れの中に船が入ってしまったとき、

ものすごい量のトビウオが矢のように

船の上を飛び交ったそうです。

そんな時は、甲板にいる人は

速攻バケツを頭に被らないと!

トビウオが刺さってケガする

(か、死んじゃう)とのことで

あれは壮観だった そうです。

 

イルカも船と一緒に遊んで泳ぐので

かわいかったようです。

見たかったな爆  笑

 

 

 

2、なぜ海軍の機関士になった?

他の兵士さんよりは

お給料が良かったんだそうです。

たまたま学校で技術系の学びをしていたらしく

更に選択できる立場の出身だった(らしい)です。

 

 

3、フィリピンからどこへ移った?

南方へどんどん流されて最後は

パプアニューギニアに。

 

 

4、パプアニューギニアで何してた?

 

① 農耕を教えていた

正直、パプアニューギニアでは戦争より

食料確保の方が大変だったので、

自分の隊(グループ)の仲間と地元の人たちに

農作業を教えたり、一緒に農耕をしていた

のだそうです・・・。

 

「あっちは放っておいても

コメも野菜も果物もできるから

働く意欲とかないし、

計画作付けという頭がないんだ…」

 

他の隊のリーダーたちは暴力で現地の人たちから

食料を奪ったり、暴力を振るっていたらしいのですが

自分の隊の仲間とは「あれだけはやめような」と

距離を置いていたんだそう。

だから、パプアニューギニアを去る時は

大勢の現地の人たちがお別れに

来てくれたのだそうです。

 

 

戦後、無事生還した同じ隊の方たちが

祖父を訪ねてきてそんな話をしていたようです。

連絡網でもあったのか、

戦後パプアニューギニアから

独立の際なのか、

国の農作業に貢献してくれたからと

国賓で招かれたそうです。

 

が、

 

「思うところあって」

出席しなかったそうです。

理由は 「・・・」 以上。

 

 

② どうやって生還できた?

ある時、祖父はマラリアに罹り

野戦病院に入院したそうです。

そんな時、遂にアメリカからの攻撃が始まって

空爆が始まった。

 

病院も無差別で攻撃に遭い

マラリアによる筋力消耗の中、

這ってなんとか外に転がっていたドラム缶に

潜り込んだそうです。

 

攻撃が収まってドラム缶から出てみると

それまでいた野戦病院はもう

跡形もなくなっていたそう。

 

 

防空壕も爆破されてしまい

そこに逃げ込んだ仲間や知人は全員死亡。

 

失意のうちにせめて遺留品でも

持ち帰ってあげようと掘り返したところ

大きなニシキヘビが

仲間たちを飲み込んでいたんだそうです。

 

・・・

 

③そして生還

その後、また病院を移されて。

多分捕虜になったのだと思うのですが

病室に日本語ができるアメリカ兵がきて

色々情報を聞き出そうとしたらしいです。

 

でも敵ですから…

 

「ふん!」と背を向けて無視を決め込んでいたら

 

「僕は早稲田大学に留学していました。

長野の善光寺にも参拝に行ったことがあります。

牛に引かれて行ったわけではないのですが…。

(長野出身者であることリサーチ済みなんですね)

 

日本は負けましたが、物資と燃料が尽きたからです。

アメリカがそうなるよう仕向けました。

 

実はもうアメリカもギリギリでした。」

 

その時初めて祖父は頭を上げたそうです。

が、

そう言ってその将校さんは

祖父の元を去ったそうです。

 

正直で凄いですね。

 

 

きっとこんな話はみなさんの周りにも

たくさんあるのではないかと思いますが…。

 

そんなこんなで多くを語りませんでしたが、

祖父は骨と皮だけになって

田舎に帰国して来ました。

 

長くなったので続きます。