久しぶりのブログ更新となりました。
お休み中も訪問してくださった皆さまに感謝いたします。
今回も少しの時間どうかお付き合いください。

今回は「体罰」についてです。

はっきり申しまして、これについては「ありました」。


“若者の心には無知がつきもの。
これを遠ざけるのは諭しの鞭。”
箴言 22:15 新共同訳

この聖句を適用し、集会中にグズる子供を別室に連れて行き、おしりぺんぺん、ということは頻繁に行われていました。

私も王国会館でペンペンされたことはなかったですが、家に帰って来てからは、、、ありました。


また当時の風潮として「体罰」が「推奨」されていたような節はあったと記憶しています。
JW.orgで検索してみると1970年代頃など比較的古い資料には、そうした雰囲気を感じさせるものもあります。

もちろん体罰を肯定するものではないですが、ただ、こういった体罰を容認する空気はエホバの証人だけでなく、学校や、塾、スポーツの場でもその傾向があったのではないでしょうか?
実際、私も親にも叩かれましたが、先生にも結構叩かれました^^;

親が自分の感情に任せて子供を打ち叩くならそれは虐待です。
しかし親には子供を従わせる権威があります。
ごく幼い子供の場合、言葉で諭すよりも誰が権威を持っているか解らせるため、おしりを叩くことが適切かもしれません。
ー「目ざめよ!」誌 1979年8/8号よりー


聖書は虐待を勧めてはいません。
先ほど引用した、箴言 22:15に出てくる「むち(棒)」という語は,ヘブライ語のシェーベトを訳したものです。
ヘブライ人にとってシェーベトとは,羊飼いが用いるような棒または杖を意味していました。その場合に,権威のむち棒は厳しく残虐な行為ではなく,愛ある導きを連想させます。

聖書の中で懲らしめは,怒りや残忍な行為ではなく,常に愛や温和さと結びつけられています。
「あなたがわたしと共にいてくださる。
あなたの鞭、あなたの杖
それがわたしを力づける。」詩編 23:4 新共同訳
ー「目ざめよ!」誌 1992年9/8号よりー

「むち」とは物理的に叩くだけではなく、むしろ言葉による愛ある導きだということ

今は集会中に親が子供を個室につれていき、おしりをたたくという事は行われていません。
(もっとも子供自体の数が減っているという現実もあるのですが)
ぜひお近くの王国会館に来てご自分の目で確かめてください。

またもし今現在、あなたがエホバの組織から離れていて、昔受けた親からの体罰についてなんらかのトラウマを抱えているなら、私はあなたの心に平安が訪れるよう祈ります。

報道機関やSNSに訴えることであなたの心が晴れるのであれば、それもいいでしょう。
しかしどうでしょうか? それは解決策になるのでしょうか?
却ってあなたの心の傷をえぐるものになりはしませんか?

それよりも必要であるならば心理的カウンセリングを受けてください。
またもし可能であるならば、親御さんと話し合ってみてください。
エホバの証人のwebサイトからエホバの証人の訪問を申し込むこともできます。
繰り返しになりますが、1日も早くあなたの心に平安が訪れることを祈ります。

参考資料: 「目ざめよ!」誌 1992年9/8号 「「懲らしめのむち棒」― それは時代後れですか」