石舞台 | 五千年前の大洪水と先史文明研究ゼミ

石舞台

石舞台

奈良県明日香村にある、蘇我馬子の墓は昭和45年頃まで、何も知らずに、

大きな石の上で、踊りを踊っていたためこの名前がつけられた。

馬子は、物部氏を倒し、仏教を推進した人である。
この家系は、稲目、馬子、蝦夷、入鹿と続いて、入鹿が大化の改新(乙巳の

変)で、中大兄皇子(天智天皇)に敗れる。娘(刀自古)婿に聖徳太子がいる。
この馬子の出自は葛城系といわれ、朝鮮半島(以下半島と記す)系であるが

王族系ではなかったようだ。そして日本書紀によると、あわや天皇家を奪わ

んとする大悪人のように書かれている。しかしその実態は、当時の半島を見

るに、随と新羅軍対高句麗と百済軍の合戦の真っただ中である。
本来、当時の日本の朝廷は、百済系であるが馬子は双方に等距離外交を展

開している。その時のお陰で、当時の日本は侵略されずに済んだ。
詳細は、左サイドバーにある「■新説・日本の歴史 (飛鳥石舞台と律令制導入)」

を参照して頂きたい。全てを鵜呑みにするわけにはいかないが、チノちゃんと

しては共鳴する部分が多いので、省略させて頂きたい。
さて、この馬子の墓は巨石支石墓である。
数度訪れたことがあるが、外側はピラミット型(方形)の積石墓で、周りに池をめ

ぐらしていたと言われている。この時代、天皇家は皆 前方後円墳である。
そこで、馬子の墓をなぜ前方後円墳にしなかったのか。
又は、王族ではないからできなかったのか。
もし、「王族のみしか、前方後円墳は造れない」としたら、全国にあるこの型

の古墳は、王族たちの墓となり、王族だらけになってしまう。
「それは、ありえない。」

それとも王族という概念が違うのか。
これは別の問題として、取敢えず馬子の墓は巨大支石墓である。
この巨大支石墓は、この時代ではもう既に廃れているはずである。

この型の墓は、高低の二つの型があり、一族が一つの墓を利用することも

あるということから、馬子の石棺や父の稲目の墓が無いのも可能性が考え

られる。つまりこの墓の建造年代は、更に時代を遡る可能性があるのかも。
もう一つ、この巨石をみると、天井石などは生き石を利用していることから、

この石、飛鳥地方の近辺には存在しなし、奈良盆地にもないと思われる。
実際、どこから持ってきたものか、採石地の同定をして欲しものである。
近い所でも吉野川となり、相当の山越えをしなければならない。
あるいは、大和川の支流を利用したとしても羽曳野から王子までは、非常に

急流であり、ここもなかなか難しい。
前回 赤海亀の石を掲載したことがあるが、この石も大きな石だが、石質が

違い、更に硬い灰色の角礫凝灰岩で、できていたとおもえたのだが。
今日はここまで、又夢の飛鳥でお会いしましょう。