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映画・ドラマの部屋

 

パラリンピックの歴史について調べていくと、二人の医師にたどり着きます。

一人は、イギリスのルードウィヒ・グットマン博士。そしてもう一人が中村裕博士です。では、まず、ルードウィヒ・グットマン博士から紹介していきます。

 

ルードウィヒ・グットマン博士

ドイツ出身のユダヤ系神経学者で、後に「パラリンピックの父」と呼ばれるようになります。

ルードウィヒ・グットマン博士は、ライプツィヒ大学で神経医学を修め、卒業後同大学で講師をつとめた後、ブレスラウのユダヤ病院で医師をしていましたが、1938年、ナチスによる反ユダヤ主義が台頭したドイツを離れてイギリスに亡命し、オックスフォード大学で脊髄損傷医療で勤務。

 

1943年9月、イギリス政府は、ストーク・マンデビル病院に第二次世界大戦の傷痍軍人向けの国立脊髄損傷センターを設立し、当センターの長としてルードウィヒ・グットマン博士を指名します。ルードウィヒ・グットマン博士は、英国初の脊髄損傷治療専門部隊の長として、ストーク・マンデビル病院ではたらくこととなります。

 

「失われたものを数えるな。残されたものを最大限に生かせ」

これが、グットマン医師の口癖であり、スポーツは残された体の機能を向上させて回復を早めるだけではなく、自尊心を養い、社会とのつながりまで生み出す可能性があることに早くから気づいていました。

 

 

脊髄損傷科の開設から4年が経った1948年7月29日、グットマン博士は1948年ロンドンオリンピックの開幕日と同じ日に、病院内で『第1回ストーク・マンデビル競技大会』を開催。患者の間で人気があったアーチェリーが実施され、男性14名、女性2名の計16名が参加します。

 

グッドマン博士が、このロンドンオリンピックと同じ日に第1回の大会を行ったのは、この第1回大会が、後にオリンピックのような国際大会になることを預言していたかもしれません。

 

しかし、彼の預言通り、この競技数僅かに1。参加者数16人という極々内輪の大会が、後に世界中の国から4000人以上が集まるスポーツの祭典パラリンピックへと発展していくことになります。

 

グットマン博士は、このストーク・マンデビル競技大会を毎年開催し、少しずつその規模を大きくしていきます。1952年には、オランダからの参加者を迎え130名で開催し、名称を「ストーク・マンデビル競技大会」から「国際ストーク・マンデビル競技大会」に改称します。

 

 

こうしたグットマン博士の情熱と努力が実を結ぶことになります。

 

1956年、グットマン博士の功績が国際オリンピック委員会から認められ表彰され、1960年、イギリス、オランダ、ベルギー、イタリア、フランスからなる国際ストーク・マンデビル大会委員会が設立され、グットマン博士が初代会長に就任。

 

同年、「第9回国際ストーク・マンデビル大会」がオリンピックと同じローマで開催されます。この大会は、イギリス以外で行われた国際大会であり、この大会こそ、のちの「第1回パラリンピック」です。但し、この時には、まだ、「パラリンピック」と言う用語は存在せず、公式には「第9回国際ストーク・マンデビル大会」と呼ばれていました。

 

こんな時に、日本から一人の整形外科医が、グットマン博士がセンター長を務めるこのストーク・マンデビル病院に留学してきます。その整形外科医の名前は、中村裕(なかむらゆたか)医師でした。

 

中村裕博士

中村裕博士は、大分県別府市出身で、1951年に九州大学医学部を卒業し、同大学整形外科医局に入局し医学的リハビリテーションを研究します。その後、1958年から大分県の国立別府病院整形外科医長として勤務。

 

グッドマン博士との出会い

中村博士は、リハビリテーション研究のため欧米に派遣され、イギリスに滞在中にストーク・マンデビル病院のグットマン博士に出会います。

イギリスでは身障者が驚異的な割合で社会復帰をしていました。中村医師は、「何か特別な手術などがおこなわれているのでは」と最初考えましたが、手術など治療方法は日本と全く同じでしたが、そこでは障碍者が、リハビリテーションの一環としてスポーツが行われおり、さらには社会全体で受け入るシステムが存在したことに強い衝撃を受けます。

 

中村博士は、グッドマン博士に師事し、障碍者に対するスポーツを使ったリハビリテーションを学びます。当時、33歳の若くそして情熱に溢れた医師は、帰国後に、直ぐに行動を開始します。

 

しかし、当時の日本では、障碍者は「安静に寝ている事」が最良の治療であり、表に出ずに影の存在として扱われていました。中村医師は、数々の困難に遭遇しますが、グッドマン博士と同様に「信念の人」であり、

 

自分より少しだけ不幸な人の幸福の為に働き戦うことは、価値のある事だ。そして困難な事でも、熱意ある人が力を合わせれば、何とかなる

 

との信念の元に、障碍者スポーツにおけるさまざまな“日本初”を実現させていきます。1961年に第1回大分県身体障害者体育大会の開催に尽力します。しかし、「障害者を見世物にするな」「あなた、それでも医者ですか」など多くの批判を受け、日本における障碍者スポーツを普及させることの難しさに直面します。

 

東京パラリンピック

そんな中村博士にも、グッドマン博士と同様に転機が訪れます。それが、1964年の東京オリンピックでした。東京オリンピックの後に国際大会を開くことについても先頭に立って関係者に訴え、パラリンピック開催への気運を高めた。1962年にストーク・マンデビル大会に2人の車いす選手を連れて参加したのも注目を集め、これもまた東京大会への追い風となります。

 

若くそして情熱に燃えた地方都市の一医師が、非難や反対の声が飛び交う中で、活動を行い、次第に共感の輪を広げ、その結実として1964年10月の国際身体障害者スポーツ大会(国際ストークマンデビル競技大会)を、東京オリンピックが終了した後に、開催することに成功します。

 

欧州以外で初めて行われた5日間の大会には22カ国から400人近くが参加し、日本からも53選手が出場するという盛大なものとなり、第2部として国内の障碍者が集まった大会も並行して実施します。この時に、第10回国際ストークマンデビル競技大会と国内の障碍者スポーツの祭典を合わせて、東京パラリンピックと名付けます。

 

 

但し、東京パラリンピックの後は、当大会をオリンピック開催都市と同一都市で行う方式は、東京大会後は定着せずいったん中断することとなります。とは言っても、パラリンピック開催の情熱は、失われることなく受け継がれ、1976年以降は、冬季種目も加わり、そして、1988年、ソウル大会より、正式名称が「パラリンピック」となります。この大会からは再び夏季オリンピックとの同一地開催が復活した。なお、冬季大会が冬季オリンピックと同一都市で開催されるようになるのは、1992年のアルベールビル冬季大会からです。

 

障碍者の自立の為に

しかし、パラリンピックを日本で開催することは、中村博士にとってゴールではありませんでした。この東京パラリンピックにより、日本の障碍者の置かれている状況が、よりハッキリと現れてきました。

 

東京オリンピックにおいて、海外からの参加者の多くが、経済的にも自立している中で、日本の参加者53名中、自営業を営んでいる5名だけしか自立できていませんでした。

 

中村博士は、再び挑戦を開始します。1965年、「保護より働く機会を」をモットーに「太陽の家」を設立。「世に心身障害者はあっても仕事の障害はありえない。太陽の家の社員は、被護者ではなく労働者であり、後援者は投資者である」と企業を回り会社設立の協力を説いてまわります。

 

この考えに共感をしたのが、京都府京都市に本社を置く大手電気機器メーカー・オムロン株式会社の創設者・立石一真氏でした。立石一真氏は、「企業は社会の公器である」とモットーの元に、中村裕博士と共に福祉施設と民間企業の合弁という形で日本で初の福祉工場「「オムロン太陽株式会社」を大分県別府市に設立します。その後も、ソニー・ホンダ・三菱商事・デンソー・富士通エフサス等の企業と共同出資会社をつくり、多くの重度障害者の雇用機会を増やし、障碍者の自立に尽力します。

 

また、これに並行して、1975年には、誰でも気軽に「やしの木でも開催できる大会」を理念に国際ストークマンデビル競技大会に参加できない、太平洋諸国の貧しい国の障碍者を集めて、南太平洋身体障碍者スポーツ大会(フェスピック大会)を開催します。このフェスピックは現在のアジアパラへと継承し、継続されています。

 

車いすマラソン大会の誕生

1975年、当時24歳のボブ・ホールという車いす使用の青年が、ボストンマラソン参加が許可され、2時間58分の記録でボストンマラソンを完走します。メジャー大会で初となったこのニュースは、多くの障害者が車いすマラソンに挑戦する機運を盛り上げます。

 

1970年代 別府大分毎日マラソンの開催日の朝に「別大国道を歩こう会」が開催されていましたが、毎年参加していた車いす使用者から、「本物のマラソンに参加したい」という声が上がるようになり、同大会で、宗茂氏が優勝するなど、次第に車いすマラソンの機運が高まります。

 

中村博士は、別大マラソンに車いすで参加できるように陸連、大分県と共に模索しますが、ルール上、マラソンランナーと車いすランナーが同じコースを走ることができませんでした。

 

夢は潰えたかと思われましたが、大分県は、1981年の国際障害者年行事を検討する中で、一部、新たなコースを設定すれば、マラソンは実施可能と判断。更に、陸連も、車いす単独のレースであれば支援することを約束します。更に協賛する企業、市民ボランティアそして、別府に駐屯する陸上自衛隊 第41普通科連隊の隊員も支援します。こうして、世界で初の車いすだけのマラソン大会が誕生します。

 

しかし、何せ世界初の車いすでのマラソンでしたので、車いす使用者のマラソン競技に関する医学的データ等が存在しなかったため、試験的に21.0975kmのハーフマラソンから開催することとります。1981年に109人、1982年に103人が完走し、選手の間から「フルマラソンを開催して欲しい」という声が大きくなり、1983年からフルマラソンを開催されます。

 

そして、中村博士は、この車いすフルマラソンの実施を見届けた後、1984年にこの世を去ることとなります。享年57歳。あまりに早い旅立ちでした。

 

 

一人の人間の情熱だけでは、世の中は動かないと言う人がいますが、熱い情熱を持った人が一人でもいれば、その人の周りの人に共感の輪が広がって、やがて、どんなに困難な事も成し遂げられると言った実例を、ルードウィヒ・グットマン博士と中村裕博士は示しています。

 

you raise me up・・・ , to more than I can be .

(あなたがいてくれるから。私は、もっと頑張れる)

 

ルードウィヒ・グットマン博士と中村裕博士と障碍者のスポーツにかける情熱が、今のパラリンピックを支えています。これら、先人の想いと共に、今年も、パリパラリンピックが、2024年8月28日から9月8日までの12日間。185か国、22の競技、4千人の選手が参加し開催されます。

 

次回は、こんなオリンピックやパラリンピックが行われるパリを舞台とした映画を書きたいと思います。