どうしてこんなにも母への愛が伝わらないのだろうとずっと苦しかった
けれど、いつの日からかそこを抜けることができた
母は20歳で私を産み4年後には兄弟も生まれワンオペ育児だった
テレビ 映画 音楽 アニメ スポーツと母はエンターテイメントが好きな人だった
いつの日か私は母が喜ぶ顔をみたくてエンターテイメントの世界に入りたいと思うようになった
演者を目指すために小学生からオーディションを受け始めた
最終審査までには3回程審査もあり、田舎から都内に出るには結構な金額がかかった
喜んでくれると思っていた私は次第に母からの怒りを感じていた
それと同時に母からは『貴方は女の子なんだから…』という言葉をかけられて育った
女の子なんだから料理が出来なくちゃ
女の子なんだから礼儀が出来なくちゃ
小学生を卒業するくらいには一通りの家事は出来るようになっていたと思う
この時点で結婚してこの家を早く出なければいけないんだなと思っていた
けれど、一度ハマってしまったエンタメの世界は楽しく中学生に入ると部活をしながら学校の仲間とダンスチームをつくって練習した
家で練習する時はうるさいと怒られるので母のいない時間にすることが多かった
経緯は覚えてないのだが、中学校の朝会の後にダンスの披露をさせてもらったりもした
振り返ると幼稚園の時は3人の主役の中に入っていたし、小学校の頃はバトン部でやはり朝会の後に披露したりしていた
そう考えると母がきっかけとはいえ、相当目立っていたとは思う
けれど当の本人は目立つのは苦手だが、ただただ自分のやりたいことを自分のペースでするのが好きな子だった
試行錯誤して直してきたが(またの機会に詳しく書こうと思います)今でも少し人に見つめられたりするのは苦手意識はある
表面には出てはいないようだが、ひどい時は吐き気をもようしたりもする
そんなところからもわかるがあまり気が強い子ではなく今思うと体もあまり強くなかったと思う
それを知ってだったのかはわからないが母は『やられたらやり返せ』『うちはうちよそはよそ』というスタンスで私に強さを求めた
弱さからかイジメのターゲットにされやすく、母とその相手との狭間で辛くてずっと泣いていたがこの環境でやらない選択肢はなかった
やってみたら、意外にも上手くいってザワザワした気持ちの中、快感を感じたのを覚えている
それから大人になっても八つ当たりのターゲットにされることもあったが、そうなると的を与えた正論を突きつけてしまう
それが刺さる人なら仲良くもなるが、それが刺らない人ならば距離をとることにしている
と、まぁ母との関わりの中で苦しいと思うことばかりだったが社会に出てわかったことは必要なことだったので厳しく教えてくれて感謝でしかない
どれくらい厳しかったかというと、今ではありえないが金属バットが登場してくるくらいだった
今思えば、若くしての出産、ワンオペは母からしても苦しかったのかもしれない
それでも、何気ない言葉や態度、行動で何十年も苦しめられるとは思っていなかったし、苦しめているとは思っていないと思う
国や市町村の制度や施設などもどんどん良くなってきているのを感じる
けれど、自分で調べ自分で行くスタンスは言葉は良くないかもしれないが弱者には届かない
その制度や施設等を使うことも見つけることすら困難だったりする
国や市市町村が悪いとかではない
もっとこちら側からも協力し合って何か出来ることはないかと思う
そういうものもアップしていきたいとブログやSNSを始めたけれど、それでも届かない現状があることが事実だ
私はエンタメの世界を演者として生きることを出産を気にやめた
けれど今こうして書いていくこともエンターテイメントであり、母との確執があったからこそではないかと思っている
それにしても小学生の時に切れない包丁でじゃがいもの皮を怒られながら傷だらけになったなーとピーラーでスイスイじゃがいもを剥きながら思い出して『文明開化サイコーやん』って楽しくなっているそんな1日でした
ポトフサイコー!!
