桃土器

桃土器

土やき作品と俳句、日々メモ

Amebaでブログを始めよう!

 

昨日は豆の木句会。そこで、最新号(「豆の木」21号)を拝受。

 

自分の胸にひっかかったものをとどめおくために、こちらに日々、感想を書きます。

 

作品その① 山岸由佳さん 「音声」

 

考へる八月の椅子川のやう      山岸 由佳

 

中間色のやさしく、ほの温かい世界観のなかに、現実をにおわせるハッとするフレーズがある。

挙句でいうと、「考へる」

 

考える?

 

そしてその後に、一見唐突とも思える「八月の椅子川のやう」の、フレーズ。

一目でわからない句というのは、読み手としてはおもしろい。

自分なりにこの句をつかまえようとできるから。

 

「考へる」と「椅子」、「椅子」と「川のやう」、「考へる」と「川のやう」

「八月」と「川」そして「八月」と「椅子」。

 

それぞれのことばどうしが響きあっているのを感じる。

 

・「考える」と「椅子」

現実感をもたらす正当な組み合わせ

 

・「椅子」と「川のやう」、「考へる」と「川のやう」

 

前者

きっとこの椅子は庭か窓ぎわに置かれていて、

庭であれば葉先がこすれあう枝枝の下だったり、

窓ぎわであればレースカーテンくらいがされているだろう。

どちらにしても、日差しを和らげる緩衝材でもあり、うっすらと影をつくるものがほしい。

日差しをやわらげ、座面に影がゆらゆら投影される。

そのようすは川のように見えないだろうか。椅子は白い、木の椅子がよいな。

ここちよい風が吹き抜けていくよう。

 

後者

考えることは、そもそも川のようだとも思えてくる。哲学的。

 

・「八月」と「川」、「八月」と「椅子」

 

前者

夏を彷彿とする、俳句的な感触。

八月の川は季語でとらえると「夏の川」

 

夏の川・・・五月雨のため水嵩の増した川、盛夏になって涸れた川、山峡を涼しく流れる川

子供らの泳いでいる野川、都会を流れる暑い濁った川

by「合本 俳句歳時記 新版(角川書店)」より

 

川の受け取りかたによっては、180度この句の様子がかわってこないだろうか。

先ほどの「やわらかい日差しの近くの白い椅子」の印象から、

「どろどろとした現実世界の日常ユースのうらぶれた椅子」

でもいいかもしれない。

 

後者

椅子の触感がつたわる。きっと湿ってはいないし、冷たくもないだろう。

それが「考える」に派生してきて、前向きなイメージを与えている。

 

つらつら、確証もないことをつらつら書き連ねましたが、

さいごに、「考へる」でぶっつり切って、まったくそれとは関係なく「八月の椅子川のやう」とよんでも、

飛躍がとーっても気持ちいい。

 

ほかには

「ひだり手の力の抜けてゐる螢」(力の抜けた感覚と螢。ひだり手のわずかな奇怪さ)

「柿晴れて鏡の中の人小さし」(柿にポイント)

 

番外編「北口」のなかの

「石温かくなるまで握り桜の夜」(「石」を温かくなるまで握るという行為)

「「ハンカチを綺麗に畳む地震雲」(きっちり物事を行うということの異常)

「太陽のビルに隠れし金魚かな」(「ビル」と「金魚」の現実感)

「サイレンはるか水鳥の水脈ひかり」(「サイレン」を「水鳥」がひっぱっていくような)

 

などすきでした。

 

今日は髪を切りに行こう。