猛暑忘れられ、過ぎる日に仕舞われた汗と涙の結晶である。


と、夏に何か成し遂げたわけでもなければ、ならではの想い出を作ったわけでもない。

しかしながら、こうも簡単に順応していく人々に生きる力を見出すはずが、そうでもないのが実際である。


近頃の自分は非常に自己顕示欲が強いのではないか、と思うことがある。

其れを表面化せずに勝手ながら憤慨している、非常に疲れる行為である。


いつだったか人は一人で生きられるのか、と討論したことがある。

社会的には一人では生きられないのは確かで、親があり、兄弟が居るとすればそれも勿論。

それ以外の問題だ。精神的に一人で生きられるのか、と。

例えば人が料理で言う食材だとすれば、調味料は要らないのかという話なのではと徒然思う。

友人、恋人、それ以外にも関わっている恩師や、人それぞれに支えとなり心を豊かにする人は居るだろう。


私は其れを要らないと言った。

必要ない、あればそれはそれで豊かになる皿の上だが、魚は焼くだけで充分なのだと。



今もそれは変わらない。

不可能でないからだ。討論相手はそれは不可能だと言った。

私は彼女の考え方は間違っていないと思うが、正しくもないと伝えた。

二度目だが、今でもそれは変わらない。


もしかしたら彼女は肉で、塩胡椒をふるい焼かれ、あるいは刻まれ練られハンバーグにでもなりたかったのかもしれない。

だが自分は海の中泳ぐ魚であるから考えが違うのかもしれない。

自分は練られ蒲鉾にはなりたくは無いし、しっかりと醤油で味を付けられ干物にも為り得ない。

粉を塗せられしっかりと熱したフライパンの上踊る油にまみれたくも無い。

荒波を泳いで肌についた塩味で勝負したいのである。

話がずれた。


そう、かといって食卓の前、一人満足させられるのか、と問われれば疑問である。

結局は自分ひとりの考えであるし、それが正しいのか間違っているのかさえわからない。

そもそも正誤を問う話でもないのだ。



自己顕示欲の話に戻れば、全否定さえされなければそうそう爆発するものでもないが、

誰かの目に映っていて欲しいと思うからこうやって文章にするのである。


全肯定、それもおかしな話で在るが。