いち元JW2世の社会復帰方法 ー思想とキャリアの再構築まで -5ページ目

小学校時代のJW友と再会

小学生時代に、よく一緒に聖書研究をしていたJW2世のかつての親友2人と、先日、十数年ぶりに再会しました。僕だけが離れて、あとは今も現役JWで頑張っています。元気そうな顔を見ることができて、本当に嬉しかったです。

みんな同じ小学校で同じ学年だったので、JW抜きに他の同級生の近況も共有したりしながら、懐かしい話を色々することができました。逆に、僕が小さい頃に同じ会衆だった兄弟姉妹たちの近況も聞くことができ、会いに行きたい気持ちにも駆られました。

和やかに再会を喜ぶ場になって、僕としてはとても嬉しくもありがたかった一方で、彼らのこれまでの人生を聞いた時に、率直に言って、自分は生き方を変えて本当に良かったと改めて感じざるを得ませんでした。

それはちょうど、「もし自分がJWを続けていたら、今の自分がどういう状態になっていたか」のシミュレーションを見せてくれていたようでした。現在もJWでいることで、彼らはやりがいのある仕事に就くこと、家庭を持つこと、様々な人の考え方と触れ合って世界の広さを味わう機会などを犠牲にして生きてきていました。一人は「自分は楽園で結婚したい。今の対処しにくい時代にわざわざ結婚したり家族を持ちたいとは思わない」と言っていました。聞き覚えのあるJWの模範解答でしたが、きっと今の彼には本心なのだろうと感じました。このまま、70歳80歳になった時に彼は自分の選択をどう思うのだろうとは思いましたが、それを口にすることは当然できませんでした。

彼らは学業も優秀でしたし、スポーツもとても得意でした。絵が上手で県の絵画コンクールで入賞したりもしていました。普通に考えて、様々に活躍できる可能性があったはずでした。彼らが払ってきた自己犠牲は報われるのでしょうか。正直、僕には翼を折られた鳥のように見えました。幸せは人の頭の中に存在するものですし、人の数だけ幸せの形が違うということも分かってはいるつもりですが、僕には彼らが本当に幸せなのか疑問が拭えませんでした。

それでも、今回、このような再会が実現して感じたのは、意外とちょっとの勇気というか思い切りを持って連絡を取ってみることで相手も動いてくれることがあるのだなということでした。次がいつになるかは分かりませんが、また会いたいと思えた再会でした。

辞める側の論理

自分がJWを辞めようと決めた二十歳過ぎの時、「嫌だから辞める」というのは、筋が通らないとどこかで思っていた。当時の自分なりの真摯な思いとしては「ほんとうのこと」が知りたい、そして、JWには「ほんとうのこと」が欠けているから辞めようと思ったと言ってよいと思う。

結局、「ほんとうのこと」とか「真理」のようなものを知ろうとすると、どうしても哲学的な問いを避けて通れなくなる。僕の場合は、「我々はどこから来たのか、我々は何者なのか、我々はどこへ行くのか」という素朴な問いの答えに少しでも近づけるヒントを求めて、哲学とか科学とかの領域の本との対話を繰り返すことが主な活動だった。その活動を通して得た学びは今でも財産になっているし、逃げずにやってよかったと心から思える。

ただ、その結果として僕はそれまでの信仰を捨てざるを得なくなった。同じ哲学的な探求をしたとしても、なんらかの宗教的信仰を保ち続ける人もたくさんいる中で、僕は自分なりの自然な判断として、信仰を維持することができなかった。これは「神などいない」とか言っているのではなく、その種のスタンスに関して何らか断言するには、ヒトはあまりに小さすぎると感じているため、既存の組織宗教に属することが嘘くさく思えてしまうということにすぎない。これは、ヒトの知性も進化の産物であり、生物の進化は必要に迫られた範囲でしか起こらず、その意味でおのずと限界があるということに深く納得してしまったことが大きい。

私の場合は、JWの学問的水準の低さ(=神学的、科学的な知識の欠落と誤り)、知的誠実さの欠如は火を見るより明らかだったので、遅かれ早かれ去っていたと思うものの、聖書も古文書の一つというスタンスになることや、人格神について不可知論の立場になることは、特段想定はしていなかった。自分としては自然とそうなってしまったのだが、ここまでくると、もはや現役JWの人と根本的な意見の共有が不可能になってくる。仮に使う聖書が新世界訳でなく新共同訳であっても、聖書を使って話をしていたときは、まだ共有できる議論があっただろう。

自分は、自分の母親をはじめとした大半の真面目な現役JWの人よりも真面目に「真理」を探究してきたはずという思いは正直言って持っている。しかし、その結果として、もはや彼らと話すための共通の土台を持てなくなってしまったのは皮肉というか、断絶を深くした気がする。その意味では、僕は「辞める側の論理」を示すことにおそらく失敗したのだろう。視点や積み上げてきた知識がJWから離れすぎてしまったというべきか。

実は、今度、久しぶりに小学生時代の親友だったJWの友人3人と会うことになった。僕以外の3人は今も現役のJWだ。今もかなり模範的な兄弟たちだと思う。旧交を温めるという意味では、本当に久しぶりで会うのが楽しみという素直な思いがある一方、会話に気をつけないと、楽しかったはずの場が一気に冷めてしまいかねないと言う不安も持っている。

そうならないよう、少しイメージトレーニングをしてから参加しようと思う。

重力波の観測成功で天文学が好きだった頃を思い出す

もはやJWとは全く関係の無い話題ですが、これは個人的にかなり興奮したので書きたくなりました。

我々の宇宙では、あらゆる物理現象を記述するのに必要な力の種類は、実はたった4つだけに収斂することが知られています。電磁気力、強い核力、弱い核力、重力です。このうち、重力が圧倒的に働く力として弱く、観測するにも対象が相当大きくないと拾うことができません。たとえば、天体です。地球の重力加速度は、9.8m/s^2(9.8m毎秒二乗)と決まっていますが、これは3秒経過すると時速100kmほどになる加速度です。つまり、もし高いところから我々が飛び降りて3秒経過すると、時速約100kmの速度で地面に叩きつけられることになります(本当は空気抵抗があるので正確には違います)。

逆に言うと、それだけ大きな引力を持てる地球というのは人間から見るととてつもなく大きいのだということが、この数字だけからも想像できます(ですが、その地球も太陽の130万分の1の体積に過ぎません)。

ちなみに、ビッグバンによって始まったこの宇宙は、開闢直後は上記の4つの力が元々1つだったはずで、そこから時間と共に現在の4つに分かれたと考えられています。

このうち、電磁気力と弱い核力を統一させた理論は、20世紀中にできていて、さらにこれに強い核力とも統一させた大統一理論の完成が目指されています。ホーキング博士含め世界中の理論物理学者たちが目指している物理学のフロンティアです。しかし、重力だけはかなり性質が異なるため、まだこの統一に組み込むことができていません。そして、アインシュタインはこの重力についての人類の理解を圧倒的に前進させました。

それまで、重力についての画期的な説明をしたのは17世紀のニュートンでした。G×m×M/R^2の数式で表現される万有引力の法則です。これは、2つの物体の間に働く力が、お互いの質量Mとmの積に比例し、同時に互いの距離Rの2乗に反比例して働くことを示した非常にシンプルなモデルです(Gは重力定数)。

しかし、この引力は何光年も離れた天体同士(たとえば銀河)でも働くはずですが、光の速さは秒速30万kmと有限で、かつ光より早く動ける物質は存在しないため、引力が一瞬で両者を結びつけることはないと考えられます。

アインシュタインは、この重力の働き方をニュートンの万有引力のモデルとは全く異なった考え方でモデル化しました。それが一般相対性理論です。相対性理論では、重たい天体があると、重力が発生し、その重力は空間をゆがめます。ちょうどトランポリンに立ったときに周囲が歪むような現象が3次元で起きるイメージです。そして、この重力は光速で伝わっていくと考えられます。

重力が空間を歪めること自体は、1919年にイギリスのアーサー・エディントン卿によって証明されています。エディントンは、皆既日食を利用して、太陽周辺に見える天体の位置が、普段の夜に見える時の位置とズレることを実験ではっきりと示し、アインシュタインの理論の正しさを証明しました。

その重力の伝わり方を示す重力波の存在が、観測技術の劇的向上により、ついに今回実現したようです。しかもアインシュタインの理論値と驚くほど厳密に整合したとのニュース記事を読んで、本当にこの宇宙の仕組みの精巧さに感嘆するとともに、アインシュタインの偉大さに改めて思いを馳せました。

アインシュタインがかつて予言してから100年経過したという時間の長さを考えると、天文学・宇宙物理学の最前線にいる人たちにとっては、寿命が100年程度では短すぎてもどかしいと思うのかもしれません。かつてパスカルが考える葦と言ったように、人は本当に一瞬の儚い存在で打ち上げ花火のようなものとも言えます。その一瞬の人生をどう精一杯生きるか、色々な制約条件の中でもへこたれずに生きようとするか、だよな、と改めて思います。

欲望を敵視しない

二人目の子どもを持って思い出したことですが、JWはあらゆる欲望に関して「自分の肢体を死んだものとする」よう、物心ついた時からしつこく言われます。そのため、なんらかの個人的な欲求を持つことについて、ひどく罪悪感を抱くように仕向けられます。経済的に成功すること、社会へなんらかのインパクトを与えることも戒められますが、とりわけ性に対する禁欲的な姿勢は、却って不自然と思わせるほどで、健全な自己肯定感を損なわせると思います。

この性への禁欲主義を確立させる原因となった人物としては、パウロとアウグスティヌスが挙げられると思います。よく、キリスト教を創ったのはイエスではなくパウロであると言われますが、僕もこの見方に賛成です。

また、アウグスティヌスの「告白」を読むと、アウグスティヌス自身が性への執着を捨てられず悩んだ時期があったことが分かります。同書には、そんな自分に嫌気がさしたアウグスティヌスが泣きながら神に祈るシーンがあります。この本を読んだ当時、僕は二十歳の現役JWで、「僕も見習わないと」と純粋にも思ったことがありました(遠い目)。余談ですが、アウグスティヌスは17歳の時に子どもを持ってしまうほどやりたい放題だった時期があり、瀬戸内寂聴氏じゃないですが、出家する人というのはどこかぶっ飛んでいるというか、エネルギーが突き抜けているのでは、と思ったりもしました。そんなアウグスティヌス自身の悔恨の念が、キリスト教の禁欲主義に拍車をかけた側面はありそうです。

JW2世であった自分の、こうした禁欲主義的な見方を変えてくれたものの一つに、田川建三氏の著書の「イエスという男」があります。この中で、姦淫(不貞行為)の禁止が道徳的な規定ではなく、時代背景から見て夫の所有物(財産)である妻に手を出したことへの罰則規定であること、そのため、あくまで財産犯的な発想で厳しい罰則が科せられていることが示されていました。ですから、同じ婚外交渉でも淫行(結婚していない者同士の婚外交渉)の罰則規定は、姦淫とはずいぶん異なります(姦淫は死刑、淫行は結婚すれば良い)。聖書はれっきとした古文書ですから、現代の道徳感覚や世界観で当時の文書を読むと、本来の趣旨を読み誤ることを教えられました。

性欲にしろ食欲にしろ、自己肯定意識が低い時は、自分の持つ自然な欲望を敵視していたように思います。美味しい物を食べることを今はとても楽しみにしていますが、当時は「食事なんか必要とせずに、この体が原子力で動いてくれればよいのに」と思っていました(ドラえもんかと。ドラえもんは、原子力で動く設定になっています)。当時は性に対しても毛嫌いしようとすることで距離を取ろうとしていたように思います。睡眠欲だけは、寝ている間は意識がないためか、自分の中で特に反省や考慮の対象になっていませんでした。

自分のことをある程度肯定できないと、食事も性交渉も睡眠も満足に楽しむことができないと思います。その意味では、これら三大欲求の自分の満たし方を振り返ることは、自分が自分をどう扱っているかを振り返ることにもなると思います。また、食事は食べ物という相手(命)がありますし、性交渉の場合は人間の相手があることですから、それらとどう接するかが、イコール他者をどう扱うかを示すと言えるのではないでしょうか。そう考えると、「自分を大事にできない人は、相手も大事にできない」というのは、正しいように思います。

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二児の父になって思うこと

先月末に、自分に男児が誕生し、二児の父になりました。年末年始の休みを利用して育児を手伝う中で、一人目が赤ん坊だった時のこと、さらにはもっと昔のことを思い出していました。

現役のJWだった頃は、自分は結婚しないかもしれないと考えていました。また、仮に結婚したとしても、自分が子どもを持つことはほとんど考えていませんでした。当時は、自分が生まれてきてそれほど幸せだとは感じてこなかったというのもありますし、自分のような人間の遺伝子を継ぐ子どもが幸せなのかという疑問もありました。今の自分が見たら「真面目でネガティブというのは本当に良くないよ」と言ってやりたくなります。変わったものです。

子どもがいると、自分の時間も自由に使えるお金も減ります。それでも、子どもを持ったことで自分は人生の喜びが増えたと素直に感じます。以下、子どもを持ったことで自分が変わったと思うことを箇条書きに書いてみます。

・自分の感情表現が豊かになった
子どもは理屈が通じないことがほとんどで、むしろ感情表現を通して互いに意思疎通できることが多いと思います。必然的に自分も感情表現を多くすることになり、これは自分の人格に幅を持たせて柔らかくさせてくれたように思います。あとは、単純に涙もろくなりました。

・人に優しくなった
他人の子どもでも可愛いと思えるようになりましたし、育児中の人へ気遣いが以前よりもできるようになりました。これは、実際にその立場になってみないと分からないという、自分の想像力の低さの証拠でもありますが、幼児が電車の中で泣いたからと言って「うるさいな」とは思わなくなりました。

・丸くなった(心身ともに。。。)
家族関係が幸せだと、他の事はあまり問題にならなくなるのでは、と思うようになりました。これは善し悪し両面があって、家族との関係が良好だと毒気(牙)が抜かれて社会的な成功が遠のく一面もあるのではないかということです。何か不幸な気持ちやコンプレックスを抱えていた方が、執拗に仕事やビジネスに没頭するので社会的に成功する、ということは珍しくないと思います。家族として幸せだとそこまで極端に仕事に没頭しようと思わなくなるでしょうし、過度なリスクも取れなくなります。

あとは、単純に太りました。。少し生物的な理由を言って正当化すると、これは親になることで、父親の男性ホルモンのテストステロンが減るためというのはあると思います。参考)父親になるとテストステロン減少、育児協力に効果 米研究

・妻へ感謝することが増えた
「コウノドリ」というドラマも話題になりましたが、子を宿して産むというのは哺乳類特有の繁殖戦略で、これは男性がどう頑張っても真似することはできず、女性(妻)に頭が上がらないと感じさせる要素だと思います。出産後も大変な環境は続きますので、それが理解できると感謝の気持ちを何か示さないとと思うようになりました。

・自分の両親、義両親との関係が深まった
子は鎹(かすがい)と言いますが、親族との関係も深めてくれることがあります。特に子どもが小さいとそうなりやすいように思います。僕は現役JWの母親や姉とは普段疎遠ですが、僕の子どもと関わる時は、普通のおばあさん、おばさんです。それが自然な人間関係を造るのにプラスに作用していると感じます。