キリスト教の信者である私はこともあろうに今年のクリスマス礼拝に参加することができなかった。至極残念なことである。
さてキリスト教は歴史が長いだけだけに、教典聖書に対する解釈も多々あり、そして教皇庁と政治の軋轢による派閥分派が広く行われてきた宗教である。今でも正教会、旧教、新教各宗派の違いは、“バックミュージックがモダンか否か”程度の違いしかわからない。私個人はバプテスト教会に霊的救いを感じているのだが、礼拝時の音楽があまりにも若者向け過ぎて、自分がその場にいることがかなり“場違い”に感じてしまうのである。
話は戻るが、主・イエス・キリストの生誕を祝うクリスマス礼拝に“霊的な意味での参加”をしたいのか、それとも“西洋建築の中でのセイクリッド・ソング”というクリスマスの雰囲気を堪能したいか、によって礼拝から受ける印象は異なってくる。どちらかと言えば“リチュアル的”宗教行事を追うという信仰が主体の日本では後者の人たちの方が多いのであろう。いずれにせよ、“神のみ元へ馳せ参じる”という行為は、いずれにしても尊ばれることである。
大学時代、西洋音楽史という授業のなかで、グレゴリオ聖歌から発祥した教会音楽については、バロック音楽発生以前までかなりしつこく勉強させられてきた。(音楽史の教科書の半分はバロック以前の教会音楽についてなのである) 今でも、アルス・アンティークアとアルス・ノヴァの違いはよく分からないのだが、教会音楽というのは、礼拝を円滑に進める、”神が主“の音楽であり、そこに演奏家個人的解釈の表現は不要とされている。その音楽の深い歴史に触れるためにも、”まず神ありき、そして音楽“という謙虚な音楽家としての持つべき概念を知るためにも”礼拝“は大切にしていたのだが、今年は事もあろうに”家でバケットとワイン“という簡素化したクリスマス・イブのお祝いとなってしまった。
仕方がない,クリスマスの今日は家で”ミサ曲ロ短調“と”クリスマス・オラトリオ“を流すことにしよう。
Amen