長ひじき森乃進 下仁田ねぎ夫
序
その目は虚空を見つめていた。
ただ漫然とさまよう視線。
それと同期するかのように定まらない思考。
ただはっきりとわかることがある。自分がもうすぐ消えてしまう存在だということだ。理屈ではない。生物としての直感がそう告げている。
恐怖はない。ただ淡々とその運命を受け入れている。予定されたものとしてずっと前から準備していたように心は穏やかだ。
自分が誰なのか、ここはどこなのか。そんなことはどうでもいい。自分はあと少し生きてそれから死んでいく。それだけが事実でそれ以外のことは意識の中心に入ってはこなかった。
このまま意識が薄れていくのを座って待てばいい。大きく深呼吸する。
瞬間。
腹部に激痛が走った。目をやると黒いシャツが暖かく濡れている。まるでもう一つの心臓のようにその部分が脈打つ。
(なんだこれは?)
思い出そうとしても思い出せない。だがこの痛みは現実だ。
その「痛み」によって鈍磨していた感覚がよみがえる。失っていた感情があふれ出す。
怖い。怖い。怖い。
死が怖いのではない。ただ、自分がなぜ死ぬのか、それが分からないまま死ぬのが怖いと思った。
一度死を受け入れていたのも、その理由を知っていたが故だ。その感覚は憶えている。
しかし刹那の間に何も思い出せない自分に気づいたのだ。
死ねない。死ぬわけにはいかない。さきほどまで自分の死を受け入れされていた根拠が一瞬にして消えたのだ。
座して死を待つ思いなど消し飛んだ。
男は立ち上がった。
血で濡れたシャツを漆黒のコートで隠すと表通りに向かって歩き出した。
石畳をブーツで踏みしめながら背中を丸めて人ごみに逆らって歩く。
足取りは重く息は荒い。いよいよ痛みは激しくなり、熱く燃えるようだ。標識にもたれかかって空を見上げた。
空は街を押し潰すかのような厚く重苦しい雲に覆われている。
(いやな空だ)
その思考を最後に景色は暗転。記憶は途絶えた。
【下仁田ねぎお】
