ファイナンスに興味が出てきたので、というか元々興味があったので、今ほとんどのクラスでファイナンス系の授業を選択しているのですが、一つ気づいたのは、デリバティブの話が出てきすぎます。。
一応デリバティブって何?というのを簡単にまとめておきますと、日本語に訳すと「金融派生商品」と言われるものです。大きく分けると、「先物取引」、「オプション取引」、「スワップ取引」という三つが主なカテゴリーになります。それぞれ簡単に説明すると、「先物取引」はその名の通り、“先”に“物”の値段を決めて契約してしまうという取引です。例えば航空会社が来年急に石油価格が急騰して経費がかさむのが嫌だなぁという場合、「石油が安い今の内に1年後の石油を確保しちゃえ!」という時にこれが使えるわけです。この取引によって、将来の石油価格の不確実性(=リスク)を抑えられるわけです。
オプション取引についても、その名の通り、「オプション(選択権)」を取引するものです。もう少し具体的に言うと、「将来〇〇円で買う権利」や「将来××円で売る権利」といのを取引します。ここで重要なのは、取引するのは「義務」でなくて「権利」なので、この権利を買った人はその権利を「放棄」することもできるわけです。例えば、また航空会社の石油の例で言うと、「来年1リットル100円で買い取れる権利を今10円で買っとく」という感じでしょうか。
先物と違うのは、「絶対に来年1リットル100円買わなきゃいけない」というわけではなく、もし来年予想に反して石油価格が1リットル50円に値下がりした場合、1リットル100円で買う権利は放棄できるわけです。その代わり、既に払ってしまった10円は返ってきません。一方、もし来年石油価格が1リットル120円に値上がりしていた場合には、既に「石油1リットル100円で買う権利」を持っていますから、その権利を行使して市場価格より割安に石油を仕入れられるわけです。
最後の、「スワップ取引」ですが、これも文字通り「権利をスワップ(交換)」する取引です。最もスタンダードなのが「金利スワップ」なので、その例を説明したいと思いますが、例えばAという会社が今固定金利10%で100万円借りているとして、今後変動金利が5%まで下がると予想しているとします。一方、Bという会社が今変動金利で100万円借りていて、今後変動金利が15%まで上がると予想しているとします。お互い、今後の変動金利に真逆の予想を持っているので、「お互い金利の支払いを交換しませんか?」ということで契約するわけです。金利がどう動くかは分かりませんが、もちろん予想が当たった方は得をして、外れると損をします。まぁ一種のギャンブルですね。
前置きが長くなりましたが話を戻すと、今「金融市場と金融機関」という授業を取っていて、基本的には金融業界で何が起こったかという歴史を追う内容なのですが、なぜか通貨SWAPの計算をさせる課題が出てきました。要は金融市場で今一番ホットなのはデリバティブをどう扱っていくかという問題らしく、歴史や現状を理解するにはまずはデリバティブがどういうものかというのを理解しないと始まらないということのようです。
先ほどの「石油1リットルを1年後に100円で買う権利」という例を出し、超シンプルにこの権利の値段を10円と仮定しましたが、リアルの世界ではこの価格の値段設定が非常に複雑なわけです。1年後なのか、半年後なのか、はたまた1か月後なのかでも変わってきますし、市場が今後の石油価格をどう予想しているのかという心理面もこの価格に影響してくるわけです。
で、デリバティブの何が問題かというと、結局「サイエンスに頼り過ぎた」ということなんですね。このデリバティブの価格などを計算するむちゃくちゃ複雑な計算を理系の物理学とかの博士号を持った人間がコンピューターを使って色々と作り出したわけなんですが、宇宙空間の物理法則と経済が違うのは、「分子は意志を持ってないけど、人間は意志を持っている」ということなんですね。
もう少し噛み砕くと、例えば物理や化学の世界では、水分子Aも水分子Bも基本的には100度になれば気体になるし、0度になれば同じように凍りますが、人間の場合、人間Aと人間Bは全く違う人生観を持っていたり、全く違う性格や体型だったり、違う国籍だったり、色々と全く別の動きをするわけです。でも、このデリバティブの世界ではあたかも物理法則と同じように、「基本的には人間Aも人間Bも同じ性格で、同じように生活していて、同じ価値観を持っていて、同じように動く」と仮定して、全てのモデルを組んじゃっているんですね。
そりゃ、いちいち「人間Aは身長190センチ、体重60キロの控え目な中国人男性」、「人間Bは身長160センチ、体重80キロの陽気なブラジル人」、「人間Cは・・・・」と細かく定義していたら、経済の一般的な理論は導けず、すべての答えが「まぁ、その人によるよね~」になってしまいますから、ある程度経済モデルの中に登場する人間はみな一様に均質化しなければなりませんが、余りにも人間を心のないロボットのように扱い過ぎてしまったのかなと、思うわけです。
こういう今までの経済学や金融理論の欠点を見直す動きが、(特にリーマンショック以降)活発化していて、経済学と「心理学」を融合した「行動経済学」という学問があり、今授業を取っているのですが、非常に興味深いです。また今度、行動経済学について学んだこともここに書きたいと思います。
英語の中で一番難しいのが、「雑談」なんですよね。なんとなく、日本語だと「雑」という字が入っているのでそんなに洗練されたイメージがありませんが、意味をよく考えると、「雑多な」という意味なので、要はトピックが決まっていないということなんですよね。これは非常に難易度が高いです。
逆に、授業の英語などはもう範囲が決められてますから、ある程度予習すれば大体意味は捉えられるわけです。しかも使う単語も、教授や生徒が話していることのトピックも限られてますから。例えば、「為替」についての授業の時に、いきなりレディーガガの最近の動向とか話に出てこないわけです。(たまに教授が脱線することもありますが、基本的には稀ですし、もし脱線したとしても、「関係ないと思ったかもしれないけど、実はこういうことで授業と関係があるんです!」的なテクニックとしての雑談だったりします。)
で、飲み会などでジョークなどが全く分からずついていけないし、話を振られてもうまい返しができないというのが目下の悩みなわけですが、昨日ジムのルームランナーで走りながらコメディー番組を見ていてふと気づいたことがあります。よくよく考えると今までの自分の英語の勉強って、基本的に中学の義務教育から大学受験、さらにTOEICやTOEFL対策に至るまで基本的には「真面目な英語」しか習ってこなかったわけですね。
義務教育でもTOEFLでも「F●CK!」のような言葉は決して出てきませんから。もしTOEICのリスニングでそんなこと出てきてもし聞き取れたとしても、「いや、さすがにF●CKとは言わないだろう。HOOKって言ったんだ多分。」のように恐らく曲解すると思います。日本語に振り返って考えてみると、例えば「あざーっす!」とか外国人の上級日本語スピーカーでも恐らく中々聞き取れたり、使いこなせたりしないですよね。日本に数年暮らしてやっと「あざーす=ありがとうございます」だということが理解できて、さらに敬語を使うべきタイミングや緩い空気のタイミングかどうかを読み取ることができるようになって、初めて「ここぞ!」といういいタイミングで使うことができるようになるんだと思います。
自分が日本語をどう使っているかと考えると、雑談や面白いことを言おうとしている時は、国語の授業で学んだ日本語ではなくて、やはりバラエティ番組やそれこそかつての松本人志などの言葉を知らず知らずのうちに盗んで使っていたりするわけです。至極当たり前のことですが忘れがちな事実、つまり「面白いinput」がないと、「面白いoutput」はできないという事実をはっきりと突きつけられました。
なので、今自分は日本語を話している時は冗談だったり、ブラックジョークを交えて喋るのが好きなのですが、英語を話す時は義務教育やTOEFLで学んだ固い英語表現や単語しか文字通り「吾輩の辞書にない」ので、基本的に「公務員か!」というくらい固い性格の日本人になってしまっています。この日本語を話している時の自分、と英語を話している時の自分のキャラクターのギャップに悩んだりするわけです。「俺は二重人格なのか!?」と。
ちょっと普段の英語での会話がどんなイメージか日本語で表現してみたいと思います。
外人のクラスメイト(以下、外)「おーっす!」
はまづく(以下、は)「ごきげんやう」
外「最近どうよ?」
は「非常に疲労しております。」
外「え、、まじで?、、まぁでも久しぶりの学生生活楽しもうぜ!」
は「あなたの仰ることは理解できます。しかしながら、私はこの機会を最大限有益に利用したいと考えております。」
外「(うわ、固っ!適当に話題変えよ!)まあね、それはあるよね。ところで家族は元気?」
は「家族は元気にしております。」
外「(うわ、オウム返しかよ!)おお、いいね。あ、そういえば今日の夜の飲み会行く?」
は「私は今日の夜の飲み会に行くことを検討していますが、もしかしたら不可能かもしれません。」
外「(良かった~、こいつとまた話すのキツいもんな)残念だね。まぁまた次の機会にでも!じゃ!」
という感じでしょうか。まぁさすがにこんなにひどくはないとは思いますが、イメージとしてはこんな感じです。
そしてたまに外国人のクラスメイトから「Hamaduku(仮名)は他の日本人の友達に聞いたら日本人の中で一番Funnyらしいじゃん!もっと本性見せてよ!」とか言われるわけですが、正直「見せたいのに見せられないのです!自分でもそのギャップに悩んでいるのです!(自分の固英語の直訳版)」というのが本音なのですが、またそういうことを固英語で説明しても「Oh...sorry」的なお通夜的返しがきて話が弾まないのは目に見えてるわけですから、余計に中二病をこじらせて引き籠ってしまうわけです。
ということで、今後のアクションプランとしては、これからは「英語のコメディ番組をもっと見る!」ということにしたいと思います。英語で人を笑わせられるというのが個人的には英語スキルのゴールです。
逆に、授業の英語などはもう範囲が決められてますから、ある程度予習すれば大体意味は捉えられるわけです。しかも使う単語も、教授や生徒が話していることのトピックも限られてますから。例えば、「為替」についての授業の時に、いきなりレディーガガの最近の動向とか話に出てこないわけです。(たまに教授が脱線することもありますが、基本的には稀ですし、もし脱線したとしても、「関係ないと思ったかもしれないけど、実はこういうことで授業と関係があるんです!」的なテクニックとしての雑談だったりします。)
で、飲み会などでジョークなどが全く分からずついていけないし、話を振られてもうまい返しができないというのが目下の悩みなわけですが、昨日ジムのルームランナーで走りながらコメディー番組を見ていてふと気づいたことがあります。よくよく考えると今までの自分の英語の勉強って、基本的に中学の義務教育から大学受験、さらにTOEICやTOEFL対策に至るまで基本的には「真面目な英語」しか習ってこなかったわけですね。
義務教育でもTOEFLでも「F●CK!」のような言葉は決して出てきませんから。もしTOEICのリスニングでそんなこと出てきてもし聞き取れたとしても、「いや、さすがにF●CKとは言わないだろう。HOOKって言ったんだ多分。」のように恐らく曲解すると思います。日本語に振り返って考えてみると、例えば「あざーっす!」とか外国人の上級日本語スピーカーでも恐らく中々聞き取れたり、使いこなせたりしないですよね。日本に数年暮らしてやっと「あざーす=ありがとうございます」だということが理解できて、さらに敬語を使うべきタイミングや緩い空気のタイミングかどうかを読み取ることができるようになって、初めて「ここぞ!」といういいタイミングで使うことができるようになるんだと思います。
自分が日本語をどう使っているかと考えると、雑談や面白いことを言おうとしている時は、国語の授業で学んだ日本語ではなくて、やはりバラエティ番組やそれこそかつての松本人志などの言葉を知らず知らずのうちに盗んで使っていたりするわけです。至極当たり前のことですが忘れがちな事実、つまり「面白いinput」がないと、「面白いoutput」はできないという事実をはっきりと突きつけられました。
なので、今自分は日本語を話している時は冗談だったり、ブラックジョークを交えて喋るのが好きなのですが、英語を話す時は義務教育やTOEFLで学んだ固い英語表現や単語しか文字通り「吾輩の辞書にない」ので、基本的に「公務員か!」というくらい固い性格の日本人になってしまっています。この日本語を話している時の自分、と英語を話している時の自分のキャラクターのギャップに悩んだりするわけです。「俺は二重人格なのか!?」と。
ちょっと普段の英語での会話がどんなイメージか日本語で表現してみたいと思います。
外人のクラスメイト(以下、外)「おーっす!」
はまづく(以下、は)「ごきげんやう」
外「最近どうよ?」
は「非常に疲労しております。」
外「え、、まじで?、、まぁでも久しぶりの学生生活楽しもうぜ!」
は「あなたの仰ることは理解できます。しかしながら、私はこの機会を最大限有益に利用したいと考えております。」
外「(うわ、固っ!適当に話題変えよ!)まあね、それはあるよね。ところで家族は元気?」
は「家族は元気にしております。」
外「(うわ、オウム返しかよ!)おお、いいね。あ、そういえば今日の夜の飲み会行く?」
は「私は今日の夜の飲み会に行くことを検討していますが、もしかしたら不可能かもしれません。」
外「(良かった~、こいつとまた話すのキツいもんな)残念だね。まぁまた次の機会にでも!じゃ!」
という感じでしょうか。まぁさすがにこんなにひどくはないとは思いますが、イメージとしてはこんな感じです。
そしてたまに外国人のクラスメイトから「Hamaduku(仮名)は他の日本人の友達に聞いたら日本人の中で一番Funnyらしいじゃん!もっと本性見せてよ!」とか言われるわけですが、正直「見せたいのに見せられないのです!自分でもそのギャップに悩んでいるのです!(自分の固英語の直訳版)」というのが本音なのですが、またそういうことを固英語で説明しても「Oh...sorry」的なお通夜的返しがきて話が弾まないのは目に見えてるわけですから、余計に中二病をこじらせて引き籠ってしまうわけです。
ということで、今後のアクションプランとしては、これからは「英語のコメディ番組をもっと見る!」ということにしたいと思います。英語で人を笑わせられるというのが個人的には英語スキルのゴールです。
今日も学生時代に書いたブログからリバイバル。
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おはようございます。テストが近づくにつれて気持ちが焦り、勉強がはかどらないというディレンマに襲われている僕です。
勉強がはかどらない時の対処法としては主に二つあって、一つは『散歩したり勉強に関係ない本を読んだりして適度に気分転換をする』という方法ともう一つは『死ぬ』という方法です。
僕はめんどくさがりなので後者を選ぼうと思ったのですが、占いを見ると今日のおひつじ座のラッキー自殺が首吊りだったので首吊りにラッキーもクソもあるかと思ってやめました。
今日は某広告代理店の内定者の友人から課題になっている作文の校正を頼まれました。自分はやっぱりクリエイティビティを発揮する時、楽しいと感じるんだなぁと再認識して死にたくなります。でも今日のおひつじ座のラッキー自殺が僕の嫌いな首吊りだったので思いとどまりました。
今日もその依頼を受けてからというものの、図書館で勉強もせず『面白い』ってどういう時に感じるんだろうということを考えていました。
以下はその時に書き留めたメモです。
・論理の飛躍を感じる時に『面白い』と感じる
・論理的に裏切られた時に『面白い』と感じる
人間というのは生まれてからというものの『論理的に正しく』話すことを家や学校で教えられます。
みんなが論理的に正しく話した方が社会がスムーズに動きやすいので、そうやって論理的に正しく話ができるように人々を教育するわけです。
そんな感じで小1から九年間の義務教育で教えられた論理的思考能力は誰でもいっぱしの力を備えています。
中学を卒業するくらいの歳になれば、大概の人間はちゃんとした論理的な日本語を話すことができるようになります。
でも逆に、人々は正しい論理的思考を用いた日本語にどっぷり浸かって慣れてしまっているので、人々はこれに『面白さ』を感じないんですねぇ。だから、論理的思考が裏切られたところに人々は『新鮮さ』を感じて『面白い』と感じるんだと思います。
例えば『足が臭い』という面白い言葉があります。
これが面白いと感じるのは、『足→臭い』というところに論理的飛躍があるからだと思います。
大概の人は足に対して、『歩く』や『走る』といった機能を期待していますが、足に対して『匂いを発する機能』は全く期待されていません。
つまり、足が臭いということは論理的に考えて意味がないのです。ナンセンスなのです。
例えば逆に『トイレが臭い』のは理に適っているのでまったく面白くもありません。
この論理の飛躍には次のような例もあります。
『あいつは天パーのくせに流暢な英語を話しやがる』
『あいつはハゲのくせに暗算が早い』
この場合も『天パー→流暢な英語』、『ハゲ→暗算が早い』といった矢印の流れに全く持って論理的な説明がないので面白いと感じてしまいます。
みなさんもご承知の通り、髪質や髪型は言語取得能力とは一切無関係ですし、計算能力とも無関係です。髪がストレートの人の方が英語を飲み込むスピードが速いというのは聞いたことがありませんし、ハゲは暗算が遅いということも聞いたことがありません。
このような論理的な飛躍または裏切り、誤りがある時に面白みを感じてしまうのではないでしょうか。
『こちらのうんこをご覧ください』
という言葉も少し面白いです。
これは『うんこ』という下劣な言葉と『ご覧ください』という高貴な言葉のギャップに面白みが含まれていると思います。 基本的に学校ではうんこに対して敬語を使うようには習っていませんからね。
また普通に論理的に考えればうんこはあまり見せたくないものですし、『このうんこを見ろ!』と他人に強要するものでもありません。そういった論理的に正しい行為を裏切っているという点でもこの言葉に面白みを感じてしまうのでしょう。
また、先ほど私が述べた『今日のおひつじ座のラッキー自殺』という言葉にも多くの論理的トラップが隠されています。
そのトラップを列挙するならば、
・普通、占いは今日死のうとしている人をターゲットにはしていない
・死んでしまったらラッキーもクソもない
・自殺志願者はその日の占いなど気にしない
等々です。
この論理的整合性の欠けた文に私は面白みを感じます。
そして、すでに、この文章自体が『笑い』について『真面目』に分析している時点でギャップがあり、面白みを含んでいます。
さぁ、みなさんもどんどん論理的に間違っていきましょう!
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おはようございます。テストが近づくにつれて気持ちが焦り、勉強がはかどらないというディレンマに襲われている僕です。
勉強がはかどらない時の対処法としては主に二つあって、一つは『散歩したり勉強に関係ない本を読んだりして適度に気分転換をする』という方法ともう一つは『死ぬ』という方法です。
僕はめんどくさがりなので後者を選ぼうと思ったのですが、占いを見ると今日のおひつじ座のラッキー自殺が首吊りだったので首吊りにラッキーもクソもあるかと思ってやめました。
今日は某広告代理店の内定者の友人から課題になっている作文の校正を頼まれました。自分はやっぱりクリエイティビティを発揮する時、楽しいと感じるんだなぁと再認識して死にたくなります。でも今日のおひつじ座のラッキー自殺が僕の嫌いな首吊りだったので思いとどまりました。
今日もその依頼を受けてからというものの、図書館で勉強もせず『面白い』ってどういう時に感じるんだろうということを考えていました。
以下はその時に書き留めたメモです。
・論理の飛躍を感じる時に『面白い』と感じる
・論理的に裏切られた時に『面白い』と感じる
人間というのは生まれてからというものの『論理的に正しく』話すことを家や学校で教えられます。
みんなが論理的に正しく話した方が社会がスムーズに動きやすいので、そうやって論理的に正しく話ができるように人々を教育するわけです。
そんな感じで小1から九年間の義務教育で教えられた論理的思考能力は誰でもいっぱしの力を備えています。
中学を卒業するくらいの歳になれば、大概の人間はちゃんとした論理的な日本語を話すことができるようになります。
でも逆に、人々は正しい論理的思考を用いた日本語にどっぷり浸かって慣れてしまっているので、人々はこれに『面白さ』を感じないんですねぇ。だから、論理的思考が裏切られたところに人々は『新鮮さ』を感じて『面白い』と感じるんだと思います。
例えば『足が臭い』という面白い言葉があります。
これが面白いと感じるのは、『足→臭い』というところに論理的飛躍があるからだと思います。
大概の人は足に対して、『歩く』や『走る』といった機能を期待していますが、足に対して『匂いを発する機能』は全く期待されていません。
つまり、足が臭いということは論理的に考えて意味がないのです。ナンセンスなのです。
例えば逆に『トイレが臭い』のは理に適っているのでまったく面白くもありません。
この論理の飛躍には次のような例もあります。
『あいつは天パーのくせに流暢な英語を話しやがる』
『あいつはハゲのくせに暗算が早い』
この場合も『天パー→流暢な英語』、『ハゲ→暗算が早い』といった矢印の流れに全く持って論理的な説明がないので面白いと感じてしまいます。
みなさんもご承知の通り、髪質や髪型は言語取得能力とは一切無関係ですし、計算能力とも無関係です。髪がストレートの人の方が英語を飲み込むスピードが速いというのは聞いたことがありませんし、ハゲは暗算が遅いということも聞いたことがありません。
このような論理的な飛躍または裏切り、誤りがある時に面白みを感じてしまうのではないでしょうか。
『こちらのうんこをご覧ください』
という言葉も少し面白いです。
これは『うんこ』という下劣な言葉と『ご覧ください』という高貴な言葉のギャップに面白みが含まれていると思います。 基本的に学校ではうんこに対して敬語を使うようには習っていませんからね。
また普通に論理的に考えればうんこはあまり見せたくないものですし、『このうんこを見ろ!』と他人に強要するものでもありません。そういった論理的に正しい行為を裏切っているという点でもこの言葉に面白みを感じてしまうのでしょう。
また、先ほど私が述べた『今日のおひつじ座のラッキー自殺』という言葉にも多くの論理的トラップが隠されています。
そのトラップを列挙するならば、
・普通、占いは今日死のうとしている人をターゲットにはしていない
・死んでしまったらラッキーもクソもない
・自殺志願者はその日の占いなど気にしない
等々です。
この論理的整合性の欠けた文に私は面白みを感じます。
そして、すでに、この文章自体が『笑い』について『真面目』に分析している時点でギャップがあり、面白みを含んでいます。
さぁ、みなさんもどんどん論理的に間違っていきましょう!
前にも書いたかもしれませんが、MBAの元来の存在意義というのは「転職の為の予備校」なんですね。
例えば、日本の例で説明すると、学部で工学部を卒業して、新卒でホンダとかパナソニックの開発部門に入って2-4年くらい働いて、やっぱり開発より営業とかマーケティングとか、経営とかにも携わってみたいなぁと思ったとします。
工学部卒で、エンジニア畑の経験しかない人は基本的に欧米の人事ローテーションシステムでは営業にはいけません。なぜなら、終身雇用を前提としていないので、入社する時に「君は〇〇開発部の△△製品開発室の××という商品の開発のサポートとして採用します!」とはっきりと明確に本人の資質や経験と会社の仕事のニーズをマッチさせて採用するわけです。なので、いきなりエンジニア畑の若手が「自分営業やりたいっす!」といっても、「いや、そういう雇用契約じゃないから」ということですっぱり断られてしまうわけです。
一方、日本の採用は20年以上の長期の雇用を前提とした採用とその後の人事制度に設計されていますから、新卒採用の時には「ポテンシャル」だけを見て(20年先にどんなおっさんやおばはんになってるか22~24歳の段階でわかるもんじゃありませんから)、働く部署もはっきり決めず『君を“総合職”として採用します!』という非常に曖昧な雇用契約を結んで、「まぁどうせ20年以上の長いお付き合いになりますから、配属とか異動とかはゆっくり後で考えましょう」ということで会社と社員は納得しているわけです。
ということで、基本的に終身雇用を前提している国というのは日本と韓国くらいですから、MBAに会社からのスポンサーで来ているのは日本人と韓国人くらいです。あとは、マッキンゼーやBCGといったコンサルタントも会社からスポンサーされている場合もありますが、日本や韓国と違うのは、「留学費用貸してあげるから、もしMBA卒業して戻ってくるなら返さなくていいよ。もし転職するならちゃんと返してね。」という日本よりも“絶対戻って来いよ!”という圧力が弱いことでしょうか。しかも、会社側が「あ、ごめん。君は戻って来なくていいからお金ちゃんと返してね。」とも言いうるというところも違うところでしょうか。
ということで、前置きが長くなりましたが、勉強と共に就職活動もMBA生活の一つの大きなポーションを占めるわけです。というか、就職活動の方が本来的な目的ですから、下手するといい大学のMBAに入学してさえしまえばあまり勉強しなくても大手の会社から声がかかるので、「パーティースクール」と揶揄される学校もいくつかあり、毎晩どこかしらでパーティ、パーティーと飲み歩いてる学生ばかりの学校もあるくらいです。
良く就職活動で言われるのが、①「自分がやりたいこと」、②「自分がやれること」、③「自分が価値を提供できること」の三つが重なったところが、「天職」になるという公式です。これにそって、今回は自分の思考を少し整理していきたいと思います。
まず、①「自分がやりたいこと」ですが、勉強していく中で、やはり経済学や金融、またその歴史について勉強するのが好きなのかなぁという思いを強くしています。これは前々から気付いていましたが、最終的にはマクロ経済に働きかけられるような存在になれたらいいなぁとか壮大な夢を持っています。そう考えると、まぁ日銀総裁とか大臣とか内閣参与の経済学者とかが夢の仕事になってくるのかなぁと。
続いて、②「自分がやれること」と③「価値を提供できること」ですが、これが正直問題で上記の壮大な「自分がやりたいこと」と残念ながらかい離し過ぎているんですね。まぁ30歳そこそこでいきなり日銀総裁とか大臣とか内閣参与になれる人っていうのはいないでしょうから悲観することでもないでしょうが、少なくともそこに至る道の途上にはいる必要があるとは思うわけです。果たして自分には何ができるんでしょうか。多少の英語と多少の経済学やファイナンスの知識、海外経験がある程度で、客観的に自分を分析すると能力も経験も非常に中途半端なことに気づくわけです。
こういう現状認識の下、目下手をつけるべきアクションプランとしては②と③を①に近づけるべく、①につながるような勉強と経験を増やすしかないわけです。そうすると、今ファイナンス系の授業ばかり取っていることと、英語の勉強に時間を割いていることはなんとなく①に繋がるところにちゃんと自分を置けている気がします。また、先日証券アナリストの試験も受けてみようと思い立って通信講座を申し込んだので、これも①に向かう途上に一応乗っているのかなぁと。
そして、今出来ることのもう一つ大きなイベントでよりグイッと力強く①に進む為の近道としては、やはりキャリアチェンジの検討というのがあるわけです。「日銀に転職する?」「証券会社かシンクタンクにアナリストとして転職する?」、はたまた「博士号取りに行く?」などなど。
しかしながら、これらへの転職を検討する際に考慮しなければならないのは、MBAに行くことによって発生してしまったコスト(負債)の「約4,000万円(=学費約1,000万円+生活費800万円+機会費用(2年間の給料)約2,000万円)」を取り返すことができるのか?ということ。もし転職した後、今の年収よりも+1,000万円稼げるとしても、単純に4年間はこの負債の返済に費やさねばならないわけですからかなりの覚悟が必要です。
(そもそもリーマンショック前の外資銀行ならいざしらず、今のご時世中々年収+1,000万円アップするような職種はないと思いますが。。少なくとも日銀はそんなにバブリーではないし、日系の証券会社やシンクタンクも一般的な年収でしょうし(本を出版してベストセラーになったり、テレビにコメンテーターとして出演しまくらない限りは)、唯一年収+1,000万円の可能性があるのは外資銀行のアナリストくらいでしょうか??)
さらに、もし年収が下がるようものなら働けば働くほど負債(転職したことによる金銭的な損失)が増えていくわけです。そう思うと、この「金銭的負債(損失)」を上回るような「遣り甲斐」とか「夢の実現」とかお金で買えないプラスの価値があるかどうかを深く検討して天秤にかける必要があるわけです。
正直今の段階では4,000万円を賭ける価値のある夢や天職があるのかというと、残念ながらまだ見つかっていないのかなぁと思っています。ただ、これはまだ完全に感覚的な結論なので、今年はちゃんと就職活動をして、説明会や面接も受けて、自分の市場価値を知ったり、噂だけでなくて実際自分の目で見て確かめてみたいと思います。
新卒の時の経験を踏まえると、就職活動の深さがその後の仕事へのモチベーションにも繋がると思うので、人生一度きりですし、就職活動するだけならNo Riskですから、色々とチャレンジしてみようかなぁと思っています。
例えば、日本の例で説明すると、学部で工学部を卒業して、新卒でホンダとかパナソニックの開発部門に入って2-4年くらい働いて、やっぱり開発より営業とかマーケティングとか、経営とかにも携わってみたいなぁと思ったとします。
工学部卒で、エンジニア畑の経験しかない人は基本的に欧米の人事ローテーションシステムでは営業にはいけません。なぜなら、終身雇用を前提としていないので、入社する時に「君は〇〇開発部の△△製品開発室の××という商品の開発のサポートとして採用します!」とはっきりと明確に本人の資質や経験と会社の仕事のニーズをマッチさせて採用するわけです。なので、いきなりエンジニア畑の若手が「自分営業やりたいっす!」といっても、「いや、そういう雇用契約じゃないから」ということですっぱり断られてしまうわけです。
一方、日本の採用は20年以上の長期の雇用を前提とした採用とその後の人事制度に設計されていますから、新卒採用の時には「ポテンシャル」だけを見て(20年先にどんなおっさんやおばはんになってるか22~24歳の段階でわかるもんじゃありませんから)、働く部署もはっきり決めず『君を“総合職”として採用します!』という非常に曖昧な雇用契約を結んで、「まぁどうせ20年以上の長いお付き合いになりますから、配属とか異動とかはゆっくり後で考えましょう」ということで会社と社員は納得しているわけです。
ということで、基本的に終身雇用を前提している国というのは日本と韓国くらいですから、MBAに会社からのスポンサーで来ているのは日本人と韓国人くらいです。あとは、マッキンゼーやBCGといったコンサルタントも会社からスポンサーされている場合もありますが、日本や韓国と違うのは、「留学費用貸してあげるから、もしMBA卒業して戻ってくるなら返さなくていいよ。もし転職するならちゃんと返してね。」という日本よりも“絶対戻って来いよ!”という圧力が弱いことでしょうか。しかも、会社側が「あ、ごめん。君は戻って来なくていいからお金ちゃんと返してね。」とも言いうるというところも違うところでしょうか。
ということで、前置きが長くなりましたが、勉強と共に就職活動もMBA生活の一つの大きなポーションを占めるわけです。というか、就職活動の方が本来的な目的ですから、下手するといい大学のMBAに入学してさえしまえばあまり勉強しなくても大手の会社から声がかかるので、「パーティースクール」と揶揄される学校もいくつかあり、毎晩どこかしらでパーティ、パーティーと飲み歩いてる学生ばかりの学校もあるくらいです。
良く就職活動で言われるのが、①「自分がやりたいこと」、②「自分がやれること」、③「自分が価値を提供できること」の三つが重なったところが、「天職」になるという公式です。これにそって、今回は自分の思考を少し整理していきたいと思います。
まず、①「自分がやりたいこと」ですが、勉強していく中で、やはり経済学や金融、またその歴史について勉強するのが好きなのかなぁという思いを強くしています。これは前々から気付いていましたが、最終的にはマクロ経済に働きかけられるような存在になれたらいいなぁとか壮大な夢を持っています。そう考えると、まぁ日銀総裁とか大臣とか内閣参与の経済学者とかが夢の仕事になってくるのかなぁと。
続いて、②「自分がやれること」と③「価値を提供できること」ですが、これが正直問題で上記の壮大な「自分がやりたいこと」と残念ながらかい離し過ぎているんですね。まぁ30歳そこそこでいきなり日銀総裁とか大臣とか内閣参与になれる人っていうのはいないでしょうから悲観することでもないでしょうが、少なくともそこに至る道の途上にはいる必要があるとは思うわけです。果たして自分には何ができるんでしょうか。多少の英語と多少の経済学やファイナンスの知識、海外経験がある程度で、客観的に自分を分析すると能力も経験も非常に中途半端なことに気づくわけです。
こういう現状認識の下、目下手をつけるべきアクションプランとしては②と③を①に近づけるべく、①につながるような勉強と経験を増やすしかないわけです。そうすると、今ファイナンス系の授業ばかり取っていることと、英語の勉強に時間を割いていることはなんとなく①に繋がるところにちゃんと自分を置けている気がします。また、先日証券アナリストの試験も受けてみようと思い立って通信講座を申し込んだので、これも①に向かう途上に一応乗っているのかなぁと。
そして、今出来ることのもう一つ大きなイベントでよりグイッと力強く①に進む為の近道としては、やはりキャリアチェンジの検討というのがあるわけです。「日銀に転職する?」「証券会社かシンクタンクにアナリストとして転職する?」、はたまた「博士号取りに行く?」などなど。
しかしながら、これらへの転職を検討する際に考慮しなければならないのは、MBAに行くことによって発生してしまったコスト(負債)の「約4,000万円(=学費約1,000万円+生活費800万円+機会費用(2年間の給料)約2,000万円)」を取り返すことができるのか?ということ。もし転職した後、今の年収よりも+1,000万円稼げるとしても、単純に4年間はこの負債の返済に費やさねばならないわけですからかなりの覚悟が必要です。
(そもそもリーマンショック前の外資銀行ならいざしらず、今のご時世中々年収+1,000万円アップするような職種はないと思いますが。。少なくとも日銀はそんなにバブリーではないし、日系の証券会社やシンクタンクも一般的な年収でしょうし(本を出版してベストセラーになったり、テレビにコメンテーターとして出演しまくらない限りは)、唯一年収+1,000万円の可能性があるのは外資銀行のアナリストくらいでしょうか??)
さらに、もし年収が下がるようものなら働けば働くほど負債(転職したことによる金銭的な損失)が増えていくわけです。そう思うと、この「金銭的負債(損失)」を上回るような「遣り甲斐」とか「夢の実現」とかお金で買えないプラスの価値があるかどうかを深く検討して天秤にかける必要があるわけです。
正直今の段階では4,000万円を賭ける価値のある夢や天職があるのかというと、残念ながらまだ見つかっていないのかなぁと思っています。ただ、これはまだ完全に感覚的な結論なので、今年はちゃんと就職活動をして、説明会や面接も受けて、自分の市場価値を知ったり、噂だけでなくて実際自分の目で見て確かめてみたいと思います。
新卒の時の経験を踏まえると、就職活動の深さがその後の仕事へのモチベーションにも繋がると思うので、人生一度きりですし、就職活動するだけならNo Riskですから、色々とチャレンジしてみようかなぁと思っています。
学校の授業だけだと基本的に教授の話すことへのListeningばかりで、Speakingの機会が限られるので、大学が提供するInternational Student向けの英会話の教室に月~木通っていますが、残念ながら週末には開講されていないので、金曜日だけ校外の「Lifelong」というパブリックセンターが提供する無料の英会話教室に行くことにしました。
今日が初めての回だったのですが、いきなり先生のドタキャン。「出た出た。。。日本ではありえないやつ。。」と思いましたが、無料の教室なのでしょうがないかと諦めて帰ろうとしたところ、一緒に受けるはずだったイタリア人のおばちゃん(恐らく50代後半から60代前半)が「もし時間あるなら折角来たし英会話しません?」と誘ってくれたので、時間も空けてあったし話すことにしました。
おばちゃんはイタリアでは病院でアルコール中毒や薬物中毒の患者のカウンセラーとして働いていたそうですが、たまたま隣に引っ越してきたアメリカ人とお互いの言語を教えあうことになったそうで、今回そのアメリカ人がアメリカのホームステイ先を紹介してくれたということで、上司に頼んで3か月だけ休みをもらい、期間限定で短期留学しているとのことでした。
カウンセラーの仕事に英語が必要なのかは聞き忘れましたが、その年で向学心があって偉いなぁと感心した次第です。中々普通に生活しているとイタリア人のおばちゃんとそんなにマンツーマンで話す機会もないので、ベルルスコーニについてなど色々と一イタリア庶民の声を聞いてみることにしました。面白い話がたくさん聞けたのでここに書いておこうと思います。
まず、イタリア経済やばいですよねという話を振ってみました。すると、「そうなのよ、、、」と始まりました。まず何がやばいって、不法移民が東ヨーロッパ、さらには北アフリカからどんどん流れ込んでいると。イタリアは地中海挟んでアフリカに面してますから、ボートに乗って沢山の戦争難民や職を求めた貧民がイタリアに命がけで渡ってくるそうです。
毎年沢山の移民が地中海でイタリアまで到達できずに死んでいるそうですが、運よくイタリアまで上陸できても結局職もなく、犯罪に手を染めるので非常に治安が悪くなっていると。これはイタリアだけの問題だけでなくて、ヨーロッパ全体の問題よ!と言っていました。日本も移民受け入れには慎重にならねばならんなと思いました。
また、中国人の移民も増えているそうです。イタリアの彼女の家の近くの工業地帯では中国の会社のどデカい倉庫が立ち並び、沢山の中国人が働いていて、そこは小さい中国のようになっているそうです。昨日のブログじゃないですが、ここでもやっぱり中国かと。。やはりグローバリゼーションブームで国境がどんどん取り払われてしまって、もっとも割りを食ったのは先進国で富を独占していた国民なんですよね。どんどんその富に貧しい国の国民が引き寄せられて、その国の国民と職を奪い合い、賃金レベルを下げてしまったわけです。間違いなくこれがデフレの大きな原因の一つですよ。
移民がその国に直接的に入って来なかったとしても、結局トヨタなどの大企業がこぞって中国に工場を作り始めたように、海外生産を賃金の安い地域で始めてしまうとその分先進国内の雇用は奪われてしまうわけですよね。先進国と後進国の経済格差は縮まるので、かつての“南北問題”は解決に向かう方向に進むのでしょうが、かつて先進国の守られた壁の中でぬくぬくと生きてきたフリーライダーたちは今後どんどん生活が厳しくなるものと思われるわけです。
次に彼女が言っていたのが、マフィアの問題です。1990~2000年の間に陪審員や裁判官をマフィアが暗殺しまくったそうで、マフィアが怖すぎて司法制度と警察がうまく機能していないらしいのです。一応、その後マフィアの大ボスたちを捕まえて粛清を図りつつあるそうなのですが、マフィアの怖さが社会に浸透しすぎて、イタリア国民はマフィアの悪事の情報を掴んだり、目撃しても決して告発したり、証言したりしないそうなので、中々捕まえられないというのが根源にあるとのおばちゃん談。ということで、イタリア国民のマインドから変えるべく、教育改革に取り組んでいるがそれには時間がかかるだろうとのおばちゃん意見。
そして詳しくはわかりませんが、マフィアが各商店に幅を利かせているので、中々フェアなビジネスができないそうで、もしマフィアの脅威がイタリアから取り除かれればもっとイタリア経済は効率的に成長するだろうとのおばちゃん談。日本にもヤクザはいますが、それでも治安は比較的非常に良くて経済は基本的にはフェアに回っているわけで、これも日本にいると中々有難みを感じにくいですが、イタリア人のこのマフィアの話を聞くと、なるほどなぁと考えさせられました。
続いて、ベルルスコーニについて。やっぱり国民はベルルスコーニが嫌いみたいです。最初は話が面白いし、「俺はビジネスの成功者だ!俺についてくれば大丈夫!」と大風呂敷を広げるので国民は信じてしまったそうですが(麻生〇郎のもうちょっと豪快版ですかね。)、蓋を開ければ私利私欲の為にしか動かず、公約を守らないので嘘つき呼ばわりされているそうです。しかしながら、やはりベルルスコーニが経済を独占してしまっているので、中々彼を止められる人がおらず、むしろ賄賂を渡して取り入ろうとする人ばかりらしく、この政治腐敗というのもマフィアや移民と同様イタリアの大きな問題の一つだと、おばちゃん憤っておりました。今は若い政党が政権をとっているが、連立政権なのであまりうまく国会が回っておらず、その内ベルルスコーニの服役が終わればまた首相の地位に戻ってくるんじゃないかというのがおばちゃん予想。
あとは、おばちゃんの息子の話ですが、今23歳でフランスのソルボンヌ大学に留学中とのこと。高校時代にはアメリカにも1年留学させていて、やはりイタリアでは職探しが難しいので国外でそろそろ職探しを始める予定とのこと。いやはや、日本でも同じですが、もはや英語力や海外経験がないと中々良い職にはありつけなくなっているわけです。前述の通り、今後は先進国内での格差が問題として大きくなってくるでしょうね。アメリカでも中南米からの不法移民に悩んでいますが、ちょっと移民には要注意ですね。
自分も色々と質問をされて日本の話や自分の話をしましたのが、最後に一つ聞かせてと言われたのがフクシマの件でした。やはり世界中で未だに関心が高いのはフクシマの原子力汚染の件なんですね。確かに、チェルノブイリの事件もかなり長い間日本でニュースになっていた気がします。あまり言われなくなったのは、10年以上経ったあとではないでしょうか。
ということで、テレビや新聞からは分からない生の声は非常に興味深いですね。また何かあれば書いていきたいと思います。今グリーンマイルに出てきた黒人のようにごっついボツワナ人とルームシェアしているので次はボツワナについても色々聞いてみたいと思います。
今日が初めての回だったのですが、いきなり先生のドタキャン。「出た出た。。。日本ではありえないやつ。。」と思いましたが、無料の教室なのでしょうがないかと諦めて帰ろうとしたところ、一緒に受けるはずだったイタリア人のおばちゃん(恐らく50代後半から60代前半)が「もし時間あるなら折角来たし英会話しません?」と誘ってくれたので、時間も空けてあったし話すことにしました。
おばちゃんはイタリアでは病院でアルコール中毒や薬物中毒の患者のカウンセラーとして働いていたそうですが、たまたま隣に引っ越してきたアメリカ人とお互いの言語を教えあうことになったそうで、今回そのアメリカ人がアメリカのホームステイ先を紹介してくれたということで、上司に頼んで3か月だけ休みをもらい、期間限定で短期留学しているとのことでした。
カウンセラーの仕事に英語が必要なのかは聞き忘れましたが、その年で向学心があって偉いなぁと感心した次第です。中々普通に生活しているとイタリア人のおばちゃんとそんなにマンツーマンで話す機会もないので、ベルルスコーニについてなど色々と一イタリア庶民の声を聞いてみることにしました。面白い話がたくさん聞けたのでここに書いておこうと思います。
まず、イタリア経済やばいですよねという話を振ってみました。すると、「そうなのよ、、、」と始まりました。まず何がやばいって、不法移民が東ヨーロッパ、さらには北アフリカからどんどん流れ込んでいると。イタリアは地中海挟んでアフリカに面してますから、ボートに乗って沢山の戦争難民や職を求めた貧民がイタリアに命がけで渡ってくるそうです。
毎年沢山の移民が地中海でイタリアまで到達できずに死んでいるそうですが、運よくイタリアまで上陸できても結局職もなく、犯罪に手を染めるので非常に治安が悪くなっていると。これはイタリアだけの問題だけでなくて、ヨーロッパ全体の問題よ!と言っていました。日本も移民受け入れには慎重にならねばならんなと思いました。
また、中国人の移民も増えているそうです。イタリアの彼女の家の近くの工業地帯では中国の会社のどデカい倉庫が立ち並び、沢山の中国人が働いていて、そこは小さい中国のようになっているそうです。昨日のブログじゃないですが、ここでもやっぱり中国かと。。やはりグローバリゼーションブームで国境がどんどん取り払われてしまって、もっとも割りを食ったのは先進国で富を独占していた国民なんですよね。どんどんその富に貧しい国の国民が引き寄せられて、その国の国民と職を奪い合い、賃金レベルを下げてしまったわけです。間違いなくこれがデフレの大きな原因の一つですよ。
移民がその国に直接的に入って来なかったとしても、結局トヨタなどの大企業がこぞって中国に工場を作り始めたように、海外生産を賃金の安い地域で始めてしまうとその分先進国内の雇用は奪われてしまうわけですよね。先進国と後進国の経済格差は縮まるので、かつての“南北問題”は解決に向かう方向に進むのでしょうが、かつて先進国の守られた壁の中でぬくぬくと生きてきたフリーライダーたちは今後どんどん生活が厳しくなるものと思われるわけです。
次に彼女が言っていたのが、マフィアの問題です。1990~2000年の間に陪審員や裁判官をマフィアが暗殺しまくったそうで、マフィアが怖すぎて司法制度と警察がうまく機能していないらしいのです。一応、その後マフィアの大ボスたちを捕まえて粛清を図りつつあるそうなのですが、マフィアの怖さが社会に浸透しすぎて、イタリア国民はマフィアの悪事の情報を掴んだり、目撃しても決して告発したり、証言したりしないそうなので、中々捕まえられないというのが根源にあるとのおばちゃん談。ということで、イタリア国民のマインドから変えるべく、教育改革に取り組んでいるがそれには時間がかかるだろうとのおばちゃん意見。
そして詳しくはわかりませんが、マフィアが各商店に幅を利かせているので、中々フェアなビジネスができないそうで、もしマフィアの脅威がイタリアから取り除かれればもっとイタリア経済は効率的に成長するだろうとのおばちゃん談。日本にもヤクザはいますが、それでも治安は比較的非常に良くて経済は基本的にはフェアに回っているわけで、これも日本にいると中々有難みを感じにくいですが、イタリア人のこのマフィアの話を聞くと、なるほどなぁと考えさせられました。
続いて、ベルルスコーニについて。やっぱり国民はベルルスコーニが嫌いみたいです。最初は話が面白いし、「俺はビジネスの成功者だ!俺についてくれば大丈夫!」と大風呂敷を広げるので国民は信じてしまったそうですが(麻生〇郎のもうちょっと豪快版ですかね。)、蓋を開ければ私利私欲の為にしか動かず、公約を守らないので嘘つき呼ばわりされているそうです。しかしながら、やはりベルルスコーニが経済を独占してしまっているので、中々彼を止められる人がおらず、むしろ賄賂を渡して取り入ろうとする人ばかりらしく、この政治腐敗というのもマフィアや移民と同様イタリアの大きな問題の一つだと、おばちゃん憤っておりました。今は若い政党が政権をとっているが、連立政権なのであまりうまく国会が回っておらず、その内ベルルスコーニの服役が終わればまた首相の地位に戻ってくるんじゃないかというのがおばちゃん予想。
あとは、おばちゃんの息子の話ですが、今23歳でフランスのソルボンヌ大学に留学中とのこと。高校時代にはアメリカにも1年留学させていて、やはりイタリアでは職探しが難しいので国外でそろそろ職探しを始める予定とのこと。いやはや、日本でも同じですが、もはや英語力や海外経験がないと中々良い職にはありつけなくなっているわけです。前述の通り、今後は先進国内での格差が問題として大きくなってくるでしょうね。アメリカでも中南米からの不法移民に悩んでいますが、ちょっと移民には要注意ですね。
自分も色々と質問をされて日本の話や自分の話をしましたのが、最後に一つ聞かせてと言われたのがフクシマの件でした。やはり世界中で未だに関心が高いのはフクシマの原子力汚染の件なんですね。確かに、チェルノブイリの事件もかなり長い間日本でニュースになっていた気がします。あまり言われなくなったのは、10年以上経ったあとではないでしょうか。
ということで、テレビや新聞からは分からない生の声は非常に興味深いですね。また何かあれば書いていきたいと思います。今グリーンマイルに出てきた黒人のようにごっついボツワナ人とルームシェアしているので次はボツワナについても色々聞いてみたいと思います。
アメリカで授業を受け始めて約1ヶ月経ち、もう一つ重要なことに気付いたので書いておきたいと思います。
ヨーロッパの学校より中国人の生徒が圧倒的に多い!!!!!
今履修しているいくつかのクラスの教授は中国人なのですが、それらのクラスには特に中国人の学生が多い!パッと見クラスの半分くらい中国人なんじゃないかと思います。
正直これは脅威を感じざるを得ません。中国のMBAに来てるんだっけ?と錯覚しそうになる程です。強い中国訛りの英語ももはや数年後にはアメリカの標準語になってしまうのでは、、、と。
さすがにそれは言い過ぎかもしれませんが、中国人が12億人でアメリカ人が3億人なので4倍いますから、中国訛り英語を話す人口の方がそのうち抜くんじゃないかと。(3億人のアメリカ人の中には中国人移民も含んでるからもう抜いてるかも。。)
授業の後に、英会話教室にも通っているのですが、ここでも1クラス10人くらいの中にどの曜日のクラスも4~5人中国人がいます。アメリカにいるのに中国人の自己紹介をたくさん聞いたので中国にも詳しくなりました。笑
そして今、MBAなどの留学にきている中国人の学生のうち数人はまた将来アメリカの大学の教授になったりして芋ズル式に今後も中国人留学生が増えて行くんだろうなぁと思います。
中国政府がアメリカに「中国とアメリカの二国で世界を統治しないか?」と打診したらしいですが、実際近い将来そうなりそうですね。日本はその間でどう振る舞うのか。中々難しい舵取りかもしれませんが、逆に中国とは地理的にも文化的にも近く、尖閣諸島や竹島の問題など戦後の残渣がありますが、なんだかんだアメリカにいると「アジア系」ということで日中韓の学生は仲良くなりやすいので、チャンスとも言えるかもしれません。
大学卒業直前に書いていたブログを転載。今と使っている脳みそが違い過ぎる。
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以前、『10日間で男を上手にフル方法』という映画がありましたが、僕はこれを見て、男をフルのに10日間もいらないなぁと思いました。
僕が思うに、ちゃんと男に嫌いになってもらえるような、そして百年の恋も醒ますことができるような行動や仕草、攻撃や体の動き、踊り、または呪いや髪型やSTO(エスティーオー:小川直也の必殺技、スペーストルネード小川の通称)等を習得すれば、例え三日でも一日でも、はたまた一瞬でも男を上手にフルこと、いや、フラせることはできます。
ということで今日の日記は、男視点での『彼女にこれをされたら一瞬で覚める!』という女性のちょっとした行動やちょっとした仕草、ちょっとしたSTO(エスティーオー:小川直也の必殺技、スペーストルネード小川の愛称。この技でかつて最大のライバルであった故・橋本真也氏を何度もマットに沈めた。でも実はただの大外刈り。)を僕の独断と偏見でランキング形式でお送りしたいと思います。
第三位
『おばあちゃんの遺骨ボリボリ』
これはその名の通り、彼とお墓参りに行った際に彼のおばあちゃんの墓石に豪快にタックルを決め、墓石を倒し、中にあるおばあちゃんの遺骨をボリボリ食べまくるというテクニックです。
女性のこのような仕草に大半の男性は嫌悪感を抱き、不信感を持つようになるでしょう。
このテクニックは彼がおばあちゃん子であればあるほど効果を発揮しますが、もし万一彼がおじいちゃん子であった場合でも、普通に人として最低の行為なので相手の心に深いダメージを与えることができ、効果は絶大です。
ただしこのテクニックは、“墓荒らし”として社会から抹殺される可能性も多分に含んでいるため、ハイリスクハイリターンの上級テクニックと言えるでしょう。
このテクニックを使用する際は周囲に家政婦や金田一少年がいないか等、十分確認した上で行うことをお勧めします。
第二位
『ペットの首ポキポキ』
これも読んで字の如く、彼氏とのデート中、散歩中の犬などのペットとすれ違うたびに全ての動物にチョークスリーパーをかけて“落とす”という高尚なテクニックです。
このような女性のちょっとした仕草でも簡単に男性を引かせることができます。
このテクニックも彼氏が動物好きであればあるほど大きな効果を得られますし、さらに彼が動物愛護団体に所属している場合、オプションとして訴訟沙汰に持ち込むことも可能です。
また、例え犬嫌いや動物嫌いの彼氏であっても、道行く動物を全て仕留めてくれる彼女に対して『ありがとう』とは決して言わないはずです。
逆にありがとうと感謝された場合はそんな面白い彼氏は中々いないので付き合い続けましょう。
ただし、このテクニックを行う際も周りに畑正憲がいないか等、十分な配慮が必要です。
第一位
『虚言ばっかペラペラ』
このテクニックは、口から発すること全て、何から何まで何一つ真実を語らないというテクニックです。
このテクニックも熟練した高度な技が必要ですので、ビギナーの方はまず、『私のお父さん宍戸錠に似てるんだ』や『昨日代官山でタモリ見ちゃった』など、別に敢えてつかなくてもいい嘘からつき始めてみましょう。
虚言中級者の方は先程の例で言えば、
『私のお父さんタモリなんだけど宍戸錠に似てるんだ』
といったように、彼氏が『え??』と一瞬たじろぐくらいの嘘から始めてみましょう。これくらいの嘘から次第に彼氏はあなたのことを“掴み所のない人間”と認識し始めるでしょう。
虚言上級者の方はもはや論理というものを一切無視して、会話をしてみてください。次に模範例を示してみましょう。
模範例
『私のお父さん、てゆーか実際にはお母さん、タモリのドイツ軍スパイなんだけどアルカポネみたいな動きしたら眉間から納豆みたいなカドミウム出てきて最終的にはフェニックスになって大空に飛び立って行ったわ!大きくなりますように!』
ここまで論理的に誤れるようになればしめたものです。彼氏は完全に狼狽し、あなたを精神病院へといざなってくれることでしょう。
いかがでしたでしょうか?女性にはなかなか理解しにくい部分もあったのではないでしょうか?しかし、実は女性よりも男性の方が繊細なのです。男性は一見見ていないようで彼女のこういった小さな仕草まで見ているのです。
彼氏と別れたいけど別れ方がわからないというそこのあなた。どうぞお試しあれ♪
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以前、『10日間で男を上手にフル方法』という映画がありましたが、僕はこれを見て、男をフルのに10日間もいらないなぁと思いました。
僕が思うに、ちゃんと男に嫌いになってもらえるような、そして百年の恋も醒ますことができるような行動や仕草、攻撃や体の動き、踊り、または呪いや髪型やSTO(エスティーオー:小川直也の必殺技、スペーストルネード小川の通称)等を習得すれば、例え三日でも一日でも、はたまた一瞬でも男を上手にフルこと、いや、フラせることはできます。
ということで今日の日記は、男視点での『彼女にこれをされたら一瞬で覚める!』という女性のちょっとした行動やちょっとした仕草、ちょっとしたSTO(エスティーオー:小川直也の必殺技、スペーストルネード小川の愛称。この技でかつて最大のライバルであった故・橋本真也氏を何度もマットに沈めた。でも実はただの大外刈り。)を僕の独断と偏見でランキング形式でお送りしたいと思います。
第三位
『おばあちゃんの遺骨ボリボリ』
これはその名の通り、彼とお墓参りに行った際に彼のおばあちゃんの墓石に豪快にタックルを決め、墓石を倒し、中にあるおばあちゃんの遺骨をボリボリ食べまくるというテクニックです。
女性のこのような仕草に大半の男性は嫌悪感を抱き、不信感を持つようになるでしょう。
このテクニックは彼がおばあちゃん子であればあるほど効果を発揮しますが、もし万一彼がおじいちゃん子であった場合でも、普通に人として最低の行為なので相手の心に深いダメージを与えることができ、効果は絶大です。
ただしこのテクニックは、“墓荒らし”として社会から抹殺される可能性も多分に含んでいるため、ハイリスクハイリターンの上級テクニックと言えるでしょう。
このテクニックを使用する際は周囲に家政婦や金田一少年がいないか等、十分確認した上で行うことをお勧めします。
第二位
『ペットの首ポキポキ』
これも読んで字の如く、彼氏とのデート中、散歩中の犬などのペットとすれ違うたびに全ての動物にチョークスリーパーをかけて“落とす”という高尚なテクニックです。
このような女性のちょっとした仕草でも簡単に男性を引かせることができます。
このテクニックも彼氏が動物好きであればあるほど大きな効果を得られますし、さらに彼が動物愛護団体に所属している場合、オプションとして訴訟沙汰に持ち込むことも可能です。
また、例え犬嫌いや動物嫌いの彼氏であっても、道行く動物を全て仕留めてくれる彼女に対して『ありがとう』とは決して言わないはずです。
逆にありがとうと感謝された場合はそんな面白い彼氏は中々いないので付き合い続けましょう。
ただし、このテクニックを行う際も周りに畑正憲がいないか等、十分な配慮が必要です。
第一位
『虚言ばっかペラペラ』
このテクニックは、口から発すること全て、何から何まで何一つ真実を語らないというテクニックです。
このテクニックも熟練した高度な技が必要ですので、ビギナーの方はまず、『私のお父さん宍戸錠に似てるんだ』や『昨日代官山でタモリ見ちゃった』など、別に敢えてつかなくてもいい嘘からつき始めてみましょう。
虚言中級者の方は先程の例で言えば、
『私のお父さんタモリなんだけど宍戸錠に似てるんだ』
といったように、彼氏が『え??』と一瞬たじろぐくらいの嘘から始めてみましょう。これくらいの嘘から次第に彼氏はあなたのことを“掴み所のない人間”と認識し始めるでしょう。
虚言上級者の方はもはや論理というものを一切無視して、会話をしてみてください。次に模範例を示してみましょう。
模範例
『私のお父さん、てゆーか実際にはお母さん、タモリのドイツ軍スパイなんだけどアルカポネみたいな動きしたら眉間から納豆みたいなカドミウム出てきて最終的にはフェニックスになって大空に飛び立って行ったわ!大きくなりますように!』
ここまで論理的に誤れるようになればしめたものです。彼氏は完全に狼狽し、あなたを精神病院へといざなってくれることでしょう。
いかがでしたでしょうか?女性にはなかなか理解しにくい部分もあったのではないでしょうか?しかし、実は女性よりも男性の方が繊細なのです。男性は一見見ていないようで彼女のこういった小さな仕草まで見ているのです。
彼氏と別れたいけど別れ方がわからないというそこのあなた。どうぞお試しあれ♪
日本を離れてから、やはり日本(日本語)が恋しくなるもので、週末などは過去のすべらない話やごっつええ感じなどを見たりします。何を隠そう、私は小学生時代から大のダウンタウンファンなのですが、残念ながら最近の松ちゃんのボケにあまり笑えなくなっていることに気づくわけです。
この理由として考えられるのは、①松ちゃんそのものが年をとってつまらなくなった、②自分自身が年を取って色々と経験が増えてしまったのでそんなに簡単に笑えなくなった、と大きく分けて二つあるわけですが、自分自身では②の方はどうにも検証しにくいので、①について考察しようとふと思い立ちました。というか、「最近の松ちゃんなんかいまいちなんだよなぁ、、、」という思いの中で、色々と昔のも最近のも含めてコント等を見ていくと一つの法則に気づいたわけです。
MHK(Matsumoto Hitoshi no Konto)という比較的最近の松ちゃんのコントを例に挙げたいと思います。残念ながらこれも全般的にあまり笑えなかったのですが一つだけ噴き出してしまったコントは唯一浜ちゃんが出演していたコントでした。その中で、MBA的な考え方に毒されている私が気づいたのは、『これはテストマーケティングとその結果を瞬時に市場に生かすという笑いなんだ!』ということでした。
どういうことかというのを噛み砕いていこうと思いますが、まず“松ちゃんの笑い”の質というのは、元来かなりシュールだったり、今までにないinnovativeなものだったり、一見普通の人には中々その価値が分かりにくいものなんです。言うなれば、“ピカソの絵”のようなものです。
そのピカソの絵をガンガン松ちゃんは放り込んでくるわけですが、中々新しすぎて良く分からないことがあるんですね。そして私が思うに、松ちゃん自身もそれが本当に面白いのか疑心暗鬼なところがたまにあるわけです。たまに松ちゃんが、『これおもろいと思うねんけどなぁ…伝わらんかぁ…』みたいなことを言いますが、それです。そして松ちゃんが画家だとすると、言わば“画商”である浜ちゃんの反応が一つのテストマーケティングになっていると思うわけです。浜ちゃんが言う、『それおもろいやん』とか、実際笑いを堪え切れずに笑ってしまうとか、その反応自体が製品(ボケ)開発者である松ちゃんの次の製品(ボケ)開発に即座に生かされるわけです。
ということで、新作の販売→画商の品定め→売れるなら売りまくる、売れなそうならすぐ廃棄という非常に速いマーケティングのサイクルがここに成り立っているのです!!(鼻息荒め)
①松ちゃんがわけのわからないことを言う→浜ちゃんにも分からない場合は『意味わからんねん!』のツッコミで頭を叩き、松ちゃんが苦笑いしてそれはそれで笑いになる
②松ちゃんがわけのわからないことを言う→浜ちゃんも堪え切れずに笑う→松ちゃん、これは売れる作品(ボケ)だと気づき、どんどん畳み込む→爆笑に繋がる
と、大まかに2パターンが成立するわけです。②の場合の方が大爆笑につながりますが、①の場合でもそれはそれで視聴者の「松ちゃんさすがにそれは分からないよ」という気持ちを浜ちゃんが代弁してくれるので、すっきりとした小笑いにはなるわけです。
ということで、最近の松ちゃんの不振は浜ちゃんとのカラミが少なくなっていることなのだというのが、自分の結論です。最近は千原Jr..などとのカラミが多く、浜ちゃんだけでなく今田耕司などとのカラミも減っています。今田耕司などは後輩で唯一松ちゃんにツッコめる、つまり松本人志の画の画商を務められる人材であるわけですが、千原Jr.となるとちょっと後輩過ぎて、松ちゃんに強くツッコめないので画商としては物足りないわけです。
松ちゃんに今必要なのは、「そのボケは分かりにくいから面白くない、そのボケは面白いからもっと広げていこう」と即座に判断して、しかもすぐに本人に強く伝えられる(ここが重要。今の松ちゃん大御所過ぎて、多分後輩がつまんないなぁと思っても松ちゃんに言えない。)人が必要なんだろうなぁと。でないと、『これは面白い商品(ボケ)である!買え!』という士族の商法というか、独りよがりの笑いになってしまうのかなぁと。demandingな日本人の要求に合わせて作った日本の家電製品が海外で売れないのに似ている気がします。つまり、ちゃんと市場のニーズがくみ取れていない為に、そのニーズを商品に反映できていないわけです。
一見、これはテレビの中だけの話のように聞こえますが、普通の人にも当てはまるなぁとも思います。偉くなればなるほど、周囲からツッコまれなくなるので、どんどん独りよがりになっていきます。MBAのリーダーシップの授業でも「accessible」、つまり“近づきやすさ・身近さ”がリーダーの一つの重要な要素だというのを教わりましたが、偉くなったからと言って威圧的に接するのではなく、周囲から分け隔てなく情報が入ってくる状況を作って、自分を常に市場の反応に合わせて微調整していくというのは必要なのだろうなと思った次第です。
この理由として考えられるのは、①松ちゃんそのものが年をとってつまらなくなった、②自分自身が年を取って色々と経験が増えてしまったのでそんなに簡単に笑えなくなった、と大きく分けて二つあるわけですが、自分自身では②の方はどうにも検証しにくいので、①について考察しようとふと思い立ちました。というか、「最近の松ちゃんなんかいまいちなんだよなぁ、、、」という思いの中で、色々と昔のも最近のも含めてコント等を見ていくと一つの法則に気づいたわけです。
MHK(Matsumoto Hitoshi no Konto)という比較的最近の松ちゃんのコントを例に挙げたいと思います。残念ながらこれも全般的にあまり笑えなかったのですが一つだけ噴き出してしまったコントは唯一浜ちゃんが出演していたコントでした。その中で、MBA的な考え方に毒されている私が気づいたのは、『これはテストマーケティングとその結果を瞬時に市場に生かすという笑いなんだ!』ということでした。
どういうことかというのを噛み砕いていこうと思いますが、まず“松ちゃんの笑い”の質というのは、元来かなりシュールだったり、今までにないinnovativeなものだったり、一見普通の人には中々その価値が分かりにくいものなんです。言うなれば、“ピカソの絵”のようなものです。
そのピカソの絵をガンガン松ちゃんは放り込んでくるわけですが、中々新しすぎて良く分からないことがあるんですね。そして私が思うに、松ちゃん自身もそれが本当に面白いのか疑心暗鬼なところがたまにあるわけです。たまに松ちゃんが、『これおもろいと思うねんけどなぁ…伝わらんかぁ…』みたいなことを言いますが、それです。そして松ちゃんが画家だとすると、言わば“画商”である浜ちゃんの反応が一つのテストマーケティングになっていると思うわけです。浜ちゃんが言う、『それおもろいやん』とか、実際笑いを堪え切れずに笑ってしまうとか、その反応自体が製品(ボケ)開発者である松ちゃんの次の製品(ボケ)開発に即座に生かされるわけです。
ということで、新作の販売→画商の品定め→売れるなら売りまくる、売れなそうならすぐ廃棄という非常に速いマーケティングのサイクルがここに成り立っているのです!!(鼻息荒め)
①松ちゃんがわけのわからないことを言う→浜ちゃんにも分からない場合は『意味わからんねん!』のツッコミで頭を叩き、松ちゃんが苦笑いしてそれはそれで笑いになる
②松ちゃんがわけのわからないことを言う→浜ちゃんも堪え切れずに笑う→松ちゃん、これは売れる作品(ボケ)だと気づき、どんどん畳み込む→爆笑に繋がる
と、大まかに2パターンが成立するわけです。②の場合の方が大爆笑につながりますが、①の場合でもそれはそれで視聴者の「松ちゃんさすがにそれは分からないよ」という気持ちを浜ちゃんが代弁してくれるので、すっきりとした小笑いにはなるわけです。
ということで、最近の松ちゃんの不振は浜ちゃんとのカラミが少なくなっていることなのだというのが、自分の結論です。最近は千原Jr..などとのカラミが多く、浜ちゃんだけでなく今田耕司などとのカラミも減っています。今田耕司などは後輩で唯一松ちゃんにツッコめる、つまり松本人志の画の画商を務められる人材であるわけですが、千原Jr.となるとちょっと後輩過ぎて、松ちゃんに強くツッコめないので画商としては物足りないわけです。
松ちゃんに今必要なのは、「そのボケは分かりにくいから面白くない、そのボケは面白いからもっと広げていこう」と即座に判断して、しかもすぐに本人に強く伝えられる(ここが重要。今の松ちゃん大御所過ぎて、多分後輩がつまんないなぁと思っても松ちゃんに言えない。)人が必要なんだろうなぁと。でないと、『これは面白い商品(ボケ)である!買え!』という士族の商法というか、独りよがりの笑いになってしまうのかなぁと。demandingな日本人の要求に合わせて作った日本の家電製品が海外で売れないのに似ている気がします。つまり、ちゃんと市場のニーズがくみ取れていない為に、そのニーズを商品に反映できていないわけです。
一見、これはテレビの中だけの話のように聞こえますが、普通の人にも当てはまるなぁとも思います。偉くなればなるほど、周囲からツッコまれなくなるので、どんどん独りよがりになっていきます。MBAのリーダーシップの授業でも「accessible」、つまり“近づきやすさ・身近さ”がリーダーの一つの重要な要素だというのを教わりましたが、偉くなったからと言って威圧的に接するのではなく、周囲から分け隔てなく情報が入ってくる状況を作って、自分を常に市場の反応に合わせて微調整していくというのは必要なのだろうなと思った次第です。
日々“ビジネススクール”という狭い世界に閉じこもっていると、非常に脳みそが固くなってくるのを感じます。“ビジネス”というのは飽くまで人生の一部であって、ただ幸せに生きていく為のツールに過ぎないにも関わらず、「それが全て!」かのように洗脳しようとするバイアスがかかります。
筋トレに例えて言うならば、、、
いや、筋トレには例えるのは難しいですね。でも敢えて筋トレに例えて言うならば、胸筋と腹筋と背筋も重要なのに、ひらめ筋ばっかり鍛えちゃったみたいな感じでしょうか。ふくらはぎだけバッキバキに切れてる感じでしょうか。
ということで、時に脳みそをストレッチしたくなります。もっと脳みそを解放して、さらに別の部位の筋肉もバランスよく鍛えて、腰痛とか関節痛にならないようにしたいものです。
ということで、ちょっとまた頭を整理していきたいと思います。
昔ふと、もし親友が何か不幸に見舞われて、目の前でビルから飛び降りようとしているとしたら、「どうやったら自殺はしない方がいい」と最もロジカルに説得できるだろうか?と考えたことがあります。
色々と考えたのですが、最終的な答えを最初に言ってしまうと、「俺はお前の親友であって、親友のお前に死なれると俺の人生つまらなくなってしまうから死なないで欲しい。」という非常に利己的でジャイアン的な“俺の為に死なないで欲しい”というお願いが正解なのだろうなというのが結論です。(これで自殺を踏み止まってくれるかは別として最も納得感はあるかなと)
これに至るまでの思考を整理していきたいと思います。まず、自殺を止めるセリフとして最悪なのは、「自殺しちゃダメだ!生きてるって素晴らしいじゃないか!」ですね。
「僕はそう思わないので死のうと思ってるのだ!キリッ」ということで交渉は平行線でソッコー終わってしまいます。
結局「人生素晴らしい!」とか「生きてるって素晴らしい!」とかいう主張って、人生を楽しんでいる人の一方的な理論なので、人生を楽しめていないから死にたいと思っている人の心には一向に刺さらないわけですよね。
これがいわゆる『生存者バイアス』というやつですね。この世に今いる人は生存している時点で、既に「生きるか死ぬかを比べて生きた方がいいと思っているからこの世にいる」というバイアスがかかっているわけです。「こんな世なら死んだ方がマシだ!」と思って死んでいった人は過去に沢山いるはずですが、死人に口なしなのでその意見はこの世では取り入れられないわけです。幽霊としてTVタックルとかにコメンテーターとして出てきて「いや~自殺ってけっこう生きてるよりいいっすよ!」とか議論してくれれば別ですが。基本発言できるのは生きている人だけですから。
ちょっと脱線しますが、もう一つよくある生存者バイアスが「早く結婚しなさい!」であり、「早く子供産みなさい!」ですね。基本的に今この世にいる人たちは、先祖が「結婚」を繰り返して、「出産」を繰り返した結果、今ここにいるので、それが唯一の選択肢のようにバイアスがかかっているわけです。先祖のうちのただ一人でも未婚であったり、生涯子供なしであれば自分はいないわけですからそれを否定してしまうと、自分の存在の否定になってしまいます。結婚も出産もない人生を想定できないわけです。
また本題に戻りますが、もう一つよくあるセリフでホントに頭悪いなぁと思うのが、「生きたくても生きれない人もいるのに命を粗末にするな!」ですね。パッと見正しそうだけど、本当に意味のない言葉ですね。自殺しようとしている本人からしたら、「別に他人の人生とか関係ないし。今自分が辛いから死にたい。それだけ。」で終わりです。
あとは、「人生生きてたら楽しいこともある!素晴らしいこともあるぞ!」というのもありますが、これも無責任な発言ですね。自殺したい本人は今どうしようもならないくらい辛い局面にいるから人生を終わらせたいわけで、この後楽しいことがありそうだとか素晴らしいことがありそうな予想がついているのであればそもそも自殺なんて考えないわけです。これをもう少し責任感あり納得感あるように言うなら「俺がお前の人生これから素晴らしく楽しいものにしてやる!約束する!」ですかね。これなら「え、マジで??」となるはずです。
ここまで行き着いて、またふと「そもそもなんで自殺って悪みたいに語られるんだっけ??」と原点に立ち返るわけです。人間いつかは必ず死ぬわけで、それを前倒しすることがなぜ悪とされるのか?寿命80歳の人が79歳11ヵ月で自殺した時にも同様に『自殺は悪である』とされるのか?もしくは、確実に寿命をじわじわ縮めるであろう喫煙はある意味緩やかな自殺と捉えることもできるだろうが、それが瞬間的に死に至る自殺と区別される理由はなんだろうか?と。
そう色々と考えていくと、自殺が嫌だなぁとか悪だなぁと思っているのって、自殺者本人でなくて、自殺者の横にいる第三者なんですよね。自殺しようとしている人は死んだほうが楽になれると思ってるからそうしようとしているわけですから。そんな人に対して「自殺は悪だ!やめろ!」と言ったところで、「俺はそうは思わん!死ぬ!じゃ!バイバイ!」で交渉決裂で終わりだと思うわけです。
なので、そういう自殺志願者に対して唯一第三者から言える言葉としては、「(人生が今辛くて死んだ方がいいとお前が思っているのは理解できるし、そうお前が主観者として思ってしまったならそれを他人がどうこう言うことではないが)俺は俺の主観として、お前に生きていて欲しいと思っている」というお願いを伝えることだけなのかなと。
それを聞いた自殺志願者にとっては、「(自殺が悪かどうかは別として)俺はあいつに必要とされているんだな。俺の人生も人から必要とされることもあるんだな。」という事実認識にはなるわけです。彼にとっては「嘘つけ!お前はそうは思ってない!」という反論もあるかもしれませんが、それが嘘かどうかは別次元の問題なのでここでは触れませんが、少なくともその親友の言葉が本当であれば、自殺志願者は嬉しいということを表しているわけです。
ということで、少し長くなってしまいましたが、要はこの世界というのは結構「母集団の取り間違え」によるバイアスであたかもそれが絶対であるかのような勘違いって多いよなぁと思うわけです。そういうバイアスに自分が毒されていることに気づかずに「絶対にそう!」みたいな断言をする人をみると辟易とします。この人客観性ないなぁ、頭悪いなぁと。
最後にもう一つこのバイアスの一つの例を挙げると、「捕鯨禁止」ですね。欧米人からすると「Oh!クジラカワイソウネ!」ということらしいですが、「え?牛とかガンガン殺して食ってますよね?作りすぎて食わずに廃棄とかもガンガンしてたりしますよね?」とか思うわけですが、それは彼らのバイアスからすると『ソレハマタベツノハナシネ!』となるわけです。っていうか、アメリカも昔むっちゃクジラとってたし。
日本人からすると、韓国とか中国で犬を食べるというのを聞くと、「気持ち悪いなぁ」とは思いますが、別にだからといって自分の価値観を強制するべきではないと思うわけです。まぁそういう食文化もあるんだなぁくらいに尊重すればいいわけです。
かく言う自分も恐らくまだ自分が気づいていないバイアスに侵されている気がするわけで、なるべく客観的な目線を持ったフェアな人間でいたいなぁと思います。
筋トレに例えて言うならば、、、
いや、筋トレには例えるのは難しいですね。でも敢えて筋トレに例えて言うならば、胸筋と腹筋と背筋も重要なのに、ひらめ筋ばっかり鍛えちゃったみたいな感じでしょうか。ふくらはぎだけバッキバキに切れてる感じでしょうか。
ということで、時に脳みそをストレッチしたくなります。もっと脳みそを解放して、さらに別の部位の筋肉もバランスよく鍛えて、腰痛とか関節痛にならないようにしたいものです。
ということで、ちょっとまた頭を整理していきたいと思います。
昔ふと、もし親友が何か不幸に見舞われて、目の前でビルから飛び降りようとしているとしたら、「どうやったら自殺はしない方がいい」と最もロジカルに説得できるだろうか?と考えたことがあります。
色々と考えたのですが、最終的な答えを最初に言ってしまうと、「俺はお前の親友であって、親友のお前に死なれると俺の人生つまらなくなってしまうから死なないで欲しい。」という非常に利己的でジャイアン的な“俺の為に死なないで欲しい”というお願いが正解なのだろうなというのが結論です。(これで自殺を踏み止まってくれるかは別として最も納得感はあるかなと)
これに至るまでの思考を整理していきたいと思います。まず、自殺を止めるセリフとして最悪なのは、「自殺しちゃダメだ!生きてるって素晴らしいじゃないか!」ですね。
「僕はそう思わないので死のうと思ってるのだ!キリッ」ということで交渉は平行線でソッコー終わってしまいます。
結局「人生素晴らしい!」とか「生きてるって素晴らしい!」とかいう主張って、人生を楽しんでいる人の一方的な理論なので、人生を楽しめていないから死にたいと思っている人の心には一向に刺さらないわけですよね。
これがいわゆる『生存者バイアス』というやつですね。この世に今いる人は生存している時点で、既に「生きるか死ぬかを比べて生きた方がいいと思っているからこの世にいる」というバイアスがかかっているわけです。「こんな世なら死んだ方がマシだ!」と思って死んでいった人は過去に沢山いるはずですが、死人に口なしなのでその意見はこの世では取り入れられないわけです。幽霊としてTVタックルとかにコメンテーターとして出てきて「いや~自殺ってけっこう生きてるよりいいっすよ!」とか議論してくれれば別ですが。基本発言できるのは生きている人だけですから。
ちょっと脱線しますが、もう一つよくある生存者バイアスが「早く結婚しなさい!」であり、「早く子供産みなさい!」ですね。基本的に今この世にいる人たちは、先祖が「結婚」を繰り返して、「出産」を繰り返した結果、今ここにいるので、それが唯一の選択肢のようにバイアスがかかっているわけです。先祖のうちのただ一人でも未婚であったり、生涯子供なしであれば自分はいないわけですからそれを否定してしまうと、自分の存在の否定になってしまいます。結婚も出産もない人生を想定できないわけです。
また本題に戻りますが、もう一つよくあるセリフでホントに頭悪いなぁと思うのが、「生きたくても生きれない人もいるのに命を粗末にするな!」ですね。パッと見正しそうだけど、本当に意味のない言葉ですね。自殺しようとしている本人からしたら、「別に他人の人生とか関係ないし。今自分が辛いから死にたい。それだけ。」で終わりです。
あとは、「人生生きてたら楽しいこともある!素晴らしいこともあるぞ!」というのもありますが、これも無責任な発言ですね。自殺したい本人は今どうしようもならないくらい辛い局面にいるから人生を終わらせたいわけで、この後楽しいことがありそうだとか素晴らしいことがありそうな予想がついているのであればそもそも自殺なんて考えないわけです。これをもう少し責任感あり納得感あるように言うなら「俺がお前の人生これから素晴らしく楽しいものにしてやる!約束する!」ですかね。これなら「え、マジで??」となるはずです。
ここまで行き着いて、またふと「そもそもなんで自殺って悪みたいに語られるんだっけ??」と原点に立ち返るわけです。人間いつかは必ず死ぬわけで、それを前倒しすることがなぜ悪とされるのか?寿命80歳の人が79歳11ヵ月で自殺した時にも同様に『自殺は悪である』とされるのか?もしくは、確実に寿命をじわじわ縮めるであろう喫煙はある意味緩やかな自殺と捉えることもできるだろうが、それが瞬間的に死に至る自殺と区別される理由はなんだろうか?と。
そう色々と考えていくと、自殺が嫌だなぁとか悪だなぁと思っているのって、自殺者本人でなくて、自殺者の横にいる第三者なんですよね。自殺しようとしている人は死んだほうが楽になれると思ってるからそうしようとしているわけですから。そんな人に対して「自殺は悪だ!やめろ!」と言ったところで、「俺はそうは思わん!死ぬ!じゃ!バイバイ!」で交渉決裂で終わりだと思うわけです。
なので、そういう自殺志願者に対して唯一第三者から言える言葉としては、「(人生が今辛くて死んだ方がいいとお前が思っているのは理解できるし、そうお前が主観者として思ってしまったならそれを他人がどうこう言うことではないが)俺は俺の主観として、お前に生きていて欲しいと思っている」というお願いを伝えることだけなのかなと。
それを聞いた自殺志願者にとっては、「(自殺が悪かどうかは別として)俺はあいつに必要とされているんだな。俺の人生も人から必要とされることもあるんだな。」という事実認識にはなるわけです。彼にとっては「嘘つけ!お前はそうは思ってない!」という反論もあるかもしれませんが、それが嘘かどうかは別次元の問題なのでここでは触れませんが、少なくともその親友の言葉が本当であれば、自殺志願者は嬉しいということを表しているわけです。
ということで、少し長くなってしまいましたが、要はこの世界というのは結構「母集団の取り間違え」によるバイアスであたかもそれが絶対であるかのような勘違いって多いよなぁと思うわけです。そういうバイアスに自分が毒されていることに気づかずに「絶対にそう!」みたいな断言をする人をみると辟易とします。この人客観性ないなぁ、頭悪いなぁと。
最後にもう一つこのバイアスの一つの例を挙げると、「捕鯨禁止」ですね。欧米人からすると「Oh!クジラカワイソウネ!」ということらしいですが、「え?牛とかガンガン殺して食ってますよね?作りすぎて食わずに廃棄とかもガンガンしてたりしますよね?」とか思うわけですが、それは彼らのバイアスからすると『ソレハマタベツノハナシネ!』となるわけです。っていうか、アメリカも昔むっちゃクジラとってたし。
日本人からすると、韓国とか中国で犬を食べるというのを聞くと、「気持ち悪いなぁ」とは思いますが、別にだからといって自分の価値観を強制するべきではないと思うわけです。まぁそういう食文化もあるんだなぁくらいに尊重すればいいわけです。
かく言う自分も恐らくまだ自分が気づいていないバイアスに侵されている気がするわけで、なるべく客観的な目線を持ったフェアな人間でいたいなぁと思います。
英語に囲まれて生きていると、やっぱり日本語が恋しくなるもので、そういう時は日本のドラマやバラエティなどを見るのですが、今回は戦後の吉田茂の半生を追ったNHKドラマスペシャルの「負けて、勝つ」を見ました。
この時の官僚、政治家は本当にサムライだなぁと感動しました。熱く生きているなぁと。自分の中での「サムライ」の定義は「武士道とは死ぬことと見つけたり」を体現している人です。もっと噛み砕くと、「大義の為(利他の為)に死ぬことを美しい生き方」とすること。恥をかきながら生きるくらいならかっこよく死にたいというところでしょうか。
吉田茂の父親は自由民権運動で逮捕された竹内綱、母親は身元不明の芸者と言われているそうですが、そのような生い立ちからなのか、かなりの原理主義者だったようです。東大法学部を出た後、外務省に入り外交官になりますが、成績はあまりよくなく、同期の広田弘毅(後に東京裁判でA級戦犯として絞首刑に処される)が常に首席で引っ張りだこの外交官であったのに比べ、若い頃は脇役であったようです。
2.26事件が起こり、政府幹部が軍部に殺害されるという事件が起こり、首相候補が不在になる中で、広田弘毅はその優秀さから戦前に首相に推薦されてしまうわけです。彼は頑なに拒否されたそうですが、同期の吉田茂が説得にあたり、止む無く首相に就任したそうです。
吉田茂はその内閣の外務大臣として入る予定だったものの、反戦派であった為に軍部からの反対にあい、広田が首相と外相を兼任し、最終的には戦後にA級戦犯として死刑になってしまうのです。
一方、吉田は戦争末期に戦争終結の工作に奔走し、憲兵にそれが見つかり拘束されることとなりました。そしてなんと数奇な運命か、そのことが逆に戦後GHQからの信任を得るに繋がり、マッカーサー元帥と懇意になり、戦後の日本代表の交渉者として首相に推挙され就任したわけです。(さらに言うと、当時選挙の結果鳩山一郎が首相になるはずだったのが、彼の戦前の著作にヒトラーの軍国主義を礼賛する旨の記載が見つかり、公職追放にあった為に代打として吉田茂に白羽の矢が立った。)
本当に人生何があるか分からないですね。同期の広田弘毅は表街道をひた走り、吉田茂はその後塵を拝しながらも、着実に自分の強い軸を維持しながら、じっくり進んでいく。広田弘毅は『成績は主席』だったかもしれませんが、何を優秀とするかはこのレベルになると本当に分からないですね。ある意味では広田弘毅は『既存のルールの中で良い成績が取れるほど従順だった』という言い方もできるかもしれません。
逆に吉田茂やその側近の白洲次郎は当時はかなりの曲者だったわけですが、戦争が始まろうとする混乱の中で反戦を唱える“異端児”だったということはある意味では当時は『不良』だったかもしれませんが、時代が変われば優秀の尺度も変わるわけです。
自分は広田か吉田かというと、確実に吉田タイプだなぁなんてことを考えながらドラマを見ました。欲を言えば、白洲次郎のようにスマートに行きたいなぁとも思いますが、恐らく自分は白洲次郎のようにはなれないので、「馬鹿野郎に馬鹿と言って何が悪い!」と言ってしまうような吉田茂のような頑固爺さんになるのもそれはそれで生き方として筋が通ってていいのかなぁと遠い目をしてカフェで過ごす週末なのでした。さぁ勉強勉強。