嘘をつく事がこれほどまでに恐ろしい事かと思い知らされる。
ウォルターの嘘ではなく、マーガレットの嘘だ。
マーガレットがついた嘘は、自分の心についた嘘だ。嘘が、どんどん心を引き剥がす。それはとても不快なものだ。マーガレットがつく嘘は、自分を蝕む。その彼女が描く絵は、その嘘を見透かすかの様に、黙って見つめる。
バンダッチの店にて「この絵を描いたのは誰?」との質問に、答えられないでいる彼女の背後から、塀から覗く2枚のビッグ・アイズが「目撃」しているのが印象的だった。
対照的なのは、救いを求めて懺悔に行く教会の彫像たちが、眼を閉ざして何も見ていない事だ。自分の子供たち同然の作品を、自分の作品ではないと言い、その大きな目で黙って見つめられる気分は、悪夢でしかない。
そんな環境に耐えられなくなって、画風を変えて描く彼女の絵は、目を細めたり、視線を逸らした構図が多い。彼女が自分を慰める絵だったのだろう。
一方ウォルターの嘘は、虚栄心からつく嘘なので、本人は気持ちがいい。麻薬のように嘘に溺れてゆく。商魂の逞しさに秀でており、絵が売れなくても、すぐさまポスターや絵葉書を売ることを思いつく。だが、彼は一度ついた嘘を、最期まで突き通してしまった愚かな男だ。
裁判の時の彼は、完全に嘘に支配され、あの絵は本当に自分が描いたものだと信じていたに違いない。嘘を突き通す事の哀れさを見た。
この映画は、女性差別が普通だった時代を背景に、女性を主人公にしている。女性を描けないティム・バートンが、女性を主人公に映画を撮ったのも初めてだ!(アリス?そんな映画はマジペディアには載ってないぞ)そんな時代の男性の傲慢さは、男である立場から見ても目に余る。バートンは、彼女を芸術家としてとらえ、男たちの傲慢さを掘り下げる事で、「女性」を浮き彫りにする表現をしている。彼は、女性を描けないが、芸術家は描けるのである。
自分の作品を自分の作品と言えない芸術家のジレンマは、計り知れない。その抑圧を、芸術家としての視点で描いている。一度は愛した男性を訴えるという、重苦しい部分を、実にあっけらかんと描くバランス感覚は、ティム・バートンならではのものだ。
もし、この映画をを女流監督が女性の視点で描いていたら、もっと息苦しい作品になっていたんだと思う。
エイミー・アダムスは、何をやらせても凄い。年齢を重ねていく演技がとても自然で良かった。娘と手を繋ぐシーンは、とても象徴的だ。彼女は、似合わないタバコを吸う姿が、とても似合う女優だと思う。
クリストフ・ヴァルツは、まさに怪演だ。口から出まかせばかりの薄っぺらい男かと思えば、恐ろしい演技も見せる。そして最後の裁判では憐れとしか言いようがない末路を見せる。こんな演技が出来る俳優は滅多にいない!コレでアカデミー助演俳優助演にノミネートされてもおかしくないのだが、役が役だけに、ノミネート外。まぁ、共感はされないよね。でも、見事な演技だったと思う。
名優、テレンス・スタンプの出演もいい。厳格な評論家を好演している。彼は出てくるだけで、どんな作品も引き締まる。彼を上手く使えない監督は、J.ルーカスくらいなものだろう。
芸術家というのは、プライベートが作品に出るという事を、如実に魅せてくれる作品だった。
撮影期間中ティム・バートンも、長年連れ添ったパートナー、ヘレナ・ボナム・カーターについて、既に結論を決めていたんだなぁと、そんな事まで見えてくる。
そんな彼もまた、芸術家なのである。
さて、ヘレナと別れた今後の作品も気になる。先日、展示会「ティム・バートン展の世界」に行き、彼には『ブルー・ガール』という、理想の女性像がある事が分かった。
だが、悔しい事にオイラは、ウォルターが仕組んだ計略にハマり、まんまと売店で絵葉書を買ってしまったのである。