『ぼくは昔龍だった』と言った不登校息子と、あたふたママのひび -2ページ目

『ぼくは昔龍だった』と言った不登校息子と、あたふたママのひび

二児の母、自己実現は果てしない向こうに存在するような私の下の息子は小3くらいから学校に行きづらくなり、すったもんだして今完全解決でないが、息子と向き合ってヘタクソながら楽しく生きようと心がけてます。


"youtubeばかりみてる"と"現実"を行き来している。


"現実"は49才おばさん、子2人。心細い性格のため働かず夫に仕事を任せて、家事、育児、犬事の日々。長く家の事やってると、ご飯作り方、洗濯の仕方、掃除の仕方、なかなかうまくなるもので、且つ楽しむこともできるもの。

人からのちょっとした言葉により、かよわき我が情緒は乱れ、傷むので、"友達"はいないと思い込んでいる。人と接する事は嫌いではないが、永く付き合う事は億劫だ。大概人は、私という人を侵食し、利用しようとする。親とて例外ではない。そうでない人もいるがそれは珍しい事で幸いにも夫はそうでない人だ。話を戻して、大概人は人を利用しようといそしむ事を長年で心得たのだ。皆"猫の手も借りたい"らしい。

近頃は、朝の散歩に行くのが心地よい。我が家の愛犬柴いぬを連れ、気候の良い日は1キロ歩き新方川の土手まで歩く。朝日や風や匂いが、土手の土や草や川の流れから感じられ心が和む。愛犬も喜んではしゃぎだし、それを見て私も喜ぶ。

心配事はある。自分の神経質な考えや年頃の娘や引きこもりガチの息子の将来。お金。度々不安に苛まれては、今を健やかにここに生きているではないか。と自分に言い、今を見ようと努めている。

先日、youtubeでみたのだが、未来を予測したり過去を確認したりという能力は、空間認知に由来するらしい事を知った。内容は、熱帯雨林で生活する原住民は、高い木々に囲まれ、年間を通して四季もなく一定の気候のなかでの暮らしでは、過去や未来を考えて生きておらず、明日の食べものの心配はせず、亡くなった家族をいつまでも悼まないというものだ。これは、遠くを見て遠くから人や動物が近づいてくるといった視覚感覚の経験の乏しさから時間という概念が無いらしいのだ。まったくない訳でないだろうが私達とは差があるらしい。しかも彼らは、日々楽しそうに生きでいるように見えるのらしい。外から来た外国人が試しに、少し離れた所にある大きな湖に原住民らを連れて行った。そこは高い木々がなく開けていて遠くが見渡せる。例のごとく遠く向こうの水辺では、牛達が水を飲んでいた。すると、原住民はそれを見て、あの虫は何だ?と言ったという。
 この事から、遠くにあるものは小さくみえるという事が理解できない事がわかる。     
 遠くから人がこちらに人がこちらに歩いてくるにつれ、だんだん大きく見える事を日々の生活の中で経験しないのだ。遠くから、人がこちらに来るまでの間を『時間』という概念で私達の脳は理解した。そう、時間は概念で実在ではない。全ては現象でしかない。

この事から思ったのだけど、空間を理解しようと努めれはそうするほど『時間』は強化される。時間が強化されれば、過去未来の一直線に支配されるのだ。

 今グローバルの波が押し寄せてるみたいだが、グローバリズムと唱えたい人はそうしとけばいいのであって、その人達の脳の中で世界を統一したいのなりどうぞ。と思っておけば良いのではなかろうかと思った次第であります。


 私は、このカップに揺れる温かげなコーヒーをいただいて、この秋空の少し肌寒い午前を愛犬の匂いとちょっとの予測不安とを感じているのですよ。