私のセッションでは痛みを見に行くのだけど、痛みって言うとみんな本能的に避けたがるからあんまり言わない方が良いよというアドバイスをもらうことがあります。
 
そうだよなぁ…と思うところもあるのですが、そもそも痛みにフタをする習慣が人生をおかしくしてしまうのだから、
それを知っている私が、それをオブラートに包み続けるのってどうなのかなぁーという気持ちがあります。
 
痛みとかネガティブを避けるのは一生遠回りになってしまうから、おすすめしないんです。
 
だって、コインには表と裏があるようにポジティブもネガティブもあるし、喜びも痛みもあるのは当たり前だから。
 
ネガティブだとか、痛みが恥だから見せたくないという風潮があるのは、そういう社会だからだと思うんです。
 
みっともないところは見せちゃいけないと教わってきたからね。
 
怖くてみっともなくて見ていなかったところを見るのって、実は希望でしかないんですよね。
 
実はそこに宝物が埋まっている。
 
それに気づいた人から人生が変わっていくのだと思うんです。
 
私は母との関係に苦戦したのですが、状況を変えようと奮闘した時、一生懸命に「感謝」しようとしました。
 
でも、1日100回ありがとうを言っても虚しかったですし、感謝を口先と頭の中でだけ一生懸命にやろうとするほどに、苦しみました。
 
私が気づかないといけないのは
「感謝なんてまったくしていない!」
「感謝どころか怒りしかない」
という現状でした。
 
認めるのが一番嫌だったことです。
自分が感謝できない人間だなんて思いたくなかったです。
 
でもそれを認めないと前に進めないんですよね。
 
私はすごーく怒っている自分のことを無視し続けていました。
自分そっちのけで、母に怒りを感じて
「あいつが悪い!」と、悪者にしていました。
 
嫌な自分を見るのは一瞬辛いかもしれないけど、同時に存在するのはいつも、「この世にあって欲しいものがない」という事実に打ちのめされた自分です。
 
母は愛情深い人ではあるけど、私が一番欲しいと思っているタイプの愛情をくれる人ではなかった、というだけなのですが。
 
私は母に愛されていないと思ってしまっておりました。
 
表現が違うだけで、愛しているには違いないんですよね。
 
私が根本的に救えないような嫌なやつだから、感謝できない人になってしまったんじゃなくてね。
 
感謝できなくなってしまっていた理由がちゃんとあったんだということなんですよね。
 
嫌なやつに生まれる人なんて、一人もいないです。赤ちゃんはみんな、個性は違うけどピュアですから👶
 
痛みとかネガティブをそんなに特別扱いするんでなくて、「ふつうの一コマ」にできると、人生はあっという間に楽になります。
 
あーまたやっちゃった。
そんな立派じゃないよね。
また本質からズレて生きてたね。
 
それを悲壮感を抜いて普通に見れるようになると良いなと思うんですね。
 
違ってたら修正すれば良いだけです。
生きているうちにいっぱいズレてきてるから、たくさん見つけてたくさん修正できた方がいいじゃんと思っています。
 
私はザワザワしたり、痛みを感じると、嫌だなと思いながらもちょっと嬉しくなります。
 
痛みの反対側にある、本当に望んでいる世界とか、本当に欲しいものを見つけにいくような感覚で、そこを抜けた自分に早く会いたくてそわそわするのです☺️
 
今度はどんな自分が見えるんだろう?とか、
どんないらないものを手放せるんだろう?とか。
 
渦中は良いもんじゃないけど、いつまでも隠しておくよりはよっぽど真実に近づけますからね。
 
痛みを悪者にしない、っていうのが浸透するといいなー。