サラリーマン&副業FPのだらだら日記
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10万円を全国民にプレゼントすることの意味(負の側面)

責任を取るって何?

COVID19の感染拡大で、「責任を取って」という言葉は、国内ではまだ聞かない。

よかった~、と思う。

そんなことを考えたのは、トランプ大統領がWHOに対して拠出金支払いの「検討」をし始めたというニュースを見たからだ。

 

日本に限らず世界中でだと思うが、何かあると「責任を取る」、そして「責任を取れ!」という言葉が出てくる。

責任って、きっと迷惑をかけた誰かのためにとるものだと思う。

会社でも、何かあったらリーダー(まさに、“責任”者)が出てきて謝るけれど…。

では、「責任を取るその相手は、その責任の取り方を望んでいるのだろうか?」と思う。

 

例えば今回のCOVIDで、トランプが、そして安倍首相が後手に回ったために自分の大事な人が亡くなったら…。

私だったら、どんな責任を取ってほしいと思うだろうか。

 

土下座して謝ってほしい?

大統領/総理の職を辞任してほしい?

金品で補償してほしい?

責任者に割腹自殺してほしい?

 

全部違う。

自分だったら、同じことが起きないように頑張ってもらう、のが、一番望むことだと思う。

それができないなら、適切に身を引いてもらってその責任を果たせる人を任命してもらうことはもちろん大事だが、

それは「責任を取る」ことではない。

「あなたでは力不足だから、代わって」ということであって、責任を取る本質ではない。

 

企業経営者は、よく「落ち着いて、問題の処理ができたら、責任を取って身を引く」というが、

その失敗の経験を活かして、謙虚に、自分が一番その問題解決に近づけると思うなら、

身を引かなくてもいいと思う。

だって、失敗の経験をした人は、失敗経験のない人より、同じ失敗をしにくいと思うから。

 

「責任をとれ!」という人は、何を望んでいるのだろう。

自分のストレス発散のために土下座をさせたい?

謝罪と同時に金品により、その自分の痛手(肉体的・精神的)を多少なりとも緩和させたい?

責任者の苦しそうな顔、泣き顔を見て、留飲を下げたい?

 

……分からない。

感情に任せて「責任を取れ」ということの重さを、一人一人がもうちょっと自覚出来たらいいと思う。

今回の騒動が落ち着いたとき、メディア、そして(よくわからない)世論ってのが、どう、

「責任をとれ!」というのか、

それが誰に向かって、誰のために言っているのか、……しっかり見たいと思う。

 

今回のCOVID19のことでは、誰かが「責任を取る」のではなく、

だれもが、一人ひとり「自分のできる精いっぱいで、このCOVID19の混乱を、一秒でも早く終息に向かうための努力」をし続けてほしいと思う(もちろん、私も)。

 

道路交通法を守ることの意味

久しぶりに、「警察24時(正確なタイトルは失念)」を見た。

その中で交通課のヒーローを取り上げたコーナーがあったが、違和感がぬぐえなかった。

それは、「私は、交通違反を未然に防ぎたい」というナレーションが入ったこと。

・・・・・・交通事故ではなく、交通違反??

 

交通違反を防ぐ、というのは何を目的にしているのだろう?

交通ルールは、事故を防ぎ、市民の安全を守るために存在する大切なもの。

赤信号は止まる、というのも、それを守らないと事故が起きて、ケガをしたりあるいは死んでしまうことを防ぐため。

交通事故を未然に防ぐ、それならわかる。

 

でも「交通違反を未然に防ぐ」って?

交通違反を防ぐ、という発想は、「ルールを守らないことそのものがおかしい」という思考停止状態だと私は思う。

 

新東名高速道路が実験的に120㎞/時の区間をつくっているのも「道路がまっすぐ」「車の性能も上がり、120㎞/時くらいでエンジンがうなり声をあげることのない車が増えた」からTryしているのだと思う。そして、静岡のその区間では実際事故発生件数は少なく、実験期間を延長する、というかたちで実質的に120㎞区間は数年間維持され続けている。

 

これは、「高速道路は時速80㎞」という交通ルールが最上位の概念であれば、決して実現しなかっただろう。

あくまで速度制限は「事故が起きないよう、安全な速度で運転してほしい」ということから生まれたもののはず。

事故を起こさない、が優位であり、出来上がった交通ルールの維持が優位では決してないはず。

これを取り違えると、本当に不毛な、そして悲しいことが起きる。

 

ルールは、守るためにあるのではなく、そのルールを作ることによって、社会の平和を維持、強固にするためにある、と思う(もちろん、弱者救済、平等といったことも)。

ふとしたフレーズに、自分が「ルールを守るために生きる」ように仕組まれていく、組み込まれていく社会の息苦しさを感じてしまった。