久しぶり、2階のおばちゃんです。
いや~、大変やわ。地震は続いて起こるし、台風はなんか知らんけど急に
「はな、西に寄ってきますわ」言うて東北めがけて来てしまうしで、
なんや災難続きで不安になんね。
明日は我が身やからいつ被災するかわからんしね。
防災セット詰め込んで重たなったリュックを担いでたら上から物が落ちてきて
下敷きになって担いだままご臨終の可能性を考えたら、着の身着のまま逃げた方が
生存率高いんちゃうかって考えたりすんねん。
能登半島地震も未だに復興が進まへんのに、ここで南海トラフ地震の心配も
しなあかんなんてどないなってんねん日本。
こういう災害の時は「被災された方々にお見舞い申し上げます」ってなるんやけど、おばちゃんのこのブログに書くとなんかね、冷たーく聞こえんなって
思てしまうねん。
とにかく被災された人らが一日でも早く元の生活にもどれるよう、おばちゃんは
寄付するくらいしかできへんけどちょっとでも助けになればと願ってるで。
なんやろ、関西弁で書くとえらい軽いノリになってしまうわ。
おばちゃんも若かったらボランティア活動できるんやろうけど、この年で行ったら
返って被災された地元の人らに病院に担ぎ込まれる結果になりそうやわ。
脂肪はあるけど体力はないねん。
さてと、今回はオルターモダニズム(Altermodernism)ってことで
芸術のイズム(思想)について勝手にしゃべるわ。
芸術は、アート、文芸、音楽、演劇、ダンス、映画、諸々が含まれんで。
オルターモダニズムって言葉が広まったのは2009年に開催された
テート トライエニアル(Tate Triennial)のテーマ「Altermodern」(オルターモダン)からやねん。
テート トライエニアルについては、おばちゃんの前のブログ「Liverpool Biennial」にちょこっと書いてるから読んでな。
「Altermodern」は、そん時のトライエニアルのキュレーターやった
二コラ ブリオー(Nicolas Bourriaud)さんが作った造語やねん。
グローバル化の中で、標準化や商業主義に対する反動として作られたアートを指す
用語ってことやねん。
このオルターモダンの定義は、結構奥が深い部分があるっていうか21世紀の現代の
複雑さと多様性を象徴してる言葉やなあとおばちゃんは思ったんやけどね。
いまいちピンとこーへんやろ?
このオルターモダンってのはね、今現在の西洋芸術全般のムーブメントのことで、
ようわからんかったポストモダニズム(postmodernism)の次のイズム(思想)が
オルターモダニズムなんよ。
「今のコンテンポラリーアートのムーブメントって何なん?」って言われたら
「オルターモダンやで」ってことやねん。
まず、ようわからんポストモダニズムを先に書くな。
ポストモダニズムは元々、その前のイズムやった「モダニズム」(1900年代初頭 ~ 1960年代)の反動から来てんねん。
モダニズムは理想主義+明快でシンプルな表現や思考をベースにしてて、進歩的な
新しい世界やユートピアな未来像を描いたり、機械のような完璧さを示唆した
ポジティブ思考なものって感じやねんけど、ポストモダニズムはその反対となる
から、複雑で矛盾しているものに焦点をあて、ネガティブな世界や、不完全さや
未完成さを示唆したものって感じかと思うねん。ただ、このイズムの定義は
一貫性が見えへんから説明が難しいねん。
アーティストや批評家によっては結構バラバラな解釈や説明があるし作品も
幅広いから「で、ポストモダンってなんやったけ?」ってなって
一言では言い表せへんねん。
そやからポストモダニズムは大きな基準となるもんがあると言うよりは、
複数の異なるもんを持ってる化け物としてポストモダニズムズ (postmodernisms)って複数形で呼ばれることが多いねん。
ポストモダニズムは1970年代ごろから出始めて、YBAも含んだコンテンポラリー
アート作品がポストモダニズムに分類されるねん。1950年代から始まったって
言う人もいるけどな、全国的に普及したんは1970年代とちゃうかな。
その後2009年にはポストモダンの時代は終わり、オルターモダニズムが
出てきたって感じやわ。
厳密に言うたら、2005年にはすでにブリオーさんが「オルターモダン」って
言葉を使ってたし「ポストモダニズムは衰退してんで」って言ってたから、
アート市場では2005年あたりから次のオルターモダニズムに注目してたと思うわ。
そしたら、オルターモダニズムってどういうイズムなん?ってことやけど、
テートギャラリーの説明によるとこんな感じやわ。↓
(できるだけ読みやすく和訳したつもり)
オルターモダンは文化の標準化や大衆化に反対するだけでなく、ナショナリズムや
文化相対主義にも反対します。
オルターモダンのアーティストは、世界の文化のギャップの中に自らを
位置づけています。
文化翻訳、精神的ノマディズム、表現形式の横断は、オルターモダン芸術の
主要原則となっています。
オルターモダンは、時間を直線としてではなく、多くの層と次元を持つものとして
捉えています。
この考え方を持つアーティストたちは、歴史や世界各地のさまざまな時代を見つめ、遠く離れているように見えるアイデアやシンボルを結びつけて
作品を制作するのです。
オルターモダンは、ノンフィクションとフィクションの要素が混ざり合い、
現実と想像の境界線が曖昧になっています。
一次元の単体や静的で不変的なフォームより、プロセスや変化のある動的な
フォームに焦点を当てているのです。
「へ~、なるほど、そうなんや~」って頷いた人、天才やで。
おばちゃんはこの原文を最初に読んだとき頭に入らへんかってんけど、そのかわり
ムーディ勝山さんの歌が頭ん中で鳴り響いたわ。
「右から、右から、何かがきてるう。僕は、それを、左へ受け流すうー。
いきなりやあってきたー、右からやあってきたー。
ふいに、やってきたあ、右からやってきたあ。
僕は、それを左へ受け流すうー。」
難しい言葉がいくつも出てきてるね~。芸術のイズムは一種の哲学やからね、
哲学的な物の見方は必須やね。
特に「文化相対主義」の批判は、おばちゃんの苦手な哲学特有の思考回路やから
ちょっと重いわ。
さてと、そしたらテートギャラリーが説明してるオルターモダニズムの意味を
おばちゃんの勝手な解釈で見て行こうか。
まず、オルターモダニズムというのは何の反動から来てんのか?やね。
・文化の標準化や大衆化によって統一されたグローバルな文化
例えば「英語」なんて世界共通語って言われてるやん。
英語を標準化とすることで他の言語の国でも英語を理解できる人が多くなるから
違う国の人ともコミュニケーションを取りやすくなるよね。
学校では英語を習うのが当たり前になってるし、現代のグローバル社会には
欠かせない標準化された共通の言語となってんね。
・ ナショナリズムや文化相対主義な考え方
ナショナリズム:同じ国の国民や民族が仲間意識を持って自分たちの価値を
最高のもんとして協調する思想やね。自分たちの共通する文化や言語や歴史を
重視し、自分の国や地域を大切にすることやわ。
The Donaldoさんのスローガン「Make America great again」(アメリカを再び
偉大な国に) がいい例やね。これ、もとはロナルド レーガン元大統領が使ってはったフレーズやけどね。
文化相対主義:すべての文化(要は信念や慣行・慣習)は対等に価値があるんやから
優劣をつけたり善と悪で差別したりせんとお互いの文化を理解して認めなあかん
という哲学やわ。
例えば、人類みな肉が好きとは思わへんやん。ベジタリアンやビーガンの人もいるし宗教上ぶた肉食べへん人もいるけど、普通にそういう人達が存在するってことは
理解されてるし世間一般で認められてるやん。
で、オルターモダニズムはこれらの反動ってことやねんけどね。
標準化や大衆化によってみんなが理解できる共通のものが発展することで国や地域を超えた活動が活発になるし世界が一体化するんやろうけど、文化的多様性は
失われていくよね。
その地域独自の慣行・慣習や文化的な表現が統一されたグローバル文化によって
押しつぶされるかもしれへんし無くなるかもしれへんよね。
自分の国や地域が発展して潤えば嬉しいやんな、生産性はあがるし利益につながるし豊かさも手に入るやん。でも国の利益優先やと個人の自由や権限はどうなるんやろ?
日本は厄介な隣国のロシア、中国、北朝鮮、韓国に囲まれてるせいで日本の
安全保障が危ななってきてるから、今こそ日本国民が一致団結し「お国のために」
徴兵制を設けることにするなんて国会で決まったらどうなるんやろ?
「運動神経悪いし体力ないから行かへんで」って断ったら、日本国民として
仲間意識が欠けてるって非難されそうやな。
ナショナリズムへの傾倒が行き過ぎると危ない部分もあるんちゃうかな。
世界にはいろんな文化があってどれも対等な価値があるから大切やね。
広い心でお互いを認め合うのって良いことやん。
でもそれって例えば、アフリカなどの一部地域で続いてる児童婚は、伝統的な
価値観や慣行・慣習によって行われるもんやから認めなあかんことに
ならへんやろか?
ナチスドイツはゲルマン民族(アーリア人)の優位性を信念とし、自民族の尊厳を
確立するためにホロコーストを行ったんやから非人道的行為やと非難することは
おかしいってなるんちゃうやろか? ロシアのウクライナへの侵略も
正当化することになってしまう危険性はないやろか?
文化相対主義は一見、素晴らしい考え方に思うけど、倫理的におかしいやろと
思っても文化的な背景がそこに存在してたら、その価値観を批判することが
難しくなるよね。
こういった問題点があるから「反対します」ってことなんやろなと解釈してんねん。
じゃあ、次いこか。オルターモダニズムの3つの主要原則についても書かれてんね。
1. 文化翻訳(Cultural translation)
ある国や地域が持ってる特有の文化の特徴や価値観や違いを尊重しながら、
自分とこの文化が理解できるよう翻訳するプロセスやで。
例えば日本とイギリスでは文化が違うやん。イギリスの文化的要素のある
コンテンツを日本人が理解できるようにしなあかん場合、その対象となる
コンテンツの背景にある文化的な慣行・慣習や価値観(要はどういう意味か)を
理解して日本人に伝える、またはその意味するとこに近い日本特有の文化的要素を
使って比喩的に日本人に伝えるってことやわ。要はいろんな人が理解しやすいよう
意味を汲み取りやすいかたちで表現することちゃうかと思うわ。
2. 精神的ノマディズム(Mental nomadism)
1つの考え方に縛られないで常に新しいアイデアや知識や経験を求める思想やで。
流動的で柔軟な姿勢を持って、変化や不確かなもんでも大きな心で
受け入れようやっていうこと。自由な発想と挑戦って感じやわ。
3. 表現形式の横断(Format crossing)
異なる芸術形態やメディウム(構成要素)や学問分野を組み合わせて画期的で
多彩な作品を作り出すことやわ。
伝統と信念に根差した頑固な境界線を踏み越えて、新しい考え方や創造方法を
模索しアイデアを生み出すことやね。
わかりやすい例としたら、昔からアートと宗教って「宗教芸術」って言葉が
あるようにカレーライス+福神漬けくらいのベストコンビやん。そやけどアートと
サイエンスとかアートと政治なんて今でこそサイエンスアートとかポリティカル
アートがあるけど、20世紀以前の昔はそれぞれ全く別の分野とされてたやん。
ある日、それらを思い切って組み合わせてみたら、カレーライス+コンニャク
くらいの意外なおいしさになったわってことやわ。
そのおいしさに気づいたのが、サルバドール ダリさんやピカソさんやったって
ことやね。
オルターモダンのアーティストらは、異なるいろんな面 (文化的、社会的、地理的な考え方からくる異なる影響や伝統や視点) がそれぞれ交差してる中心の空白部分を
始点として、そこから関連する多様な要素を探求して結び付けてくって感じやわ。
異なる時代、地域、概念、文化的リファレンスなんかは普通は結びつかへんような
要素やけど、その異質な要素同士を結び付けて、そこから新しい意味や物語を
創り出して、見る人にこれまで気づかなかったつながりに気付かせるような
作品作りをしはるってことやね。
ノンフィクション的な要素が土台となり、そこにフィクション的な層が折り重なって新しい見方がうまれるんかもね。
ほんで、その作品は完成品として固定される物というよりは、その作品を作る
プロセスやそこに至るまでの動きも含んだものが作品となったり、創作活動の
プロセスが感じ取れるような作品やったりするんやろうね。
因みに文化的リファレンス(cultural references)ってのは、その国や地域の中で
使われる特定の言い回しとか表現のことで、他の国や地域では意味不明で
理解できへんもんのことを言うねん。
「お前、カツオみたいやな」って言われたら、アニメのサザエさんに出てくる
いたずら好きで悪知恵が働く丸坊主の男子小学生のカツオって意味なんは、
日本人のほとんどがわかるやろうけど、他の国の人で「ほんまや、あんたカツオ
みたいやで」って話に乗れる人は滅多にいないやろうし、万が一乗ってきたら、
「そうそう、あの高速で遊泳する春と秋にやってくるやつね~」って話が
変わってしまいそうやん。
あれ?その説明って「文化翻訳」と似てへん?と思った人いるやろね。
似てそうで似てへんねんけど、お互いに関連性はある言葉やで。
文化翻訳は、文化的なコンテンツをさまざまな表現法でアクセスできるようにしたり理解できるようにすることやけど、文化的リファレンスは文化的な知識を活用する
作品の中の特定の要素のことを言うねん。
さっきのサザエさんの例やと、こうなるわ。
「文化的な知識を活用する作品」 → 「お前、カツオみたいやな」
「特定の要素」 → 「カツオ」
とりあえずオルターモダニズムがどんなんかは、おばちゃんの独断と偏見の説明で
ヒントとなったやろうから、ここで、おばちゃんの前のブログ
「2024年ターナープライズショートリスト」をもう一回読んでみて。
ショートリストに入った4人の作品がまた違う角度で見えてくるんちゃうかな?
まあ、難しく考えることないんよ。
さっきも言ったけど、芸術のイズムって哲学みたいなもんやねんから
人によって捉え方や解釈は違ってくるし、どれが正解ってないねん。
もし、「xxイズムは、こういうことだと思います」って自分なりの解釈を述べて、
相手(教授とか)から「それは間違ってる」って言われたら、
「そう言うアンタが間違ってる」って言ったり。
おばちゃんのオルターモダニズムの解釈やって、1つの見方にしかすぎへんねん。
いろんな見方が出てくんのは自然なことやしね。
無限の追求やから、アートっておもしろいんやね~。
そしたら、今日はこのへんでやめとくわ。
また時間できたら、書くわな~、ほなね~。