こんにちは、2階のおばちゃんです。
今日は独断と偏見でおばちゃんの好きなイギリスのコンテンポラリーアート作品を
紹介すんね。前回の「ネオコンセプチュアルアート」のブログにも関連するで。
おばちゃんのブログ「FREEZEとYBA」でも出てきた人・・・ マイケル クレイグ
マーティンさんの作品で「An Oak Tree」(樫の木)って見たことあるかな?
1973年のコンセプチュアルアートでテートモダンにあるねん。
作品は床から2メートルちょっとほどの高さに設置されたガラス棚に置かれた
水の入ったグラスで、おばちゃんがテートモダンで見たときは部屋の奥の角に
ヒッソリと置かれてたわ。それと一緒にこの「An Oak Tree」についてインタビュー形式でインタビュアーとクレイグマーティンさんの会話がテープで流れててん
(今は展示が違うんかな?)。
2メートル以上うえに展示されてるから、ガラス棚に置かれた水の入ったグラスを
見上げなあかんねん。
この作品の何がおもしろいかというと、アイデアや思想がどのように形作られ、
作品とそれを見物する人のそれぞれの役目がどこにあるのか、コンセプチュアルアートの考え方そのものを問うてるとこが興味深いなぁと思ってんねん。
Licensed under CC BY-SA 2.5 via Wikipedia Licensed under michaelcraigmartin.co.uk
写真の下のほうにある赤字のテキストがインタビュー形式の会話の内容やねんけどね。内容を関西弁に訳すとこんな感じ↓やねん。
(なんで関西弁に訳すねんって突っ込まんといてな)
Q. まず、この作品について教えてくれへん?
A. ええよ。自分がやったのは水の入ったグラスの偶有性(accidents)を変えずに、水の入ったグラスを成長した樫の木に変えてん
Q. 偶有性って何やねん?
A. えっと、色、手触り、重さ、サイズとかや。
Q. グラスの水が樫の木のシンボルやって言うてんの?
A. いや、ちゃうねん。グラスの水の物理的な形状を樫の木の物理的な形状に変えてん。
Q. でもグラスの水に見えんで。
A. そやで。見た目は変えへんかったからグラスの水に見えんで。
そやけど、それはグラスの水じゃなくて樫の木やねん。
Q. ほんなら、グラスの水の物理的な形状を樫の木に変えたんを証明できるか?
A. え~ できる、できへんの両方やなぁ。グラスの水の物理的な形状は維持したっていうのは
見てのとおり証明できてるやん。でもなぁ、通常、物理的な変化の証拠って言うたらどこか見た目で
変化してるのを探さなあかんねんやろうけど、そんな証拠はないわ。
Q. ただ単にこのグラスの水を樫の木と呼んでるだけなんちゃうん?
A. いや、それはちゃうねん。物理的な形状を変えたからそれはもうグラスの水とちゃうねん。
それをグラスの水と呼ぶのは間違ってんで。
まぁ、呼びたいように呼んだらええけど、それが樫の木であるという事実は変わらんで。
Q. なんや裸の王様の話みたいやん。
A. いやいや、ちゃうんねん。裸の王様の話は、ほんまはNoやと分かってんのにYesって言わなあかんと感じたから、実際は存在せーへんものを見たと主張したやん?
誰かがこの作品に樫の木を見たって言うたらめっちゃビックリするわ。
Q. 物理的な形状の変化を起こすのって難しかった?
A. 全然難しないで。まったく何の努力もいらんかったわ。
そやけど、変化を起こせると気づくまでは何年もかかったわ。
Q. グラスの水が樫の木になったんはいつ頃なん?
A. グラスに水を入れたときかなぁ。
Q. そしたら、グラスに水を入れるたびに樫の木になんの?
A. ちゃうで。樫の木に変えるつもりのときだけやで。
Q. そしたらその意図があるときに変化を引き起こすん?
A. その意図が変化を促すって言えるわ。
Q. どうやってやんのか方法は知らんってこと?
A. 自分が分かってると思ってる原因と結果とは矛盾してんねん。
Q. なんか奇跡を起こしたと主張しているように思えるんやけど。そうなん?
A. そう思ってくれたら嬉しいわ。
Q. でも、こんなことできんのは自分だけとちゃうの?
A. そんなんわからへんやん。
Q. 他の人にその奇跡を起こすの教えられるか?
A. 教えられるもんちゃうで。
Q. グラスの水を樫の木に変えることは、芸術作品やと思う?
A. うん、思うわ。
Q. じゃあ、その芸術作品は実際どれになんの? グラスの水?
A. グラスの水はもう無いで。
Q. 変化のプロセスが作品?
A. 変化に伴うプロセスって無いで。
Q. 樫の木?
A. うん、樫の木。
Q. でも樫の木って心の中にしか存在せーへんやん。
A. ちゃうねん。実際の樫の木は物理的に存在するんやけどグラスの水の形をしてんねん。グラスの水が特定のグラスの水やから、樫の木も特定の樫の木やねん。「樫の木」っていうカテゴリーで想像したり特定の樫の木を思い浮かべたりしてグラスの水に見えるもんを樫の木として理解することとは
違うねん。それが知覚できひんのと同じように想像もできへんねん。
Q. その樫の木はグラスの水の形になる前にどっか別の場所におったん?
A. この特定の樫の木って以前は存在してへんねん。それにグラスの水以外の形は持たへんで。
これからも持たへんって言っとくわ。
Q. そしたらいつまで樫の木であり続けんの?
A. 自分がその樫の木を変えるまで樫の木やねん。
これ読んで哲学的な思想のおもしろさがにじみ出てて深いなぁって思わへん?
因みに過去にこの作品「An Oak Tree」をオーストラリアに輸出しはってんけど、
オーストラリアでの入国審査で「外国からの植物」やと判断されて税関で入国を禁止されたことがあるねん。たぶん申告書の商品名にそのまま「An Oak Tree」って記載してあったんちゃう?それで、クレイグマーティンさんは「このOak Treeというのは本物の樫の木のことではなくて、水が入ったグラスです」って税関職員に説明しはって、とうとう”水が入ったグラス”やと認めてしまってん。
ほかにもこの「An Oak Tree」のようにコンセプチュアルアートについて考えさせられる”アート作品”(?)があるから書いとくね。
前回の「ネオコンセプチュアルアート」のブログで書いたマルセル デュシャンの作品「Fountain」(泉)にパフォーマンスアートを披露したフランス人(Pierre Pinoncelli - ピノンチェッリさん)がいて結構大騒ぎになってん。
1993年8月に開いたフランスのコンテンポラリーアートギャラリー「Carré d'Art in Nîmes」でのエキシビジョンで、このピノンチェッリさん、ハンマー持参で訪れて「Fountain」に排尿してハンマーで一撃しはってん。後に高額な罰金を命じられて
保護観察処分になってんけど、彼は過去からいろいろやらかしてはってダダ(Dada)にどっぷり漬かっているアナーキストっぽいねん。こういう人はコリひんねんな、
今度は2006年1月にポンピドゥーセンターでの”Dada” エキシビジョンに展示されてた「Fountain」にまたもやハンマーで一撃して捕まって罰金と執行猶予付き3カ月の実刑判決が下されてん。
ピノンチェッリさんはデュシャンさんのアート思想を嫌ってるんじゃなくて信奉しているほうで、彼が「Fountain」を攻撃したのは8個の「Fountain」のレプリカ(彼曰く偽物)の1つでオリジナルではなく、傷つけるためじゃなくて商業的なアートの世界から解放してデュシャンさんの本来のビジョン(挑発的な資質)に戻すために行ったと主張してるねん。
なんでハンマーで一撃したかについては、オークションの競売で使用するハンマーに例えてアート作品の販売成立を象徴してるってコメントしてんねん。このハンマーの一撃が「Fountain」を新しい芸術に変えたことを暗示してんねんて。
当時のピノンチェッリさんの事件 (彼はパフォーマンスアートやって言ってんねんけど) に関するコメントを読んで、コンセプチュアルアートとダダの関係性に改めて気づかされてん。
ダダ(DadaまたはDadaism)は1910年代半ばの第一次世界大戦時に起こったアートムーブメントで価値を創造することを目的としたものやねん。
「従来の芸術的価値観や規範を破壊し、非伝統的な方法で伝統的な古い美学や芸術を新しいものに変えよう。古臭いものは無くしてしまえ!」って言う思想やねんね。
だからダダの作品はモチーフが結構挑発的で攻撃的な印象のものが多いねん。
この「Fountain」はコンセプチュアルアートの代表として今でも有名やけど
ほんまはダダの無数の作品の1つって位置づけやねん。
次回はおばちゃんの好きなコンテンポラリーアート作品第2弾を書くね。