🚫ネタバレ注意🚫



{6506928C-7A55-48CE-B2C5-830877A8D1D0}


内容は省略。あくまでも個人的感想です。

2016.10.05 試写会にて

イタリアのアカデミー賞とも言われるダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞受賞作品。綿密に折り重なり交錯する構成は斬新ながら、物語の描写は実にイタリア映画らしい観客に解釈を委ねたヒューマンサスペンス(おそらく)。

ある一人の男が夜道で車に轢き逃げされるシーンから始まるこの物語は被害者に焦点を当てることなく、一見無関係にも思える三人の人物の視点から三部構成で描くことにより一層重みと奥行きを増した多面的な映画となっている。
まず利己的で金に異常な執着心を見せる男ディーノに焦点を当てた第一部では、甚だ感情移入し難い卑しさが映し出されているのだが、何故だか己の中の醜い部分を見透かされたかのような後味の悪さを感じた。おそらくこれは誰しもが抱えている欲望や心の貧しさを嫌味なほどに浮き彫りにしているからだろう。普段私たちが見て見ぬ振りをし、綺麗事で覆い隠そうとしている恥部を、ディーノという一人の男により具現化させることで観る側に否が応でも再認識させる手法は実に効果的だ。
そして第二部の裕福な夫人カルラを通して描かれる空虚な心。贅沢な暮らし、仕事熱心な夫、優秀な息子、手入れの行き届いた美貌…誰もが羨むものをすべて手に入れていながら、彼女は満たされない何かに思いあぐねいている。一見煌びやかな彼女の内は、その実、常に何かを渇望し、己の存在意義を模索していた。そんな生活の中でふと蘇る若かりし頃の夢や情熱、一時の情愛。過ちとわかっていながらも満たされていく心には逆らえず、終いには己を「許し」てしまうなんとも愚かな女がそこにはいた。しかし彼女を愚かと認めながらも、頭とは裏腹に共感してしまう女性は少なからずいるはずだ。そういった心理へと誘導する繊細な描写は見事と言えよう。
最後に第三部の主人公セレーナの視点では世間体やしがらみをも度外視してルカという前科持ちの少年に惹かれていく恋心が、実に人間臭く描かれていた。ラストにかけてのただ直向きに彼を守ろうとするセレーナの姿には思わず胸が締め付けられる。前述した二人の大人に比べれば、このセレーナという少女の方がよほど大人だった。自分にとって何が一番大事か、何を守りたいのか、揺るがぬ想いがそこにはあった。
轢き逃げというひとつの事件を巡って錯綜する様々な思惑は確かに人間の真価を問いているのかもしれない。ラストシーン、テロップだけで淡々と語られた「人的資本」という法的価値観がいったい何を意味するのか。果たしてそれは本当に正しいものなのか。この映画を通して観客は今一度考えることを迫られているのだろう。

しかしながらイタリア映画ならではと言えばそれまでだが、どうにもラストの描写が丸投げしているように思えてならない。有り体に言えば雑だ。これを思想の余白と捉えるには些か方向性の指針が足らないのではないか。三者三様の視点が織り成す構成が素晴らしい分、私の中ではなんともカテゴライズしづらい作品だ。






🚫ネタバレ注意🚫





{D02A90DF-FB67-4D10-B16D-89C1E2730193}





あらすじは省略。あくまでも個人的感想です。


2016.10.03 試写会にて


コリン・ファースとジュード・ロウの夢の初共演ということ、文学ファンとしては見逃せない題材ということで鑑賞。結論から言えば良い意味で期待を裏切ってくれた。


まずそもそもが実在した天才小説家トマス・ウルフを私の中で美形俳優という認識であったジュード・ロウが演ずるということに少々の無理を感じていたのだが(何故ならばトマスは大層な巨漢の大食漢であったから)、そんなことは彼の演技を見た瞬間に吹き飛んでしまった。それほどに見事な演技だったのだ。溢れる才能やエネルギー、鋭い感性、繊細さ、無邪気さ、極端な社交性の欠如、傲慢、そして見え隠れする天才が故の不安と苦悩…どう言い表せば良いのかはわからないが、そんなトマスの魂をジュード・ロウから見て取ることができた。

そしてコリン・ファースもまた、素晴らしいの一言である。カリスマ編集者マックス・パーキンズという役柄上、演じ様によってはストーリー全体を支配できたのかもしれない。だが今作のマックスはそうではなかった。常に作家たちを静かな愛を以ってして支え励ます「黒子」のような存在だった。トマスにとっては同時に友であり父でもあった。そんな難しい役どころをコリン・ファースはなんとも絶妙に抑えた演技で表現している。生真面目そうな目線や帽子に触れる指先の動きひとつ取っても完璧なるマックスだ。本当に彼は役に染まるのが上手い。


次にキャラクターに着目してみる。相反する二人の主人公を喩えるのならば静と動、理性と感性といったところだろう。そこのところのコントラストが実に面白い。編集部の一室で無言でペンを走らせるマックスと、感情が昂り地団駄を踏むトマス。ジャズバーで音楽には興味がないと黙り込むマックスと、そんな彼をも巻き込んで「芸術家」たちの奏でる音楽に興じる自由奔放なトマス。対極しているかのように見える彼らが、次第に打ち解け、互いを認め合い、やがては父と子のようにかけがえのない存在へとなっていく様は観る側を温かな気持ちにさせてくれた。そしてニューヨークのアパルトマンの屋上で二人が肩を抱きながら書くことの意味や物語の持つ力を語り、大国アメリカを一望するシーンではこの時代ならではのアメリカの影を見た気がする。


また、この作品は構成も秀逸だ。劇中にマックスがトマスの草稿に対し、ハイライトをより効果的にするには無駄なものを削げ、ブレずにシンプルであれと助言するのだが(細かな台詞などは違うが)、これはこの作品自体にも言えることかもしれない。稲妻のような初恋を表現するのに誇張した形容詞が要らないように、二人の物語を描く上で無駄な美化は要らない。だからこそああいったラストの展開になったのだと思う。トマスの死を大仰にドラマティックに演出することはせず、死後の描写をだらだらと長引かせることもしない。茫々とトマスの死を傍観していたマックスが、二人で声を張り上げながら作品を推敲していたあの編集部のデスクの上で独り、死ぬ間際のトマスによって書かれた「もう一度君に会いたい」という手紙を読み、堰を切ったように大粒の涙を流す…ただこれだけだ。これだけのシーンで、彼らのすべてが描かれていた。

すぐに切り替わったエンドロールを眺めながら、私は泣いていた。

上映後、目に焼き付いて離れなかったのは病により突然倒れてしまったトマスの瞳のアップ。あの時あの瞬間、彼は何を思ったのだろう。誰を想ったのだろう。


この秀作にただ一つ難癖をつけるならば、何故原題であるGENIUSをそのままつけなかったのだろうかという点だ。geniusには「天才」と共に「守り神」という意味がある。映画の内容から言ってもこちらの方が相応しいように思えてならない。劇中あれほどマックスがタイトルの重要性を語っていたのだからこそ、私は尚更に思う。