昨日の午前1時45分亡くなりました。多臓器不全(老衰と云って良い状態でした)で満年齢83歳10か月。

 

 髙村家の男としては比較的長命です。(大体が70歳代。ごく一部は90代以上まで行きますが)大健闘でした。伯母の話では本当の大往生と云って良い亡くなり方で、晩年の数年は家の中から出歩く事は殆どなかったが、(何分歩行が困難で、それでもトイレや入浴はほぼ最晩年迄自分で出来た)これまた論文等は最晩年まで書き続け、5/13に最期の論文を出版社に出して、数日後「右手がやけに震える、力が入らなくなった。」と訴え救急搬送され、診断結果「脳梗塞」でした。発見が早く麻痺は残らない見込みでしたが、持病が牙をむき出し、脳梗塞は解決しそうでしたが、持病が悪さをし始め数日前医師より「明日まで命が持つか判りません。覚悟を決めて下さい。」と宣告を受け、「危篤」と2度告げられたが、何とか持ちこたえ安心していた26日の未明命が尽きました。

 

 山形の風習にのっとり、葬儀は29日ですが午後に葬儀なので、28日火葬予定でしたがカマ(火葬炉)が満員で28日は出来なくなり、やっと葬儀直前の午前9時30分にカマが取れました。以前も書いていますが、山形県は宗派、宗教(神道、キリスト、その他)問わず火葬前の葬儀は特別な事情がない限り行えません。火葬が出来ないとなるとかなり大事になります。セレモニー依頼だったら火葬前の葬儀は山形県内全ての業者は終わるまで葬儀を延期します。(伯母の話で今日の午後以降山形市内はカマが満員と知りました)

 今火葬炉が1週間たっても満員のままと聞いた事ありますが、山形でもそれが罷り通ると葬儀が出来ない事態に発展しますし、焼けなくて仏が可哀想だとなるでしょう。現時点では3日以上経っても焼けない場合は市外の焼き場を手配します。

 

 伯父の遺体と対面しましたが、安らかで安心しましたが、死に装束は「今から山大に教鞭を執りに行く!」の姿で伯父らしさを感じました。

 伯父が助教授だった平成2年、高校の同級生を使用した数学の教科書の著者なので、判らない所を著者に聞いたら?と話し、伯父に教えて貰いました。(奴にも亡くなった事伝えました)

 

 伯父は私が不得意の物理数学の教授となりましたが、職場に福祉施設実習体験で来た、物理数学科の学生に甥である事を隠して、伯父の話をすると「子守歌の仙吉」のあだ名がある教授でした。運動部の学生は眠くて仕方ないそうです。

 

 もしこれに気付いた山形大学の学生さん、伯父と伯母のなれそめを書きます。あの伯父とは思えない驚きの話でした。昭和43年(1968年)伯父と伯母は結婚を本気で考えました。一人娘である伯母なので、大伯父(平成3年癌で79歳で死去)大伯母(平成28年老衰で102歳で死去)共に猛反対。家を飛び出し、暫く遠方に身を寄せ、そんな中お婆ちゃん(伯父の実母であり、親父の母、昭和62年老衰で87歳で死去)何とかお願いして結婚を許してもらい昭和44年結婚しました。後に助教授時代大伯父夫婦と同居し、マスオさん状態でそれぞれが亡くなるまで婿を務めました。伯父は三男で、伯母の姓になればと思いましたが、伯父がそれを嫌がったのかな?(親父は四男です)

 

 最後に今日初めて知りましたが、伯父のカラオケ十八番の知床旅情。

 

 

 さようなら伯父さん、親父の代わりもしてくれました。本当にありがとう。極楽で親父に会えるか判らないけど親父に会えたら、楽しく過ごしてね。伯母さんが話していたけど、84年の寿命でやるべきことは全てやって思い残す事はない程だったそうなので、ボ~ッとすごすのもいいんじねぇ?伯父さんそれ嫌かな?

 

 

 

 

 

 

 

▼本日限定!ブログスタンプ

あなたもスタンプをGETしよう