あの日は学校から早退し、父と病院に行っていました。

その時は小学校1年生。

8年たった今でも記憶に残っています。



「頭が痛いです。」と保健室の先生に言うと、体温計を渡された。

ピッピッ。珍しい熱があるみたいだ。

休みたがりな私はなんでもなくても保健室に行くのが癖。
 
「お父さん迎えに来てくれるって。ちょっとだけ待ってようか。」

そして数分後、父が迎えに来た。

社交辞令を済まし、車に乗った私に一言。

「大丈夫か?」

そしてかかりつけの病院へ向かった。

本当にこじんまりした病院だった。

昔から通っている安心するところ。

今日も小さい待合室に沢山の患者が座っている。

「じゃあ、これでお熱測って待っててねー。」

この体温計が独特で昔ながらのやつなんだと思う。

体温計というより温度計みたいで🌡こんな風にえきだめがついているもの。

一体いつから使っているのか。

父と待合室に座った直後のことだった。

グラ。

「地震か。」

その頃はかなり地震がよくあり、今回も小さいものだと思っていた。

しかし、不幸にもその予想は外れたのだ。

体感的には横揺れが大きかった。

縦に落ちるような感覚の時もあった。

父は小さい私の肩を抱いて、

「病院だから、建物壊れたりはしないよ。安心だね。」

そういう手には力が入っている。

隣のおばあさんが突然笑い出した。

「もう死んでもいいよ。何もやり残したことなんてないよ。」

いや、待てよ。私はまだ生きたい。同じにしないでよ。

しかしそれからお年寄りからの共感の嵐。

井戸端会議が始まった。

「死ぬ前に墓買っときゃ良かった。」

「孫に小遣いあげときゃ良かった。」

「もう地震なんて怖くないからね。年取ってんだから、死ぬのが早くなるだけさ。」

と、入れ歯をカタカタ言わせながら話してる。

なんで死ぬ前提なのさ。

まだまだ私は生きたいわ。

ってずっと思ってた。

はっきり言って私はまだ小さく、自分の家がどこにあるかも知らなかったので、何がなんだかわからなかったが、父が一言「津波は来ないな。」と呟いていたのは覚えている。

津波がなんだかも知らないが、謎の安心感がその一言にはあった。

多分大丈夫なんだろう。そう感じた。

地震は何分続いたのかわからない。

しかし体感では1時間はあった。

家に戻ると母が棚から落ちたものを片付けていた。

といってもほとんどものは落ちず、唯一壊れたのは母のバイオリンだった。

あとから知ったことだが、私の住んでいるところは、かなり地盤がしっかりとしているところで、揺れはきつくなかったそうだ。

安心したような顔でダイニングテーブルを囲んで家族会議が始まった。

電気は使えるか。
水は出るか。
食べ物はあるか。
灯油ストーブはあるか。
親戚の安否は。

など小さかった私にはよくわからなかった。

少しして兄を学校まで迎えに行った。

生徒はエアコンが使えるスクールバスの中で待っていた。

いつもガヤガヤしている学校は魂が抜けたみたいに暗く静かだった。

「もう帰ってたのかよ。めっちゃ心配したのに。」

兄は私が早退したことを知らず、1年生のバスにいないため、学校に取り残されたのではないかと思っていたらしい。

これは先生から聞いた話だ。

本当に兄には感謝している。

兄を乗せて家に帰った。

2人揃ったところで私たちも兄弟会議だ。

DSの充電はどれくらいのこっているか。
いつ発電機を借りに祖父母の家に行くか。
お菓子の残りはあるか。
今日は何のおもちゃで遊ぶか。

なんていらない会議なんでしょう。

小さい頃はこんなに馬鹿でした。

まぁ遊びに生きているようなものなので...

幸いにも水は出た。

しかもうちはオール電化なのに、一つの水道からはお湯も出た。

少なからず水が出る家があり、それぞれ知り合いの家に水を提供していた。

なぜか私はその時自分がその地域の住人なのだと思った。

細かいところまで結構覚えてましたね。

内陸部に住んでいるので津波は経験していません。

が、やはり怖かったです。

病院でのおばあさんの一言が今でも聞こえてきそうなくらい、私たち子供は地震に大きな影響を受けました。

復興はまだまだ進んでいません。

しかし何をどうするべきかもわかりません。

だから私は私の経験をここに綴りました。

少しでも誰かの為になればと思います。

では、さよなら。