【昭和の未解決事件】国際警備保障の警備員惨殺強盗事件




過去の事件史を見てたら、気になる事件があったので載せてみる。( ..)φメモメモ

昭和48年、水戸市の警備会社の国際警備保障で、従業員が惨殺され現金を奪われるというもの。

国際警備保障は、以前に知り合いが以前に勤めていて、人手が足りないとかで警備の赤外線センサーをくっつけに手伝いとして何回か行った事がある。

以前にも手伝いにも行ったことがある国際警備保障で惨殺事件が起きていたとは驚きだ・・・。過去に凄惨な事件が起きていたとはぜんぜん知らなかった。

詳しくは以下のようなもの 


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昭和48年7月1日午前6時50分ごろ、水戸市●町●-●-●●(※)、毎広ビル3階の国際警備保障会社湯沸かし場で、宿直だった大高喜さん(当時55)が殺されているのを、勤務から帰った同僚のガードマンが見つけた。事務所のロッカーが破られ、現金45万円と、預金通帳2冊(320万円)入りの手提げ金庫が盗まれていたが、前日の6月30日、支給された給料のうち、本人が不在で大高さんが預かり、自分の机の引き出しに入れていた同僚53人分の230万円は無事だった。
 捜査本部は給料日の夜の犯行であるから、内部事情に詳しい者の仕業とみて、捜査に入った。

※現在、この建物が現役で使用中のため番地を伏せる。史料では表示あり。





  聞き語り:増子孝徳(元茨城県警刑事)


 県警本部長官舎の筋向かいで殺人事件が起こるなんて。夏のあさ早くだったが、一報を聞いたときは驚いちゃったよ。那珂町の自宅からマイカーをとばして現場にかけつけたら、本部長(原仁氏)がすでに顔をみせていてね。「ひどい現場だよ」と顔をしかめておられた。
 いやーあ、ひどい現場だった。これは想像も入っているが、殺害当時を再現すると、こんなふうになるようだった。被害者は未明にソファで仮眠しているとき、鈍器(自警用サイレン)で頭を一撃された。意識モウロウとして倒れ込むところを、こんどは厨房に引きずり込まれて、そこにあった包丁でメッタ突きにされた。被害者は無念の形相というか、ものすごい顔つきで死んでいた。
「恨みのある者が殺したような感じもするな」原本部長や、石塚勝水戸署長、築井芳雄捜査一課長・磯田水戸署刑事官らと話し合っているうちに・非常招集をかけた捜査員が続々集まって来た。「水戸のど真ん中・しかも県庁や県警本部と目と鼻のところで起こった殺人事件だ。警察の威信にかけて解決しなければならない」と捜書にゲキをとばし、それぞれ聞き込みに散らせた。

 被害者の大高さんは昭和十五年から五年間、日立署に勤めたことのある元警察官だった。まじめ一方で、ガンコさも相当なもの。四十六年一月入社というから、このガードマン会社には二年半くらい勤めていたことになるね。やっていた仕事は出先のガードマンと連絡をとる係で、まじめな働きぶりが買われて、殺害当日付けで警備係長に昇進することになっていた。家庭的にもおだやかな家庭で、問題はなかった。昇進の日に殺されるなんて、本当に気の毒だったね。
 同社が入っているビルについても説明しておこうかね。ビルは四階建てで、一階は駐車場、二階は毎日広告社、四階には菱電サービス会社が入っていた。夜間働いているのは三階の同警備会社のみ。一階から直接各階に行けるようになっていた。給料日であることを知って、ちょっと人目につかない狭い三階まで階段を登っている。ふだんから金庫が入れてある事務室のロッカーをドライバーでこじあけ・ここしか荒らしていないとなれば、だれが考えても内部事情に詳しい者の犯行となる。
 しかし、流しの線も捨てきれないし、殺し方の残忍さからすれば恨みだって残る。会社に勤務したことのある者、出入りしている者、被害者と交友関係があって会社の事情を知っている者…捜査すべき対象は数多かった。まあ、つまずきというのかなあ。いまだに解決できていない原因の一つは都市型犯罪の典型例だったことだろう。夜間でも通行車両は多いところだから、なんらかの目撃があってもよさそうなもんだったが、隣家の人が「明け方、物音がした」と述べたっきりで、有力な証言は他に得られなかった。どっちかといえばオフィス街の一角だから、夜間は車の割りには人通りが全くなく、〝死角〟になっていたわけだ。
 次に会社の退職者の洗い出しだ。同社は当時・支社、営業所を含めて百人のガードマンがいたが、退職者はその十倍の千人にも達していた。一般的に警備会社は出入りが激しいと聞いていても・調べれば調べるほど・その実態にはびっくりさせられたね。なかには二、三日でやめてしまい・その後消息がつかめぬ者もいた。名前さえ本当かどうかわからないんだから…。できる限りの努力は払って、一人一人のアリバイをつぶしていったが、その関係から容疑者は浮かんで釆なかった。
個人的な交友関係からも恨みを持つような人物の存在は出て釆なかった。被害者はパチンコが好きでね。パチンコ店にはヒマなとき、よく出入りしていたことがわかったので、その方面の捜査も徹底してやったんだが…
 現場での採証や遺留品探しから、犯人につながるものがなにもなかったのも痛かった。現場に残っていたのは普通の皮グツらしい足跡五個だけ。小さな足跡だったので、小柄な男のようだ、という推測はたてれたんだがね…。足跡からクツまでは特定できず、推測の域を出ないで終わった。
 この事件はいまでも脳裏から離れないんだよ。被害者のあの無念な顔つきがありありと浮かん
できてね。責任感の強さがあんな殺され方になったような気もするし…。後輩の人たちがいずれ
の日にか解決してくれるのを心待ちにしているよ。




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基本捜査で、犯人は一日午前二時四十分から同三時にかけて、カギのかかっていなかった事務室に侵入したらしいことがわかった。同時に退職者など一人一人のアリバイ崩しから、一時は数人が捜査線上に残って「犯人逮捕は近い」とささやかれたが、いずれも立ち消えとなり、その後は捜査も伸び悩んで・未解決事件に加えられた。
捜査本部は五十年一月三十一日、解散)


参考史料『実録茨城の犯罪 県警捜査員による四半世紀の証言』







現在の事件現場





事件現場がどうなっているか気になった。

半世紀前の事件だから、さすがに現在は建物は無いだろう。

しかし、なんと未だに現存していた。建物の竣工年が1970年だからおよそ半世紀。こっちの方も貴重だ・・。


建物の名称は毎広ビルから●●ビルに変わっている。恐らくは建物の所有者が変わったのだろうか。



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建物は現在使われているような感じではない。
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しかし後日、通ってみると3階だけ明かりがついてる。

窓も空いているから現在も使われているようだ。

しかし2階と4階はいつもブラインドが閉まっている。

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あの事件から48年。

時効成立で刑をまぬがれた犯人、事件当時30歳だったとしても80歳近い。高齢者か??

今も生きているかどうかわからないが、この町のどこかで生きているんだろうか・・・。