茨城の凶悪事件 ―上申書連続殺人事件― 第1章 後藤の驚くべき証言


 平成17年、複数の殺人・傷害で逮捕され死刑判決を受け最高裁に上告中だった後藤良次容疑者が、「他にも3件の事件を起こし、首謀者が他にもいる」として自白、その内容を書き記した「上申書」を茨城県警に提出した。
 上申書に書かれていた事件は、当時茨城県警が事件性無しとして『自殺』として処理していた事案が含まれていた上に、残虐極まりないものだった。あまりの残虐性から当時の世間の注目となり、映画化され、テレビ番組「奇跡体験アンビリーバボー」でも凶悪事件として取り上げられ放送されたほどだ。

これは上申書の原型になったと言われる文書。新潮文庫「凶悪 ―ある死刑囚の告白―」が要約したのを抜粋し、一部加筆したもの。起訴されていないなど事情のある者の名前は仮名で伏せてある、が正式な上申書ではいずれも記載↓↓


1999年平成11年ころ ”殺人”

  ・茨城県水戸市○○ ○丁目○番○号305号室  後藤良次
  ・茨城県日立市○○町○番○号  ○○商事社長  三上静男
  ・茨城県○○市 ○丁目○番○号 ○○○○店社長 山田正一(仮名)

◎3名で共謀の上で、大塚氏男性60歳位をネクタイで絞殺し遺体を茨城県石岡市内の焼却場で燃やした。三上静男と大塚氏との間で金銭のトラブルから頭にきてしまい、三上静男自身のネクタイで締め殺してしまい、遺体を○○市○○の(有)○○敷地内の焼却場で燃やして始末した。



”不動産殺人事件”1999年平成11年11月下旬ころ

 共犯者、殺害を実行した者達
・後藤良治
・三上静男
・神奈川県に住む、不動産ブローカー・岡田毅(仮名 上申書原文では本名記載)

◎共謀の上で、殺害。○○商事所有地(茨城県北茨城の土地)に生き埋めする。亡くられた方、前の住所は埼玉県大宮市(今のさいたま市)から平成11年12月中旬ころ岡田毅が、住所を茨城県水戸市○○ ○丁目○番地○号302号室に移転する。氏名がはっきりしませんが倉浪篤二氏といいます。
◎倉浪氏、今のさいたま市土地を所有していた事から、殺害して金を奪う計画を立て、(中略)拉致し(中略)その後、三上静男所有地に行き、(中略)地面に穴を掘り、(中略)縛り付けて身動きのできない倉浪さんを放り込んで、穴を埋めた。
 12月に入り、今の埼玉県さいたま市の法務局で、水戸市に移転していた倉浪氏の印鑑と印鑑証明を使い、(中略)土地の名義を一端、三上静男名義にして、土地を売却した。売却金額は私が(後藤良治)が受け取ったので無いですが、7000万円位には成ったと思います。

◎倉浪篤二さんが消息不明では無く殺害されているのです私達に。



●保険金殺人事件

◎2000年平成12年8月7日ころ茨城県笠間市、笠間署管内、山の中で発見され当時自殺扱いになって解決している事件、他殺です。当時茨城県○○市○○町○-〇たしか○○社長さんだと名前はそう思いますが(うろ覚えなため姓の頭文字しかハッキリしていいなかったらしいが、正式な上申書では訂正・記載)。

・共犯者。殺害を実行した者
  後藤良次
  三上静男
  小野塚博敏(仮名 後藤の舎弟)
  鎌田仁  (仮名 後藤の舎弟)

・直接、殺害に関わっていないが「計画的保険金殺人事件」の依頼者。
  山田正一(仮名)
  {B社の}○○社長(殺害された社長)の家族、奥さん、娘夫婦。共犯者、

・共犯者
  茨城県○○市、○○銀行の関連会社に勤めて居る○○○○です。

◎殺害の計画、犯行を企てたのは、山田正一、三上静男、○○社長(殺害された社長)の家族、奥さん、娘夫婦です。三上静男の話では、山田正一社長からB社が経営困難に成り潰れそうなので、貸している金を取りもどしたく、家族も面倒を見るのがつらく、一緒に生活をするのが嫌になり、3者で相談した結果、B社の社長が、生命保険8000万円に入っている事、山田正一社長も4000万円を貸している事から、家族なども納得の上で、「計画的保険殺人」を計画し実行した。
 殺害には半月がかかった。殺害には、毎日、酒を飲ませ、徐々に体を弱らせていった。

◎最後の殺害計画は、(中略)三上静男宅で無理やり、ウォッカ、アルコール度数98度を飲ませて殺害しようとした。鎌田仁(仮名)が体を押さえ込み、三上静男が無理やりビンごと口に突っ込み、飲ませた所、意識が無くなり、後に倒れる。
 (中略)遺体を車に運び込み、国道50号線を笠間市に向かい走り、笠間市の山の中に、死体遺棄するにいたる。

◎2000年、平成12年8月7日笠間署管内山の中で発見され、当時自殺扱いになって解決した。




 後藤良次死刑囚の上申書の提出がなければ、これらの凶悪事件は闇の中に葬られていたであろう。

 これに基づき警察は捜査を開始し、何食わぬ顔で街を歩っていた事件の中心人物、不動産ブローカー「三上静男」凶悪犯を逮捕する快挙を成し遂げ、他にも数名の逮捕者を出すに至った。







 しかし、そこに至るまでには長い道のりと、ある記者の知られざる活躍と苦労があった。






 
  後藤死刑囚は、
 「最高裁に上告はしているが判決は変わらないだろう。それならいっそのこと、これまでの罪を洗いざらい喋って、きれいな身になって死んでいきたい。被害者に償うためには表に出ていない事件も明らかにしないといけない。そして、その事件の首謀者である"先生"が何食わぬ顔で世間を堂々と歩いている事が許せない。」
  と、これまでの行いを懺悔し、すべての事件を打ち明け告発したいと思っていた矢先に、「新潮45」編集部の記者と出会った。
 記者はこれに全力で応えるべく、後藤良次死刑囚(以下後藤と略す)と積極的にコンタクトを取り、何度も後藤と面会し詳細に聞き取りをし、また、何十通におよぶ手紙のやりとりを行い、現地調査を行うなどしてようやく上申書の原形が完成した。なぜなら信用性に欠ける上申書を提出しても受理されない、または検察が動いてくれないため、信用性のあるつじつまの合う上申書を作らなくてはいけない。後藤の記憶がうろ覚えなものに関しては実際に記者が現地に赴き、現地調査や聞き込みなどをして、後藤のうろ覚えな記憶が合っているか調べて、違うものは修正をする。後藤はもちろん自由に塀の外を歩く事は出来ないので、記者が後藤の手となり足となり本人の代行をして調べて来る、という二人三脚。

 こうして完成した上申書が茨城県警に正式に受理され、後藤の「全てを洗いざらいキレイになって死にたい」という思いを果たすと同時に、世間を何食わぬ顔で歩っていた事件の首謀者である「三上静男」という凶悪犯の逮捕に至ったのである。

 今回は、ノンフィクション小説「凶悪 ―ある死刑囚の告発―」から。後藤死刑囚と記者の、二人三脚で上申書完成に至るまでの長い道のりと、上申書および後藤の告発で明らかになった知られざる凶行の数々を紹介していこう。






ノンフィクション小説: 「新潮45」編集部編 / 「凶悪 ―ある死刑囚の告発― 
平成21年11月1日発行
平成27年 1月20日三十七刷
定価:590円(税別)
2013年に日活にて映画化。
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【その➀】 記者と後藤良次との出会い ~上申書提出の動機~ 





「週刊新潮」編集部の、とある記者が東京葛飾区小菅にある東京拘置所を訪れた




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訪れた理由、それは自社の写真週刊誌「FOCUS」が中川官房長官のスキャンダルについての記事を掲載したところ、中川氏がこれを名誉棄損だと裁判を起こす事をちらつかせたため、記事の裏付けをするべくそのカギを握る高橋義博被告と面会し情報収集する為である。
 手紙や面会を重ねていく中で、ある日、記者が高橋被告から相談を受けた。高橋被告が言うには、同じく死刑判決を受けている後藤良治被告が「まだ他にも人を殺している。それらの事件を発表したいから新潮の知り合いを紹介してくれませんか」と、高橋被告に相談をしてきたという。
 補足:高橋義博被告は借金を苦に、金を強奪しようと資産家を拉致監禁、殺害してしまい死刑判決を言い渡され、後藤良治被告と同じ東京拘置所にいた。後藤良次が高橋被告に相談をもちかけてきたのは、新潮記者とやりとりしていた事を知っていた事から。
 これが週刊新潮記者と後藤良治被告の出会いのきっかけで、これから記者と後藤との長きにわたる面会・手紙のやり取りが続くことになる。

 

 この時、後藤良次被告は死刑判決を下され最高裁に上告中である。にも関わらず、なぜ自らを不利な立場にしてしまう「自白」をするのか。その動機は文中の記者と後藤とのやりとりで知る事ができる。




  ↓  ↓  ↓

    (  『凶悪 ~ある死刑囚の告発~』から抜粋。 記者と後藤の面会でのやりとり。 )

記者「後藤さん、まず最初に告発の動機をうかがいたんです。どうして、今、その心境になられたですか。」

後藤「とにかく、自分はもう死刑になる人間です。最高裁に上告はしていますが、判決は変わらないでしょう。それならいっそのこと、これまでの罪をすべて洗いざらい喋って、きれいな身になって、死んでいきたいと思うようになったんです。自分は今、本当に心の底から被害者の方々に申し訳ないと思っています。できる償いはなんでもしたいと考えています。そのためには、表に出ていない事件も明かさないといけない。そうしないと、被害者が浮かばれません。それにすべてを明らかにしないと、今、裁かれている事件の被害者にも償いにならないんですよ。」

記者「今、裁かれている事件の被害者と、闇に埋もれている事件の被害者への贖罪が動機だという事ですね。それはわかります。でも、それだけではないですよね。首謀者への ”先生” への怒りもあるのではないですか。」

後藤:「そうです。自分はどうしてもあいつを許せないんです。それまでは ”先生” ”先生” と呼んでたてていましたけど、やつはとんでもない詐欺師の先生ですよ。人殺しの犯罪者の先生です。かつて、藤田幸夫(※仮名)という男がいました。やつはこの藤田を見殺しにしたんですよ。藤田はもともと極道の世界の人間ではありません。沢田一孝(※仮名)という男と同様に、事業に失敗し、生活に行き詰って、”先生”のところに転がり込んでいたんです。彼らは”先生”の事務所にいそうろうをしており、そこで、自分は知り合いました。それ以降、自分はふたりを舎弟として扱い、可愛がってやっていたんです。藤田には生活能力がなかった。自分は心配して、逮捕される直前に、”先生”に生活の面倒を見てやってください、と頼んだんです。”先生は引き受けたと言ったのに、実際には藤田を見放し、約束を反故した。そのために、あいつは昨年十月に自殺してしまったんですよ。」



(またある別の日)



後藤「あいつは必死の形相で、自分に事件を黙っていてくれと、暗に頼んだんです。『そうしてくれれば、良治君のために、弁護士も俺がつける。国選弁護士じゃ一生懸命やってくれない。私選をつけるから、最高裁まで争おう。頑張って、あきらめずに闘えば、良治君は死刑にはならないよ』と言ってくれたんです。でも、全部嘘だったんですよ。弁護士もつけてくれなかったし、金もたいして差し入れてくれなかった。そもそも、宇都宮の拘置所にいた時に、1回、面会に来てくれただけで、小菅(東京拘置所)に一度も来やしませんよ」



―(藤田を見放して自殺に追い込んだ件について)―
後藤「(配達証明を)全部で4回は出しました。
 『どうなっているんだ。なぜ藤田の面倒は見ず、自殺に追い込んだ。』しかし返事が返ってこない。自分を無視できないようにするため、その次は奥さんの名前で出してやったんです。『嘘ばかりついて、俺をダマしたら許さないぞ。自分はあんたと一緒にやった事件を全てバラすぞ。マスコミや警察に話してもいい。自分は本気だ、死刑なんて怖くないんだ、あんたが手を染めた犯罪を明かされたくなかったら約束を守れ』 
しかし受け取ったのは最初の2回で、その後の2通は中身を開けもせず受け取り拒否で突っ返してきたんですよ」





※この「先生」とは、首謀者「三上静男」の事で、嘘をつくのが得意技で相手を騙して金儲けをする事から「(嘘つきの)"先生”」「(詐欺師の)”先生”」「先生、先生」と煽っていた。



 以上、上の文章で、後藤良治が自白する動機には遺族への謝罪の気持ちがあったという事だが、しかしなによりも”先生”に騙されたことでその復讐心が自白へのエネルギー、一番の原動力となっているようだ。 ※この時点では”先生”は逮捕されずに、一般世間をのうのうと歩っている。










【その➁】  後藤良次の驚くべき証言



 これは、記者が後藤との面会や手紙などで聞き取りをした証言内容をまとめたものだ。実際はこの証言の内容には後藤のいくつかの記憶違いや、場所や人名など忘れてしまい思い出せないもの、地名など抜けている。のちに記者が後に現地取材などで訂正、判明化、詳細化し、清書する事になる。それは後で載せる。(予定)
 しかし、この証言内容は現場の状況を事細かに伝える貴重な資料なので掲載しておく。

(※下の証言内容に登場する「岡田毅」、「鎌田」、「小野塚」、「山田正一」は本名でなく仮名なので留意されたい。)




上申書第1の<大塚某殺害事件>について



彼は、六十歳くらいの「大塚」という知り合いに金を貸していて、その借金返済が滞っていました。大塚が「返さない」と開きなおったことから口論になり、カッとなって、自分のネクタイで首を絞めて殺害してしまったと言うんです。
話をしているうちに、”先生”も徐々に落ち着きを取り戻しました。そして、旧来の知人で、同じく大塚氏に金を貸していた商売仲間の山田正一(仮名)に電話し、事件を打ち明けて、遺体を燃やし、処分する場所について相談したんです。その結果、茨城県内にある山田の会社の敷地で焼却することが決まりました。
                 
 その後、自分は、車で待ち合わせ場所の水戸市内の千波湖近くにあるボウリング場の駐車場に行き、”先生”と合流しました。”先生”も自家用車で来ており、そのまま借楽園の近くにある市営駐車場に移動しました。自分はここで初めて”先生”の車の助手席に乗せられていた、大塚氏の死体を目にしました。あたりが暗くなり、人気がなくなるのを待ち、その場で、遺体を”先生”の車から、自分の乗用車に乗せ換えました。そして、国道六号線を通って、県内の山田の会社まで運搬したんです。その敷地には、大きなゴミ焼却場がありました。自分が、遺体を廃材の捨てられている焼却場まで運びました。山田がそこに灯油をまきました。最後に、”先生”が丸めた新聞紙に火をつけ、それを大塚氏の遺体に放ったんです。こうして遺体は、廃材とともに焼却されました。
 自分はこのとき、”先生”と知り合って、まだ数ヶ月しかたっていませんでした。本来なら、そんな人間に殺人という重大な秘密を打ち明け、相談するようなことは考えられないでしょう。(”先生”が、後藤と仲が良くなかったと言っていることに対しての反論) しかし、”先生”はこの時、パニック状態に陥っていて、冷静な判断ができなかったのです。それに、知り合って間もないといっても、自分を”先生”に紹介したのが彼の信頼している人間だったこともあり、自分に対してもそれなりに信用してくれていたのです。
 実際、このとき、すでに自分は”先生”からマンションを借りるための資金や内妻に車を買い与えるための代金など、生活のために四百八十万円を借りていたくらいです。信用していない人間に、何百万円も貸す人はいないでしょう。
 一番大きかったのは、自分が殺人経験者で、逮捕までされながら、不起訴処分で逃げ切ったことでしょう。それを”先生”は知っていたので、必死の思いで、自分にすがりつき、助けを求めてきたのです。
 (補足:平成2年に群馬県館林市の前橋競輪場外車券売り場で、対立する住吉会系の組長を射殺、殺人罪で逮捕されたが有力な物証が無かったため、検察は立件を断念。不起訴で釈放された。
 それに、協力すれば、四百八十万円の借金はチャラにするうえに、新たに二百万円の報酬を提供するといわれました。この魅力的な提案に、抗し切れなかったのです。
実際、事件から二日ほどたって、水戸市内の事務所で、”先生”から二百万円を受け取りました。  
この件が警察に発覚しなかったため、”先生”は「対処さえ誤らなければ、重大事件を起こしても大丈夫だ」と、自信を深めたようでした。その後、金のためなら人の命をなんとも思わないような狂気の計画を次々と打ち出し、自分も金ほしさに、これに積極的に加担して、地獄に転げ落ちていったんです





上申書第2の<倉浪篤二さん殺害・不動産略奪転売事件>について


 大塚氏殺害事件から一ケ月もたたないうちに、”先生”からこんな話をもちかけられました。
「知人の不動産ブローカーに岡田毅'(仮名)という男がいる。こいつが、大宮市(現・さいたま市)に、まとまった土地を持っているじいさんと知り合った。このじいさん、不動産の資産があるのに、友人どころか、親、兄弟や家族もいないらしい。しかも、自宅から失踪し、その土地を放ったらかしにして、二十年以上、行方をくらましていた。はっきりしないが、なんでも、昔、その家から変死体が発見された。じいさんがその死と関係があるようで、発見直後に姿を消したそうだ。帰ってこられなくて、逃げつづけているらしい。そんな人間だから、なにかあっても、警察には駆け込めないよ。このじいさんに本当に消えてもらって、土地を奪い、転売すれば、一億円にはなる。手伝ってくれないか」
 じいさんは八十歳近くで、体力もない。それに家族がいないばかりか、自宅から二十年以上も失踪していて、近所づきあいや親戚づきあいもまったくないから、殺しても警察には発覚しないはずだ。自分はそう考え、金目当てに、そのヤマの仲間になることを承諾しました。
 決行日は、平成十一年十一月中旬です。”先生”、不動産ブローカー・岡田毅のふたりと待ち合わせをしたのは、一件目の事件で被害者を自分の車に乗せかえた、市営駐車場です。午後四時半頃行くと、ふたりがそれぞれの車で来ていました。問題のじいさんは、岡田の車の助手席に座っていました。自分たち三人は、駐車場で計画を確認しあい、岡田がじいさんを呼びました。じいさんが近づいてくると、最初に自分が彼の顔面をぶん殴りました。その一発でほとんど終わりでした。それから”先生”と岡田も加わって、殴る蹴るの暴行を加えました
が、最初の一撃で、じいさんはほとんど気絶しそうな塩梅【あんばい】だったんです。
 それから自分が、”先生”が用意したロープで手足を縛り上げ、口にタオルをあて猿ぐつわをかませました。そして、自分の車のトランクに閉じ込めて拉致し、車を発進させたのです。自分たちは、水戸インターから常磐自動車道に乗り、北茨城インターで降りました。そこから西に車を十五~二十分も走らせると、山間部に入りました。自分たちは山あいに広がる空き地に車を乗り入れ、停車しました。茨城の北の端の山間部は、十一月の夜ともなると、すでに真冬なみの冷気が漂い、寒さが身にしみました。そこは、雑草が腰の高さまで茂った、数千平方メートルもある広大な原野でした。”先生″が管理・所有する土地です。時間は六時をすぎ、すでにあたりは真っ暗になっていました。遠くに二軒、人家の灯りが見えるだけで、まったく人の気配はありませんでした。自分たちは、ここと決めた場所に、車のヘッドライトをあてました。そして、スコップ二丁を使い、交代で穴を掘りはじめたのです。掘っているうちに寒さも忘れ、服の下にじっとりと汗をかいているのに気づきました。そして一時間もすると、一メートル五十センチ四方、深さも一メートル五十センチほどの、大きな穴ができていました。
 それから自分は、車のトランクからじいさんを引きずり出しました。じいさんの目は恐怖に怯えているのか、観念しているのか、どちらともわかりませんでした。自分はじいさんを穴の底に放り投げました。そして抵抗できず、声も出せないじいさんの体に、土をかけつづけたのです。この仕事を終えた後、自分はこのじいさんの自宅のある大宮市(埼玉県)に出向き、不動産が実際どのくらいの広さなのか、相続などの権利関係がどうなっているのかを登記所で調べました。また、現地にも行き、本当にじいさんが二十年以上も失踪していたのか、家族や親戚もおらず、近所づきあいがないのか、聞き込みもしました。一方、岡田は、じいさんと同じ年恰好のダミーの男性を連れ、水戸市役所に赴きました。というのも、じいさんは大宮市で生活の実体のない状態が長年つづいていたので、すでに市役所から住民票を職権消除されていたんです。
 住民票がないと、実印も作れず、印鑑証明もとれない。それだと不動産取引が行えず、物件を動かせられないんです。そこで、じいさんの住民票を水戸市で復活させようとしたんです。本人証明をするものがなかったと思いますが、二人で、「今後この人はここにきちんと住みますから、お願いします」と言い張り、住民票を復活させることに成功したんです。同時に保険証を取得し、実印の印鑑登録も済ませました。
 ちなみに、このとき登録したじいさんの住所は、自分が住んでいる同じマンションの別の部屋にしました。かつて稲川会大前田一家にいた自分の旧友が、「知り合いが管理している物件がある」というので、この旧友を通じて、住民票を置くために、部屋の名義を借りたのです。
 もとよりじいさんは、この部屋には一度も住んでいません。このときはすでに、自分たちの手で土の下でしたから。その後、自分”先生”、岡田、そして計画の全貌を知らず、裏で殺害行為があったことも知らない旧友、この旧友の知人の司法書士事務所の人間の五人で、大宮の土地を管轄する登記所に出向きました。そこで、じいさんの土地を売買と称して、”先生”に所有権を移したのです。それから日をおかず、”先生”らが、売却先と決めていた不動産業者に土地を売りました。このとき、”先生”と自分、岡田で再度、登記所に行き、土地の所有権を業者に移転させています。
 一億円には届きませんでしたが、約七千万円にはなりました。平成11年11月下旬と翌年1月、二度に分けてお金が入りました。これを、皆で山分けしたのです。じいさんを連れてきた功労者の岡田に二千百万円、自分に千二百万円、旧友に五百万円、そしてマンションの部屋の名義を貸してくれた管理人に報酬として二百万円、という具合に分配したのです。残りの三千万円は”先生”のものとなりました。そこ
から”先生”が譲渡税を払ったのかどうか、税務署への対応については聞いていません)





上申書第3の<阿見町カーテン屋保険金殺人事件>について

             
 大塚氏殺害事件で死体遺棄を手伝った山田正一の商売仲間に、カーテン屋絨毯を取り扱う装飾業者がいました。年齢は六十代後半です。苗字の頭文字しか記憶にないのですが、みんな「カーテン屋、カーテン屋」と呼んでいました。
 この”カーテン屋”の店が経営困難になり、倒産寸前となった。あちこちから借金漬けになっており、山田正一も四千万円ほど貸していたそうです。
 ちなみに、山田と”カーテン屋”は昔、取引関係があり、つきあうようになったそうです。山田が住宅関連の会社を作ったとき、”カーテン屋”にそのノウハウがあったので、社長にすえたという話を”先生”から聞きました。
”カーテン屋”は、店を傾かせた上に、酒好きで糖尿病がひどく、入退院をくり返していました。そんななかで、自宅には借金取りが多数押し寄せ、夫人や娘夫婦など、家族は精神的にも肉体的にも追い詰められていたそうです。体の悪いダンナの面倒を見るのにも、ほとほと嫌気がさしてしまったと聞きました。会社がまもなく倒産し、自宅は差し押さえられ、人手に渡るのも時間外問題でした。山田にしても、金が取り戻せなくなることは明白だった。そこで、山田と”カーテン屋”の家族らが相談しました。”カーテン屋”が八千万円の生命保険に入っていることから、計画的に殺害し、保険金を得ることで家族も合意したのです。
 山田は”先生”に計画実行を依頼しました。家族が承知していて、話を合わせてくれるので、そこから警察に通報されたり、発覚する恐れはないこと。とはいえ、直接的な方法で殺害するわけにはいかないので、うまく病死か自殺に見せかけられるよう、時間をかけてじっくり死に至らしめること、が話し合われました。
 悪知恵の働く”先生”は、飲みすぎ.で糖尿病を患い、体を壊した”カーテン屋”に対し、毎日、大量の酒を飲ませつづけて、徐々に体を弱らせ、最終的にアルコールの過剰摂取で糖尿病を再発、悪化させ、死亡させようと目論んだのです。あるいは、急性アルコール中毒で死んでも良い、と考えていました。
 ”先生”はこの協力を自分に相談し、手伝えば、自分と舎弟らに二千万円の報酬を出すと約束しました。自分は、その男の家族が同意し、協力するなら、アルコール中毒死か自殺に見せかけられ、警察に犯行が発覚しないと思い、引き受けたのです。
 ”カーテン屋″を水戸市内の”先生”の一軒屋の事務所に寝泊りさせ、”先生″と自分、舎弟の小野塚(仮名)、鎌田(※仮名)の四人で、毎日、彼にアルコールを飲ませつづけました。一度、”カーテン屋″の女房や娘夫婦らもこの事務所に来たことがあって、自分も会っています。その際、自分は、彼女らから「いろいろご面倒をおかけしますが、よろしくお願いします」と、暗に殺してくれとお願いまでされているんです。このとき、家族が了承しているということは間違いないんだと確信しました。また、”カーテン屋”自身も、自分に残された道はそれしかないと納得している風でもありました。
 その後も、自分たちは、彼に酒を飲ませつづけました。その際、”先生”は、
         
「この借金まみれの居候が」
「死ね」
「自殺しろ」

 と、口汚くののしっていました。無理やり酒を飲ませはじめてから事を遂行するまで、半月ほどの日数がかかりました。
 最後のとどめを刺す実行日は平成十二年八月三日。この頃には、”カーテン屋”も相当、体が弱っていました。飲みすぎのせいで具合が悪く、この日の朝、血を吐いたほどです。 場所は、”先生”の自宅。彼が娘のために買ってあげたピアノがある一階のリビングです。そこで、その夜、自分たち四人は”カーテン屋″に焼酎などを飲ませつづけていました。
 その際、”カーテン屋”が「やっぱり死にたくない。家に帰りたい。助けてください」とふざけたことを言いだしたので、自分や小野塚は彼の身体にスタンガンをパテパテとおしあて、ヤキをいれました。百ボルトの電気コードの先端を切り、頭におしつけて電流を流し、いたぶったりもした。”カーテン屋”は、痙撃を起こしたようにぶるぶる震えだしたり、とびあがったりしていました。ソファーに座って、焼酎を飲みながらテレビを見ていた”先生”も、その様子を面白がって、参加してきました。
 再び、”カーテン屋”の身体を押さえつけ、無理やり胃の腑にアルコールを流しづけました。こんな”狂宴”がくりひろげられる中、ついに”先生”がとどめの凶器を手にしました。サイドボードにあった、まだ栓をあけていないウォッカのビンを取りだしたのです。そのラベルには、アルコール度数九八度の表記がありました。
 そして最後は、鎌田が、”カーテン屋”の体を押さえ込み、”先生”が有無を言わせず、ウォッカをビンごと口の中に突っ込み、一気に飲み干させたのです。まさに狂気のなせる業でした。
 この間、家の中には”先生″の奥さん、長男、長女がいましたが、二階にあがっていて、狂態は目にしておらず、何が行われていたかは全く知りません。そのうちに、”カーテン屋″は息も絶え絶えになり、意識がなくなって、床に倒れこみました。こうして”死の酒宴”は終わりました。
 「やっぱり、ここで死なれては困る」と言い出した”先生”が、”カーテン屋”を、水戸市の事務所に運ぶことに決めました。”カーテン屋”を自分の日産エルグランドに乗せ、二台の車に分乗して、自分たちは常磐自動車道を水戸に向かいました。その途上、午前三時三十分頃、車中で”カーテン屋”の息が完全に途絶え、死亡しました。
水戸インターで常磐道を降りて、事務所に午前四時ころ到着。”先生”の命令で、小野塚と鎌田は、”カーテン屋”の遺体を風呂場に運び込み、服を脱がして冷水に漬けました。”先生”によると、これで死亡推定時間を遅らせることができるというのです。その間、自分は気分が悪くなり、玄関でお香をたいていました。
             
 ”先生”の指示で、遺体を笠間市方面に運ぶことになりました。遺体に服を着せ、四人でエルグランドに運びました。自分は事務所近くの駐車場に止めていた”カーテン屋”の車をとりに行って、運転しました。そして二台で、国道五〇号線を西に走り、笠間市に向かったのです。
 早朝、水戸市から笠間市に入り、五〇号線をしばらく走ったところで右折しました。十分ほど走って、山の中に入り、さらにアスファルトの舗装された道から土のわき道にそれて、少し行ったあたりで車を停めました。 そして、”カーテン屋”の遺体を道の上に寝かせて遺棄し、その場に彼の車も残したのです。遺体が発見されたときに、すぐ身元が確認されるように、わざと車のダッシュボードに彼の免許証を入れておきました。
 その山林の場所は、笠間警察署管内でした。数日後、遺体が発見されましたが、犯行はバレず、計画どおり自殺か病死扱いで処理されました。
 保険金は、自分と舎弟たちには入っていません。保険金が下りたかどうかも未確認です。なぜなら、三人とも、この直後に宇都宮で強盗致死事件を起こし、逮捕されてしまったからです。しかし、間違いなく八千万円のお金が入っているでしょう。とすると、山田正一が債権分の四千万円を取り、残りの四千万円
を全額、”先生”が懐にいれているはずなんです。あるいはもっと多かったかもしれない。というのも、”カーテン屋”を殺す直前、”先生”から「保険の加入口数を追加して、保険金を増やす」というようなことを聞いた覚えがあるからです




後藤の証言内容を簡単に要約する(この現時点) 

  ↓  ↓  ↓
大塚某殺人事件未捜査先生が殺した(石岡市の)焼却炉で焼いて処分した
倉浪篤二さん殺害・不動産略奪転売事件未捜査私達が殺した北茨城の先生所有の土地で生き埋めにした
阿見町カーテン屋保険金殺人事件自殺で解決済私達が無理やり酒を飲ませ先生がとどめを刺して殺した城里町の林道に遺棄した












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阿見町のカーテン屋が遺棄された城里町の林道 / 毎日新聞 オンライン            
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        補足 : ”先生” (三上静男)の人物像



 次は先生こと、三上静男の冷徹な人物像について。記者は「先生」こと三上静男の人物像を知るべく、先生の関係者から詳細な聞き込みを行った。その取材の量、隙の無い完璧なまでの聞き込みには尊敬する。十分過ぎるくらいだ。いずれも興味深い内容で、後世の事件史の研究の参考になるので引用させていただく。

↓  ↓  ↓



    ( 小説「凶悪」から。記者が三上静男の知人へ行った聞き取りの内容を抜粋 )

「中学時代から不良を気取っていたけど、中途半端なやつで、自分より弱いやつだけをいじめているという感じの男でした」 (元同級生)

「あいつが立ち上げた会社は、住宅の配管パイプなどを中心に扱っていたが、商売のやり方があくどかった。どこよりも安いというのが宣伝文句で、実際、見積もり段階では格安なんだけど、いざ支払いになると請求書の値段が跳ね上がっている。気の弱い業者ならそのまま払っちまうんだろうが、強く文句を言うと、『悪い、悪い。従業員がまちがえたんだ』と修正する。そんなやり方をしてりゃ、信用をなくすよ」(茨城県内の住宅関連会社社長)


 ―そして、倒産の際には、こんな出来事があった。―


「平成四~五年ころ、三上静男に、信用組合が五、六千万円の融資をおこなった。その保証人になった電機設備会社の社長は、本当に気の毒だった。三上と取り引きがあったことから、保証人の候補にあげられ、信用組合の人間が日参したんだ。当然、社長は断りつづけていたさ。
 でも、支店長に酒席の接待を受け、『保証人をとらないうちに、三上さんに融資してしまった。これがバレたら、自分はクビになる。どうか助けると思って、保証人になってください。不動産の担保はとってありますので、なにかあっても絶対、迷惑をかけませんから』と泣きつかれ、とうとうサインしちゃったんだ。
 そうしたら、数週間で、三上の会社は倒産さ。保証人になった社長が信用組合に文句をいっても、担保の不動産は処分できない不良物件で、支店長も知らぬ存ぜぬで逃げとおした。悲惨な目にあってましたよ。
 また、三上は、問屋から、代金後払いで大量のパイプを卸してもらい、すべて売りさばいた。その直後に倒産したから、卸した問屋は回収できず、泣き寝入りすることになったんだ。金額は億単位。平気でそういうことをする人間なんだ。あれは完全な計画倒産だよ」(地元の不動産業者)

    
 ―会社を潰したあと、”先生”は、ブローカーやヤミ(無免許)の金融屋稼業につき進む。―


「三上はヤクザ者が好きでね。山口組だろうが、稲川会だろうが、組織は問わず、茨城県内のあらゆる組の親分や幹部連中とつきあっていました。そういったヤクザ連中の自宅のリフォームなども一手に受注していましたよ」(”先生”を知る暴力団関係者)

「不動産ブローカーといえばそうだけど、どちらかというと、”占有屋”として知られていたね。複数の借金の担保にとられ、どうにもならなくなった塩漬け物件のビルに、人を住まわせたり、あるいは看板をたてるなどして、競売などの処分を妨害するんだ。そうして賃借の権利があると主張して、立ち退き料をせしめる稼業です。落札した競売物件に、三上が介入してきたため、彼の自宅に交渉に出向いたところ、『てめぇ、どこに来てんだ。バカヤロー! 殺すぞ、コノヤロー』とすごまれた業者もいま
す」 (地元の不動産業者)

                            
 ―こうした裏稼業をしているためか、逆に、暴力団関係者に狙われることもあったようだ。―


「親しかった水戸市内の山口組系暴力団組長に対しへタをうち(失敗をして怒りをかう)、追い込みをかけられていたらしい。自宅の居間のガラス窓に大きな石を投げ込まれ、叩き割られたこともありましたね。原因はよく分からないけど、自宅近くの駐車場に停めていた車にツルハシを突きたてられたこともある。あのときは、さすがに警察に保護願を出したようです。別のヤクザ者をボディガードとして雇っていることもありました」(”先生”の知人) 
 
―”切った、張った”の世界に、どっぶり浸かっていたようだ。ちなみに、”先生”の自宅は表向き三階建てだが、後藤が最初に警したとおり、現金の隠し場所ともいうべき地下の部屋があるらしい。しかも、隠し部屋はそれだけではないようだ。―



「一階と二階の間に、中二階ともいうべき隠し部屋があったんです。入り口は荷物で隠してあった。平成四年に改築した際、新たに作ったんですよ。よほど後ろめたいことがあったり、悪事をを犯そうと思わなければ、そんな部屋は作らないでしょう。ヤクザ者に長期間、追い込みをかけられた際に隠れたり、国税から現金を隠すための部屋として活用していたんじゃねぇの」(同業者)

 
  ――また、後藤によると、”先生”はひどいアル中でサディストだともいう。――

「”先生”は四六時中、飲んでいます。まぁ、あれだけ大罪を犯していれば、飲んでいなきゃ、やってられないのかもしれない。普段は穏やかで、田舎の朴訥なおじさんに見えますが、酔っ払うと本性が表れます。いきなり豹変し、言葉遣いも荒っぽく、やることが残虐になる。何とも形容しがたい愉悦の表情で、飼っている鳩やニワトリを蹴り上げたり、首を絞めて、殺したりするのをこの目で見ました」






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 彼は会社を一度、倒産させている。他の取材や資料からも”先生”一家はここにずっと住み続けている。不動産の登記簿謄本を見ても、差し押さえや裁判所の競売による売却、強制執行などの手続きを受けた形跡はなかった。実に不思議なことである。それだけ、金融のプロが見つけられず、裁判所も手の届かないところに、自宅を守るための相当な裏金を隠し持っていたのだろう。たとえば、後藤が言ったように、地下一階の隠し金庫などに。 (書籍「凶悪」より筆者談)


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 以上、記者が詳細な聞き取りを行い明らかになった「先生」こと、三上静男の凶悪な素性だ。やはり、頭がおかしいとしか思えない。ワルはワルでもちょっと種類が違う。記者は文中で「サディスト」と書いていたが、そんなものでは済まない。言い換えるなら「サイコパス(精神病質者)」、殺す事を心から楽しんでいる病気の類ではなかろうか。過去に「何か」があり、それをきっかけにビョーキになったんじゃないだろうか。
 そして、三上の自宅で行われた凶行に、その家族は誰一人として気が付かなかったのか? 今ある生活が多くの命の犠牲と引き換えに産生された保険金だという事を知っているのか?小説中には書かれていないので知る由は無いが、それについても突っ込んで調査して欲しかった。
 
 という事で、今回の記事はここまでで以上になる。しかし、ここまで見てきた後藤が告発した上申書の3件以外にも、他にもまだまだあると言うから驚きだ。まだまだ死の連鎖は終わらない。先生と関わった人間は次々と不可解な謎の死を遂げる。
 上申書に盛り込まれたのが後藤が直接関わった3件のみで、他にも未遂に終わったものや、後藤自身もよく知らない「先生」がやったかもしれない疑惑の事件が、第4、第5、と続くという。しかもそのうち1件について、自分が何気なく写真を撮っていた場所だったため更に驚いた。「これもしかして、アレじゃないか!!!」その時は「なんか奇妙」くらいしか思わなかったけれど、納得。(その写真、しっかりアップしているからみんなも見ているはず。)
 
 話がそれた。肝心な上申書は、この時点ではまだまだ完成するには至らない。後藤の事件の記憶がうろ覚えなため、いくつか記憶違いのところがあり、それを訂正、修正する必要があるからだそうだ。
 
 次回は、後藤の記憶を修正するべく記者が上申書の3件に関して証拠集めに奔走し、判明した詳細な事件の真実と、先生と関わった人に起きた不可解な死の連続を、これまた小説を中心に参考にして見ていこうかと思う。