今日は、書籍「黄門様の知恵袋」から、言わずと知れた水戸黄門こと徳川光圀の名言・格言をいくつか紹介しようと思います。光圀公には現代に通じる学ぶところが多々ございます。

 光圀公の意外な一面も!(; ・`д・´)







まずは。。。。

学問について、光圀公が熱く語っておられます

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学問の項


学問をば、多くは人の好まざる事に候えば、人の人たる道を少しも知せたく思ふがゆえに学問の義、世話にする也

ただ人は人たるゆえんを知りて、人の道をつくすといふが大切じゃ。皆も学問なりとして、忠孝をはげめ、唯学問をして、道も知らぬは人の本意ではない

 <解説>
 学問をすることは、多くの人は好まないものである。しかし学問というのは、「人の人たる道」、即ち、他の動物とは違う「人としての正しい道」を知る事であって、物知りになる事ではない。学問をしなければ、正しい人の道を知ることはできない。だから私は学文(学問)の大切さを人々に知らせたいと思い、その為に力を尽くしているのだ。 
 
 ただ人は人たるゆえんを知りて、人の道をつくすといふのが大切じゃ。皆も学問なりとして、忠孝をはげめ、唯学問をして、道も知らぬは人の本意ではない。





 ほうほう、なるほど。勉強というのは知識はもとより人間を磨くためで、人としての正しい道を知る事!

 たしかに勉強できる人といのは落ち着いていて我慢強くて、人間的にも成長していますね。逆にろくに勉強してこなかった人というのは短気で荒くれ者が多いような気がしないでもないですね。あくまで偏見ですが(笑)
 そういう自分ですが、中学時代はろくに勉強してこなかったので高校は地元屈指の不良校でした。なんか授業中にバイクがブンブン爆音を立てて入ってくる訳なのですね。そういう事があるたびに、あの時ちゃんと勉強してればよかったと後悔の念に襲われます。もっと早く光圀公にこのお言葉を頂いていればちゃんと勉強したかもー!(笑)
 
 しかし今では学問に励むようにしています。こうやって郷土史を調べたりしております。なかなか神経が研ぎ澄まされて人間が磨かてるような気がします。同年代の友達にはシブい、とか、じじいっぽいとかも言われますが着実に徳が増している証拠です。



 皆さんも学問に励み人間を磨きましょう!






防災の項


草履をば、つねに踏そろへるやうに、心がくべし。

平生せぬ事は、いそがしき時l、いでぬもの也。

なにぞの時、人あわてたると見べし。

 
 <解説>
草履を脱ぐときには、常にきちんとそろえて脱ぐように心がけなさい。常日頃やっていないことは、忙しい時、いざという時には、慌ててしまって出来ないものである。 従って、履物などをきちんとそろえて脱ぐという習慣をもっていれば、いざという時にも慌てないで済みますぞ。





              けがつかまつりそうろう
余りつよく防ぎ候とて、怪我 仕 候 な。

大方にふせぎ候て、こらへにくき様子に成り候は、早々其場を退候べし。

家のやけ候は、幾度も幾度もつくりなをされ候。

士に傷つき候は、何ともなをり申さず候。以来は其の心あるべし。

<解説>
 無理に火を防ごうとして、怪我をするなよ。ある程度防いで、それ以上は無理だなと、という状況に立ち至ったならば、速やかにその場から退去せよ。
 家が焼けたのは、何度でも造り替えることはできるが、人が怪我をしたり、死んだりしては、何とも元通りに治すことはできないのだ。







 上の言葉は、現代に置き換えると非常時に備えて、非常食や防災グッツを用意して備えて、と捉えることができる。
 東日本大震災から5年が経つが、もうすっかり忘れてしまって油断しているかも知れないが、いつくるか分からない!
 光圀公は、非常の備えを忘れてはいけないと仰せのようです。当たり前といえば当たり前だがこれがなかなか難しい。自分は、ジョイフルホンダで買ってきたカロリーメイトの束売りを備蓄しております(笑)


 下の言葉は、火が出たら逃げろ、ってこれは当たり前といえばそうだが、火事の火消し役に、人命を尊重して無理をしないようにとの通達らしい。

 

   防災にも理解のある光圀公なのである!






夫婦の項



其心もちひを、後々までもわずれずば、夫婦長くむつまじく、愛想よかるべし。

されど年月ふるままに、心やすさの過ぎて、たがいに物はずかハしきたしなみうセて、気隋(きまま)になりもてゆくより、さまざま、さるまじきふるまひをもし、むくつけき詞をもいひあひ侍る(はべる)ぞかし。

夫婦の別のみならず、すべて人倫の交わりは、たしなみの情第一なり。

たしなみは「敬」の字にも通うべし。


 
 そのたしなみあえる心もちを、後々の生活の中でも忘れなければ、夫婦の仲は、長く睦まじく、お互いの気持ちも好ましく通じ合えるであろう。
 しかし、だんだん年月が経っていくに従い、心安さの余り、お互いに物恥ずかしいというたしなみが消えてしまって、自分勝手になっていくところから、やってはいけないような行いをしてしまったり、思いやりのない気分が悪くなるような言葉でお互いに言い争うようになってくる。

夫婦の別(たしなみあえる心)ということだけでなく、全て人と人との交わりにおいても、「たしなみ」の情というものが実は最も大切なことなんですぞ。

たしなみは「敬」という字に通ずるもの。
(※ 「たしなみ」というのは「尊敬」など「うやまう」意味で使われるが「つつしむ」という意味も持っている。相手をうやまうためには、自らがつつしむ事によって相手をうやまう事ができる。傲慢であってはならない。)






 ふむふむ、なるほど。

 夫婦関係をうまくやっていくには、たしなみの心を持ち、相手を敬いつつしむ事が重要なのですね!確かに、芸能人の離婚がたびたび話題になりますが、このつつしみに少し欠けてる気がしますね。「我が我が」、と自己中心的で相手より優位に立ちたい気持ちが表れている。ここは少し半歩下がりつつしむ事が大切であるという事なのでしょう。
 たまに、旦那が首をつかまれて引きづり回されている光景を目の当たりにします、命令形でちょっと言葉がキタナイです。 どっちかが優位に立つとか仕切るとかではなく、持ちつ持たれつの均衡のとれたバランスがいいのかもしれませんね。
 
 とりあえず自分は、自己中で傲慢な相手はいやです(笑)










こどもの教育 の項


子どもを教ゆるとて、つよく折檻するは益なきのミにあらず。

気先をちぢめて、かえってさまたげとなる也。

をのが有りたたきままにあらしめて、機会を見て合点ゆく様にニ、導く事干要也と仰せらき。


 幼い子供が物事をうまく出来なかったり、間違ったりした時に教えなくてはいけないという事で、「つよく折檻する」、大声で怒鳴りつけたり激しく叩いたりすることは全く無益であるばかりでなく、子供の気先、やろうとする意欲や気構えまで縮めてしまい、かえって子供を育てる上で妨げとなる。 むしろ、その様な時には、自分の好きなようにさせておいて、機会を見て、十分に納得のゆくように教え導くことが大切である。


なるほどなるほど。((φ(・д・。)ホォホォ

折檻とは怒鳴りつけたり、いわゆる体罰の事ですね。昔は悪い事をするとぶん殴るのが当たり前の時代でした。昭和時代の昔は、悪さをすると柱に縛り付けて棒でたたくのです。
 自分はぶん殴られこそはしないものの小さい頃は親によく「さっさとやれボケ、カス、しね~!ころすぞー!」とよく怒鳴られていたので、やる気を失い今に至ったのかも知れません。たしかに光圀の言う事も一理あります(笑)
 皆さんのご家庭でも、悪さをすると鉄拳をくらわすとかひっぱたくとか、伸び伸び育てるとか様々な教育方針があるかと思いますが、光圀公は早くから、折檻は無益だと、体罰に反対していたのですね。さすが光圀公です!!

 体罰・暴力はなるべくやめよう!!(-ω-)/ 








と言う事で、今回はこのくらいで。

数々の教訓を現代に残している、と同時に光圀公の人柄が知れたと思う!

少々、説教くさくて理屈っぽいが、何か深いものがある。

皆さんも徳川光圀公の言葉を意識して生活をしてみてくれたまえ~~(`・ω・´)ゞ







資料参考:「黄門様の知恵袋  著:但野正弘」

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