今回の水戸幕末の探訪は、天狗党、ではなく、天狗党と宿敵である「諸生党」について。

水戸の渡里町に「諸生党の碑」なるものがあります。この諸生碑について調べてみました。

すると、知られざるドラマがある事が分かりました。

普段何気なく素通りしている渡里に、何も無いと思っていた渡里に(失敬)こんな物があったとはΣヾ(゚Д゚)ノ!!

と、その前に、天狗党が諸生党に恨みを持つようになった訳の一連の流れを理解するべく、簡単に分かりやすくザックリと歴史をおさらいします。




1853年(嘉永6)黒船来航


今からさかのぼる事約162年前の江戸時代。



 1853年(嘉永6)、アメリカ艦隊4隻が浦賀に現れ、ペリーは強圧的な態度で日本に開国を迫った。いわゆる「黒船来航」である。


(嘉永7(1854)のペリー再訪時 ↓)
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  ペリーが突きつけた具体的な開国の内容は以下のようなもの↓
  
  1、アメリカ捕鯨船に対する食料、水、薪の補給と難破船員の生命、財産の保護

  2、アメリカ蒸気船への石炭供給と修理などをする港の開港

  3、通商許可。

  (3の通商許可とは、今で言うところの似たようなもので「TPP」の問題のようなもので、主には関税やアメリカ企業が自由に参入できるようにするもの等。)






 後に日米修好通商条約と成りますが、日本に関税自主権が無く、入ってくるアメリカ製品に関税をかける事が認められないので日本には不利で不平等な上に、アメリカは自由に日本国内で土地を借り建物を建てられるというもの。

 この事から、日本がアメリカの植民地になってしまうのではないかという国防に危機感を唱える人がいた。それらの人を「尊王攘夷派」または「尊攘派」と言う。実際に、当時日本の友好国だった「清」がアヘン戦争でイギリスに敗北し、欧米列強のアジア侵略が進行していますから無理もない。今で言う、中国のソレだろう(爆)






 尊攘派の人々は幕府にこう訴える。
「このままでは日本も侵略されるかも知れないから、日本沿岸に出没する外国武装戦艦や、日本にいる外人を追い払おう」と。

 しかし、幕府は、
「武装した戦艦に勝てる訳が無いし勝ち目はない、そんな事したら怒りを買い植民地にされる。開国はやむを得ない」 と攘夷論に大反対。両者の意見は真っ向から対立。

江戸幕府大老井伊直弼は、幕府の意見に反抗する尊攘派を次々処刑、断罪に処します。特に水戸藩の弾圧が厳しく、水戸藩のお殿様である水戸藩主斉昭も例外ではなく永蟄居(永久に謹慎)の処分が言い渡されます。俗に「安政の大獄」と言う。

水戸藩尊攘派を怒らせた一連の事件は、やがて「桜田門外の変」へとつながります。







元治元年 尊王攘夷派を中心とした天狗党結成 と、水戸藩家老市川三左衛門の断罪


 水戸藩の尊王攘夷派は幕府の外国に対する政策に不満を抱きます。

 元治元年、水戸藩の尊攘派の藤田小四郎が筑波山で尊王攘夷派を中心とした「天狗党」を結成。兵を挙げます。
 しかし兵を挙げると言っても戦や反乱を起こす事が目的ではなく、京都に居る将軍徳川慶喜を頼り朝廷に攘夷を働きかけてもらい、また、京都までの行程をいわゆるデモ行進をしながら仲間を募り、幕府に攘夷を促すのが目的。

 しかし、天狗党の中に規律を乱す暴徒が存在し略奪放火などを行った事から、天狗党は暴力集団と誤解される事となり幕府軍に追わる事となります。また、水戸藩の尊攘派と対立する同じく水戸藩の諸生党とで、かつては仲間同士だった水戸藩同士が激しい殺し合いをする事に。

 水戸藩諸生党の市川三左衛門は、捕らえた天狗党を皆殺しにするに飽きたらず、処刑はその家族や親戚など縁故つながりのある者にも及びます。このような事から市川三左衛門は、家族を皆殺しにされた天狗党から激しく恨みを買う事に。

 しかし、天狗党の報復は叶わず、天狗党は最終的に幕府に降伏し、ほぼ全員が処刑、全滅した事により終結。




天狗党残党の復讐劇  逃げる諸生党



時代が変わり、1867年(慶長3)12月の王政復古で幕府が崩壊すると状況は逆転。

息をひそめていた天狗党残党が息を吹き返す。

京都で慶喜の警護役などを務めていた水戸藩士300人が尊王攘夷派が朝廷から「除奸反正(諸生を排除せよの意味)」を賜り、諸生党追討軍を結成させる。これを本圀寺勢と言う

と同時に、息をひそめていた天狗党も復権する。




朝廷は本圀寺勢にあてた同様の勅書を武田金次郎にも与えた。

武田金次郎は天狗党総大将「武田耕雲斎」の孫。

先の「天狗党の乱」では敦賀で父と祖父が処刑され、他の家族も諸生党市川三左衛門の手で水戸赤沼獄舎坊で処刑されています。

復讐に燃える武田金次郎の恨みは計り知れない。







市川三左衛門の側近、市毛善八郎。弟の屋敷に逃亡ス。





市毛善八郎は市川三左衛門の側近。

市川三左衛門は天狗党を皆殺しにした事で、天狗党から恨みを買われていた。天狗党の怒りの矛先は例外なく、側近である市毛善八郎にも向けられた。

諸生党は弘道館の戦いで敗れ銚子へ敗走。その際に善八郎は渡里村にある弟の熊五郎の家に身を隠していたが・・・・







ある日、水戸渡里村の市毛熊五郎の屋敷に、天狗党が現れ、こう言った。



市毛善八郎の身柄を引き渡せ。さもなくば一家皆殺しにするぞ。




熊五郎は兄善八郎を助けたい一心で隠し通した。しかし、これも難しいという矢先、善八郎は自ら名乗り出て、




俺が出るから家族の皆殺しはやめろ。



と言って、自ら捕についた。



捕縛された善八郎は長岡原の刑場で斬首されてしまったが、弟の熊五郎は兄の勇気ある行動のおかげで一家全滅の危機を逃れる事ができた。










捕縛された善八郎は、長岡原で斬首されてしまったが、善八郎が名乗り出ていなかったら家族は天狗党に皆殺しにされていたかもしれない。兄に感謝し、恩義に報い、後世に顕彰しようと記念碑を建立した。

その記念碑は今でも、水戸市渡里町の一角にひっそりと佇んでいる・・・・・。

めでたし、めでたし。







       ~完~  






















現在の、諸生党善八郎記念碑 と屋敷跡




という事で一連の流れは上に書いた以上のようになりますが、分かりやすく書いたつもりだったが少し難しかったかな~??


そのドラマの舞台となった市毛善八郎の屋敷跡、および記念碑は水戸市渡里町の老人福祉センターの駐車場の脇にあります。

市毛善八郎の弟「熊五郎」が83歳になった時に、大正13年頃に建立したものです。


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次のように書かれている  ↓↓

        市川三左衛門会津ノ戦

        終リ國元へ引揚グ家来

        市毛善八郎付随ス弟市

        毛熊五郎為記念建碑ス

               当年八三歳








市毛熊五郎屋敷の跡。現在水戸市老人福祉センターに。
  ↓ ↓ ↓
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地図 ↓↓
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「茨城史林 第21号」に、この諸生党の碑や、いきさつについて詳しく書かれています。後世に語る貴重な資料で拝借いたしましょう。ちょっと長くなりますが    以下全文↓↓

【資料】水戸市渡里町長者山荘諸生党碑について / 執筆:江幡 一


 水戸市波里町の長者山荘(水戸市老人保養センター) にある石碑を訪ねることになったいきさつから述べてみましょう。
 私は、第二の職場として御三家の一つである水戸徳川家に勤務した関係で、郷土史、特に水戸家に関する史実をさぐる研究、調査をすることに興味を覚え、その史料収集の過程で常野文献社の小掘弘伸さんと知り合い、何回かお会いして郷土史や復刻版の発行計画など伺っていました。
 その中で諸生派に関する史料が天狗派のそれと比べると非常に少ないこと、特に諸生派が会津から越後にかけて西軍(薩長軍)と戦った出雲崎・灰爪の激戦に関する史料が少ないので探している旨を告げると、ひたちなか市稲田(旧佐野村) の稲田秀男さん (元国鉄勝田電車区助役)を紹介してくれました。稲田さんは在職中から越後方面へ現地調査をし、地元の人々に会って史料を集め、自費出版で「天狗争乱の傷痕」巻一~三までを発行された方です。
 稲田さんは、在職中から何回か越後に脚を延ばされましたが、ある時灰爪の荒木家光さんから当時の情況を伺っているうちに、荒木さん所有の裏山の小高い丘の上で、昭和五十二年頃
三回にわたり人骨四体が発見され、鑑定の結果、水戸の諸生の人びとの骨ではないかという事から、丁重に葬り、その情況を水戸市役所に連絡したのだが仲々埒があかないという話を聞きました。それを知った稲田さんたち茨城の篤志家三人が、供養碑を建てる資金として役立ててほしいとお金を寄付され、地元の協力を得て立派な供養碑が建立されたそうです。小掘さんから稲田さんに会ってみてはと言われた時、私も以前新荘地区ふるさと研究会で年に一回史跡探訪に灰爪を訪ねた際、現地で荒木さんから説明を伺った事があるだけに更に深い関心がありました。
 早速稲田さんを訪れ、昔の国鉄時代(私も国鉄出身) の思い出話などをしてしばし打ちとけた後、「天狗争乱の傷痕」巻二・三の贈呈を受けました。巻一は残部なしとの事でした。その際稲田さんが言われるには貴方も飯富に住んでいるならば、最近渡里に老人保養センター長者山荘が創設され、国道一二三号線から長者山荘に至る通路の右側に、市川三左衛門に関する石碑があるので確認してみてはとの助言がありました。
 以前から求めている諸生に関する史跡だけに是非譜べてみたいと思い、早速三月二十三日(土)に長者山荘を訪ねました。飯富から渡里を経由して国道一二三号線を水戸に向う途中、金沢坂を登り切った左側に山荘に通ずる道路があり、一五〇~二〇〇メートル入った右側に、当該碑が小高い塚の石段を五~六段昇った所に、正面は北向きに(会津の方向に)建っています。文面にはハッキリと大きな字で次のように刻まれています。
   
   
   市川三左衛門会津ノ戦
   終り國元へ引揚グ家来
   市毛善八郎付随ス弟市
   毛熊五郎為記念建碑ス
      当年八十三歳

碑の上部には市川と市毛二家の家紋が刻まれています。また、その右前奥には、
    
     この地によせて
  この地は老人福祉施設用地と
  して地権者各位の御好意により
  寄付を受けたものです。その志
  に対し深く感謝の意を表します
  また 地内に建立されている記
  念碑を移設しここに末永く保存
  いたします
    平成三年三月吉日
    水戸市長 佐川一信

という碑が建っていました。
 
 碑文にみえる市毛善八郎の子孫が判れば石碑にかかわる種々の経緯が伺えると思ったが判らず、二十五日(月) に再度長者山荘を訪れた時に、長者山荘の所長である鈴木操氏が子孫であることがわかりました。鈴木所長は喜八郎の孫娘が母親であるので、曽孫にあたるわけです。
 もともと、この碑は国道から二〇〇メートル位入った林の中に建てられてありました。ところが長者山荘が建設されるについて現在地に移転されたのかとお伺いしたところ、そうではなくて、十数年前に一二三号線が改修され、拡幅のうえ、曲がりくねった道路を直線に変更する計画が提案されました。旧道は長者山荘の入り口付近から左へ折れて金沢坂の山の下の崖下に沿って田野川の脇を通る曲がりくねった道でした。これを改良するための山林の土地買収が提案されそれぞれの地主を集めて趣旨説明することになりました。この石碑を建てた当時(約七十年位前)は地主は四人でしたが、その後四十一名に地権者が増えました。その一人一人を県では調査し確認したそうです。その時の責任者として取り纏められたのが鈴木操所長さんでした。何十回となく打合せをしたり調査したり確認の仕事は大変だったとの事です。その結果買収することに同意を得られたものの、買収価格、売渡価格等それぞれの価格差の問題からトラブルは起きます。手取り価格でも上下の間では、甚だしい格差を生ずることは考えられるわけです。そこでこのトラブルを無くするためには、寄付行為にすれば無償であるため問題はないという結論に達し説得に当ったそうです。その代りに市側にここにある碑を現状と同じ形態で移設するという条件、及び敷地内に老人ホームの新設を要求しました。結果的に老人ホームでなくとも、老人保養センター建設であるので納得されたとの事です。移転前の碑の位置は、今の長者山荘事務室内の所長の座る椅子の箇所あたりだったそうです。又碑は、当時山中の林の中で見つかりにくい場所に建設されました。その理由は当時諸生派であれば、大手を振って歩ける時代ではなかったので碑を
見つかり難い山の中に建設したのだそうです。現在となってはそんなわだかまりのない時代になったので表に出しましょうということになりました。
 さて、市毛善八郎の弟熊五郎は、市川三左衛門に付随した兄の為に如何なる理由でこのような立派な碑を建てたのでしょうか。三左衛門と共に弘道館での戦いで敗れ銚子へ逃走の際、兄善八郎は天狗派の追討を避けて弟熊五郎の屋敷に身を隠し、匿われました。当時熊五郎は庄屋クラスの身分でしたので、屋敷は広く、田野川のほとりにありましたが、現在は一二三号線が改修されたので、その真下が当時の屋敷の位置だそうです。善八郎は熊五郎屋敷の地下室(多分野菜などを収容していた)に隠れていましたが、天狗派の捜索はきびしく、その所在もつきとめられ、兵士達が善八郎の身柄を引渡せ、さもなくば一家皆殺しにするぞ、など脅しをかけてすごんできました。熊五郎は兄を助けたい一心で極力隠し通しましたが、これも難しいと思われた矢先、善八郎自ら現れ名乗り出て、俺が出るから弟一家の皆殺しは止めろと自ら縛につき長岡原で斬首されました。時に明治元年、喜八郎三十三才の時でありました。
 このため、熊五郎一家は皆殺しに合わず、生き延びる事ができたので、この兄に感謝し、その恩義に報い、軍功 (いさお
し)を後世に顕彰する心情から石碑の建立となったものと思われます。この碑は弟の熊五郎が八十三才(大正十三年頃)になった時、世情も漸く落ちつき、永い間の心のわだかまりとなっていた兄の遺業を顕示しようと建碑するに至ったものと思われます。この熊五郎はその三年後昭和二年十二月七日にこの世を去りました。
 市毛善八郎は、市毛家に生まれましたが、今の常北町増井の大森家に養子に入り、大森を名乗っています。「水戸藩国難事件殉難者名簿」には、「大森善八郎」として掲載されています。墓地は増井の大森家個人基地です。
 なお、昭和十一年十月、林の中に石碑があった頃、記念式典が催され、大洗の常陽明治記念館の創始者である田中光願が参列し、記念写真を撮りました。その写真も現存しています。田中光顕は特に幕末の水戸藩の勤王志士達について特段の理解と景仰を示した人物で、昭和十四年三月に九十七才の高齢で長寿を全うしました。その三年前九十四才で水戸に来て、記念式典に参列したのですから写真のかくしゃくとした様子に対し唯敬服するばかりです。
 以上まだ不明の点が多く、更に調べたいと思っています。

                         茨城地方史研究会/茨城史林 第21号
















諸生党市毛善八郎は、天狗党の宿敵。

しかし、家族を守るために潔く死を選んだ、

善八郎のその勇気には目を見張るものがあります。

敵と言えども善八郎には敬服致します( ̄^ ̄ゞ ケイレイ