――筑波海軍航空隊の歴史――  













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       第3章 筑波海軍航空隊 後編




 <昭和20年2月29日> 神風特別攻撃隊筑波隊の編成へ    

 昭和20年2月20日。筑波海軍航空隊で神風特別攻撃隊の名簿が発表された。1隊が8名で、8隊64名の編成であった。名簿の大半は13期予備学生と14期予備学生であった。司令中野忠二郎大佐、飛行長横山保少佐は、特攻作戦に反対の意思表示をしていた。二人とも戦闘機搭乗員のキャリアが長く、特攻攻撃には批判的な考えをもち、できることなら万に一つでも生還を期しうる攻撃を念じていた、といわれている。

 2月28日。中野司令は指揮所(号令台)の前に整列した隊員たちに向って、「筑波隊」 の命名を告げた。特攻隊員に選ばれたのは、隊員の中でも大学を卒業したばかりの20歳代前半の13期・14期予備学生が多かった。
 13期予備学生は、飛行時間200時間~250時間。また、零戦での訓練は100時間足らずであった。14期生は飛行時間60時間、零戦では30時間足らずの搭乗の者もいた。


2月20日の名簿発表と同時に、特攻訓練の指令も出た。訓練期間は2月22日から4月中旬までとし、離着陸8回、編隊訓練7回、計器飛行10回、航法訓練5回、特攻攻撃法10回、薄暮飛行6回、定着5回、最後に総合訓練が計画された。
 計器飛行、零戦操座は2月22日から一週間、北浦・鹿島で実施された。特攻攻撃法は、零戦を操縦して上昇・旋回・急降下などの実戦的訓練で、くり返し行われた。
 3月28日筑波隊の補充が行われ、総員84名になった。このうち14期予備学生が48名(特攻戦29名)、13期が29名(同24名)、予科練出身が5名(同5名)、海軍兵学校卒業(73期)が2名(同2名) であった。
 
 この時すでにアメリカ軍の沖縄攻撃は、4月1日から本格化した。すでに沖縄本島中部西海岸に、1500隻の艦船が集結し、上陸作戦を開始した。
 
 日本軍は陣地構築(地下壕)による持久戦を目ざし、更に鹿屋・知覧等の九州の基地から特攻隊が出撃して、必死に沖縄防衛に当っていた。







 <神風特別攻撃隊筑波隊84名。神風舎前にて> 
念の為に後の記録として、全員(第一筑波隊のほか4名はこの写真には写っていないようだ)の名前を載せておく。【】以外が特攻隊員。
(※1の数字は第一筑波隊、2の数字は第二筑波隊、というように以下、第六筑波隊までを番号で示す。「神雷」は、神雷爆戦隊を示す。)

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↓↓
 (1列目右から)   
6大木 偉央 / [神雷]]川口 光男 / 1福寺  薫 / 2熊倉 高敬 / 1石田  寛 / 1末吉  賓 / 【飛行隊長 宮嶋大尉】 / 【司令 中野大佐】 / 【飛行長 横山少佐】 / 【分隊長 小林大尉】 / 【吉松大尉】 / 3中村 秀正 / 4米加田 節男 / 1石橋 申雄 / 1伊達 賓 / 【田中飛曹長】

(2列目右から)
【山中飛曹長】 / 1大田 博英 / 3由井 勲 / 佐藤 武 / 6大喜田 久男 / 加美山 茂 / 1椎木 鐵幸 / 1斉藤 勇 / 1金井 正夫 / 木名瀬 信也 / 5岡部 幸夫 / 橋本 利一 / 5西田 高光 / 1金子 保 / 6富安 俊助 / 1福島 正次

(3列目右から)
6小山 精一 / 6荒木 弘 / 石部 富治 / 5町田 道教 / 内山 聿郎 / 秋本 重徳 / 1鷲尾 侃 / 2一ノ関 貞雄 / 4大塚  章 / 1山口 人久 / 6時岡 鶴夫 / 5森 史郎 / 6黒崎英之助 / 5中村 邦春 / 5福田 喬 / 3石井 敏晴 / 原口 鈴夫 / [神雷]高橋 英生

(4列目右から)
6本田 耕一 / [神雷]溝口 幸次郎 / 織田 徳三郎 / 3山縣 康二 / 6藤田 暢明 / 柳井 和臣 / 佐藤 國三郎 / 失定 清九郎 / 川崎 一精 / 後藤 尚平 / [神雷]伊藤 祥夫 / 3岡本眞二 / 6桑野 賓 / 橋本 義雄 / 青戸 廣二 / 4庁山 秀男 / 山口 正憲 / 有吉 一馬 / 4山崎 幸雄

(5列目右から)
笠間 照雄 / 3粟井 俊夫 / 6西野 實 / 6高山 重三 / 6折口 明 / 6中村 恒二 / 5諸井 國弘 / 5石丸 進一 / 山根 恒 / 5吉田 信 / 西牧 寛徳 / 林 静馬 / 細井 享 / 佐々木 章雄 / 3兼森 武文 / [神雷]河 晴彦 / 4麻生 攝郎








 <神風特別攻撃第一筑波隊、第二筑波隊の集合写真>
第一筑波隊17名と、第二筑波隊3名の総勢20名が全員戦死とのこと。↓↓(1は第一筑波隊、2は第二筑波隊)
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(前列右から)
1福寺 薫 / 2熊倉 高敬 / 1石橋 申雄 / 1末吉 實 / 【飛行隊長】宮嶋大尉 / 【司令】中野大佐 / 【飛行長横山少佐】 / 【分隊長小林大尉】 / 【吉松大尉】 / 1石田 寛

(中列右から)
1鷲尾  侃 / 1大田 博英 /1椎木 鐵幸 / 2一ノ関貞雄 / 1斉藤 勇 / 1金井 正夫 / 1福島 正次 / 1金子 保 / 【山中飛曹長】 / 【田中飛曹】

(後列右から)
2新井 利夫 / 1安田 善二 / 1村山 周三 / 1伊達 實 / 1山口 人久 / 1松本 智恵三 / 1河村 祐夫











 <昭和20年4月5日>  沖縄決戦  ~神風特別攻撃隊筑波隊、沖縄に散る~    


 昭和20年の春。

 日本は連日のようにB29に爆撃を受け、本土とシンガポール・本土とジャワ、などの南方の資源地帯との海上輸送が絶たれてしまっていた。東南アジア戦線では、英軍の攻勢によりビルマからの撤退を余儀なくされたり、陸軍が1年近くにも及ぶ攻勢を行っていた中国戦線でも縮小に追い込まれていた。

 4月初頭、米軍はフィリピンに続き沖縄への上陸作戦を展開した。米軍は太平洋方面の総力を結集し攻撃を仕掛けてきたので、日本海軍・陸軍とも苦戦を強いられた。既に制空権も制海権も米軍に握られているという絶望的な状況で、この先長く続かず、玉砕する事は目に見えて明らかだった。しかし、沖縄を失う事は本土をも失う事を意味する。沖縄は重要な防衛ラインなのだ。
 この絶望的な状況で日本陸軍においては要塞化した沖縄で必死の防衛線を続け、それが3ヶ月以上も続いた。こうした状況の中で、日本陸海軍の航空部隊ができる事は、沖縄近海の米艦隊に航空攻撃を行う他に手段はない。
 ゼロ戦最期の任務は従来から度々行われていた体当たり作戦、すなわち特攻だった(海軍では「菊水作戦」と呼んだ)。人間を誘導装置にして対艦ミサイルとなり散華する事である。








特別攻撃隊筑波隊の各隊の動向を以下に簡潔にまとめる

↓ ↓  ↓

4月5日 第一筑波隊出撃

 
 昭和20年4月5日。第一筑波隊17名は、筑波海軍航空隊基地から鹿児島県鹿屋基地の前線基地へ移動し、翌6日午後3時から4時すぎにかけて零戦21型機に250kg爆弾と機銃弾100発を装備して鹿屋基地から出撃し、沖縄周辺のアメリカ軍輸送船団に突入。17名全員が戦死した。


4月14日 第二筑波隊出撃

 

(出撃した日時以外に動向は不明)


4月16日 第三筑波隊出撃

 4月16日、1次・第三筑波隊が出撃。13時46分に「われ敵空母に突入す」の無電を最後に消息を絶った。
 同日、2次・第三筑波隊が出撃。13時27分「敵戦闘機見ゆ」。 13時28分「敵部隊見ゆ」、13時30分「われ空母に必中、突入中」との無電を最後に消息を絶つ。


4月29日 第四筑波隊出撃

 菊水四号作戦が発令され、4月29日、第四筑波隊は鹿屋基地を発進し沖縄へ向かう。

 午後3時58分、「われ敵艦に必中、突入中」の無電を最後に消息を絶つ。


5月11日 第五筑波隊出撃

 5月11日、菊水6号作戦が発令され、第五筑波隊は午前6時50分に鹿屋基地を発進。
 
 「10:08敵艦を認めず、われ慶良間に行く」
 「10:13 敵艦見ゆ、われ突入す」 との無電を最後に消息を絶つ。


5月24日 第六筑波隊出撃

 午前5時27分から6時31分にかけて鹿屋基地を発進。午前7時から8時に、種子島東方の敵機動部隊に突入。


6月22日 第一神雷爆戦隊出撃

 6月22日、菊水作戦10号が発令。筑波海軍航空隊の5名が神雷部隊として派遣され、沖縄の艦船へと突入、散華した。この隊が沖縄戦最後の特攻となった。














        「Battle of Okinawa/沖縄戦」動画 ↓↓






 <昭和20年7月2日> 沖縄の司令官自決。沖縄陥落。    

 6月23日、沖縄の日本軍司令官牛島満中将、自決。

 7月2日アメリカ軍は沖縄戦の終了を宣言した。沖縄戦による戦死者は、本土出身兵6万6000人。、沖縄出身軍人軍属2万8000人、住民9万4000に達した。
 沖縄戦に投入した特攻機は1915機(海軍九八三機、陸軍九三二機)。特攻隊員の戦死4389名(海軍2545名、陸軍1844名) であった。筑波海軍航空隊の沖縄戦の特攻による戦死は60名に達した。

 沖縄戦における特攻の戦果は決して小さなものではなかった。体当たりではない通常の航空攻撃も数多く実施はされたが、米軍の発表によれば米艦隊が被った損害の80%が特攻機の体当たりによるものとされており、米軍が「カミカゼ」を脅威に受け止めていた事は確かだった
 しかし、これだけ多くの犠牲を払った特攻作戦は、敵艦隊に多く被害を出したものの、沖縄の陥落防衛にはほとんど影響を及ぼす事はできなかったという。







       筑波海軍航空隊 沖縄戦特攻隊員が最後に残した遺書


 さて、ここで、特攻隊として沖縄に散った筑波海軍航空隊の隊員が、出撃する直前に書いた遺書があるのでいくつかを紹介する。中には、出撃のわずか数時間前に書いたものもあり。いったい、どういう思いでこの遺書を書きつづったのだろうか。
 敵艦に体当たりする菊水作戦すなわち特攻は、いちど出撃すれば生きて帰ってくる事はできないのはもちろんで、それは到底避けられない「死」であり、潔さよさ。それぞれが家族の事を想い、国の事を想い散っていった。
 現代では、よく言われるのが日本兵は悪い事をしたという認識が蔓延しているという。確かに、命を懸けて散っていった旧日本兵はないがしろにされ、ぞんざいに扱われている。しかしそんな悪党なんていないというのがこの遺書を読み改めてよく分かった。みな、心が澄んだけがれの無い精神を持ち、純粋で、家族想い、国想い、若いのにとてもしっかりしている。もっと評価されて称えてももいいような気がする。
 


 

―――― 尾崎順道中尉 ――――

 尾崎順道中尉は、昭和13年第3期甲種飛行予科練習生として横須賀海軍航空隊に入隊し、同15年4月から筑波海軍航空隊で初歩練習機教程を修了した、筑波海軍航空隊の卒業生。
 太平洋戦争が勃発すると、マレー沖海戦からシンガポール、ガダルカナル、ラバウル等東南アジアを転戦。
 昭和20年5月6日、自ら神祝特攻隊と名づけて出水基地より沖縄周辺機動部隊を攻撃中戦死、享年25歳だった。



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(この手紙は尾崎中尉が筑波海軍航空隊時代に書いたもの。結果的に遺書となってしまった)

  ~筑波海軍航空隊甲3期生の時代に父へ宛てた手紙~
 
 拝啓
 その後御無沙汰致しました。本隊入隊後今日で一週間です。しかし瞬く間に過ぎ去った一週間でした。
 日課は1日の午前か午後に飛行があり、その残りは操縦座学或いは整備です。夜は2時間余の温習があります。今日の日曜は外出で水戸へ行きました。外出は朝の7時から夜の7時半までで、予科練の二倍の時間
はあります。
 さて、毎日の飛行は練習生が3名の割に教員1名で、交代で飛びたっています。見渡す限り広い芝生の飛行場は、土地の起伏で大波のようです。飛行帽、飛行眼鏡、飛行服、飛行靴、伝声管、落下傘に身を固めて搭乗します。
 前席は教員です。「出発準備よろしい」と伝声管に通すと、猛烈な風を起こして機はするすると地上に滑走を始めます。出発点に於いて風に正向するや発動機は全開、芝生は縞のようになって後方に吹き飛んでゆきます。やがてふっと地面が下に沈んでゆきます。離陸です。そのままぐんぐん上昇します。眼下には大きな箱庭が展開されてゆきます。田畑、森、川、村落、大きな本飛行場も見下ろすと1竦み【すくみ】になりそうです。高度計は1000メートルをさしています。
 油温計、油圧計、回転計、速力計みな好調を示しています。ここで各種直線飛行旋回が始まります。自慢ではありませんが去年の適性検査には、1回で合格した私の事ですから、操作は上々です。しかし慢心することなく努力してゆきます。ご安心下さい。それから目下体の方は申し分ありません。
 毎食、牛乳とか鶏卵とかどタミン食とかを航空食として支給され、設備も予科練よりは比較にならぬ程で、活気もあり毎日毎日を愉快に暮らしております。
 遂に私も海の荒鷲への第一歩を大空に踏み出しました。未来への輝かしい飛行生活を思ふと胸は一杯です。尚、今日から特殊飛行離着陸が始まりました。
                       
昭和15年4月9日 父上様
順 道









―――― 富安俊助中尉 ――――

 第13期飛行予備学生、昭和20年5月14日、神風特攻隊第6筑波隊員として、鹿屋基地を発進した。
富安俊助中尉の操縦した零戦五二型機は、500kg爆弾を抱えて、アメリカ空母エンタープライズに突入し航空機を昇降するエレベーターの大破させ再起不能にさせた。エンタープライズの被害は乗組員14名が戦死、負傷60余名だった。
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――富安俊助中尉の遺書――

 父上様
 母上様
 姉上様
 突然、其方面に出撃を命ぜられ、只今より出発します。もとよりお国に捧げた身体故、生還を期しません。必ず立派な戦果を挙げる覚悟です。
 御国の興廃存亡は今日只今にあります。吾々は御国の防人として出て行くのです。私が居なくなったら淋しいかもしれませんが、大いに張切って元気で暮らして下さい。心配なのは皆様が力を落とすことです。
 海軍に入る時に、当然死を覚悟していたのですから、皆様も淋しがることはないと思います。秀雄には便りを出す予定ですが、家からもよく言ってやって下さい。
 近藤中尉が訪ねて行く予定故、会ってやって下さい、

では                   俊助

 大いに頑張りますから、その点御安心下さい










――――小山精一少尉―――

 昭和18年中央大学商学部を繰り上げ卒業し学徒出陣。同20年5月14日、神風特別攻撃隊第6筑波隊の一員として、鹿屋基地より出撃し、九州東方海面において特攻散華。享年25歳だった。


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 ――小山精一少尉の遺書―― 

 学徒出陣の大命を拝し、大君の御楯と出で立つの栄を受けしは実に日本男子の本懐にて、家門の名誉又之に過ぐるは無し。
 今日此の喜びを得たるは、父上、母上の御苦労の賜なるは言うも更なり。二十有余年間の深き御恩、今ここに厚く謝し奉る。
 帝国海軍軍人として往くからには、もとより生還を期せず、ただ悠久の大義に生きむのみ。言い残すべき言の葉は更に無けれど、思い付きしことどもを記しまいらせむ。

1.家督の相続については父上に御任せ申し上ぐ。
1.長く武門の誉れを残されたし。
1.常に家門の栄は国家の隆盛と共に在り。
1.家は常に春の如くあれかし。
1.総ての源は人の和に在り。
1.恩師、先輩、友人等の御連絡等願申し上ぐ。
1.貸借関係無し。
1.婦人関係無し。
1.私物の整理、処分等については別段の希望無し。

父上様
   右宜敷御願申し上げます。精一は日本人として、小山家の嗣子として、恥じぬ働きをいたします。御身御大切に、登代子、良助のことも御願いいたします。
母上様
  「太柱ほめて造れる宮のごといませ母刀自面かはりせず」最後の瞬間まで御母様の面影を胸深くとどめて戦い抜きます。
孝母上様
  百年、千年の御長寿を御所り申し上げます。精一の魂は必ずお側へ帰って参ります。
姉上様
 富士男様の御武運を御祈りいたします。
登代子様
   村田君との話、よく考えておいて下さい。兄としては無条件で勧めたい男です。よい妻、よい母となって下さい。
良助様
  後の事は宜敷たのむ。死は易く、死処を得るは難い。人間の完成は死処を得るに在る。
 では元気で参ります。最後に日本国の万々歳と小山家の弥栄を祈りつつ。

 昭和18年12月8日
学徒出陣の日
  小山清一少尉









――――末吉實中尉――――

 末吉實中尉は、昭和18年9月、浜松高等工業学校を繰上げ卒業し、同月海軍予備学生となり、土浦航空隊で基礎教程、さらに谷田部空、元山空に配属になり練習機、実用機教程の訓練をうけ、19年8月から筑波海軍航空隊附兼教官となった。
 20年4月6日、神風特攻隊第1筑波隊員として、鹿屋基地を発進し、沖縄周辺の米輸送船団に突入し、散華した。同日付で海軍少佐、従六位、功三級金鶏勲章、勲五等饗光旭日章を贈られた。


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  ――末吉實中尉の遺書――

 突然でさぞ驚きの事と存じますが愈々私も身を以て国難に当たる時が参りました。只今本隊より懐かしい名古屋を右に見て、この鈴鹿空に到着、愛機即ち棺桶の中でこれを書いて居ります。思えば二十有五年間の筆舌に尽くせざる御慈愛と御苦労に何等報ゆる処なく親不孝の数々。誠に何と御詫びしてよいやら、一人涙がにじむのみです。御陰様にて私も他より先に中尉に進級致し、只今では神風特攻隊第二筑波隊隊長として同期の桜を率いて敵空母に体当たりする機会を得ました。男子の本懐これに過ぐるものはありません。必ず兄上の仇は引受けました。明日の戦果を御期待下さい。
出撃数目前に家の焼失を知りました。うち続く打撃でさぞ御落胆なさる事と存じますが、何卒お力落としのない様近所の人達と協力、復興にお努め下さる様お願い致します。何事も気の持ち様ですからしっかりした気持ちで天寿を完うされん事を最後迄祈って居ります。ではそろそろ転進の時間が来ましたのでこれで失礼致します。      
 昭和20年4月5日 午後2時
  
                    賓 拝
 御両親様
 只今より必至必殺の攻撃に征く。心の平静たる本日
の空の如し。白木の箱の整備なる。いざ征かん南の空
へ。吾が予定突入時刻
 昭和20年4月6日1700
    潔く散れや筑波の若桜











――――石橋申雄中尉――――

 佐賀県出身、東亜同文書院大学卒業後、第13期飛行予備学生。昭和19年9月台中航空隊で戦闘機課程終了後、筑波空所属。昭和20年4月5日鹿屋に進出、翌6日神風特攻隊第1筑波隊員として、沖縄周辺輸送船団に突入、散華。任海軍少佐。
 

  ――石橋申雄中尉の遺書――

咲くもよし散るも又よし桜花
 九州の春は早いですね。桜も菜の花も美しく、戦場さながらのここにもなんとなくなごやかな気分を造っています
 昨夜はぐっすり眠りました。夢さえ見ない程でした。頭もすっきりして気分も爽快です。
 同じ地続きで、ちょいとそっちにもまわりたい気持ちもしますね。
 
お寺、水源寺等よろしく。
 父上様
   
 やがて見む 御国の春を讃えつつ
      天がける身は玉と砕けむ











――――福島正次少尉――――

 盛岡高等工業学校(現岩手大学)卒業後、第13期飛行予備学生となり、筑波海軍航空隊で操縦訓練をうけ、一時福岡県築城航空隊に移り、昭和19年5月に再び筑波空に戻り、日夜戦闘機の猛訓練を続けました。昭和20年4月6日午後4時すぎ、神風特別攻撃隊第1筑波隊の同志16名とともに、鹿屋基地を発進し、沖縄周辺の輸送船団に突入し、散華した。



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 本日愈々出撃致します。
 父母様に何の孝養も出来ず先立つ事はお許し下さい。私は元気一杯張切って敵空母に体当たり致します。必ずや父母様のご期待に従ふ様見事に散りますこと故御安心下さい。
 家の方の今度の不幸も戦災にして勝利の前には、総ての犠牲も覚悟せねばなりません。
父母様にも悲観せられることなく希望を持って今後更生せられる様お願いいたします。 私は今こそ秋水の如く、鏡の如く、白紙の気持ちで戦場に向ひます。我々の向ふ処必ずや敵撃滅の報を斎らせます。
 父母様、私の二十有五年の長き一生の御面倒を深く御礼申し上げます。
私の部屋に次の文がかかって居ります。
我等は天皇陛下の神兵なり
神国の神風、筑波原顔より捲き起さん
男一匹五尺の体 やるぞ空母に体当たり
母に捧ぐ
己が身は君の御楯と散らうとも
  折々は帰る母の夢路に








   ―――金井正夫少尉―――

 仙台高等工業専門学校(現東北大学)を卒業して、第13期飛行予備学生となり、筑波海軍航空隊で戦闘機の操縦訓練をうけました。昭和20年4月6日、神風特別攻撃隊第1筑波隊員として、鹿屋基地を発進し、沖縄周辺のアメリカ軍輸送船団に突入し、散華。享年23歳。任海軍大尉。


   ――金井正夫少尉の手紙――
 何から書き出していいのかわかりません。外は春雨がシトシトと降りつづけていますし、ラジオの歌が静かに聞こえています。静かな晩です。天候回復をまち出撃します。この雨が降らなかったら、今日今頃はもう散ったかも知れません。前線は私達の来るのを今か今かと待っています。男の最期です。思ひ切り働いてみます。同じ内地の土を踏みしめながら会へないのは残念ですが、かえって未練なく飛び立てます。沖縄の戦果の中に私の生涯の幸が、印されるでしょう。攻撃、絶対に生還はできません。敬ちゃんのように死に度いと思っています。
 敬ちゃんは偵察員の本領とも云ふべき死にかたです。私もいい死場所を得たと、信じています。ご安心下さい。最近の写真を送り度いと思っていましたが、撮す機会もなく実現しませんでした。
 丁度私も頬髪を伸ばし始めた時です。一糎はのびているでしょうか。頭はのばしませんでした。
 兄さん。敬ちゃんの写真を見たいと思っていましたがこれも駄目でしたね。然し攻撃の時はみんなの写真
を持ってゆきます。
 旅館の桜はもう満開です。多分故里の桜も満開今盛りの頃だと懐かしく思い出して居ります。弘法山なぞみんな楽しい思い出です。
 風が少し出てきた様です。明日は晴れるでせう。九州南端の基地まで進出します。三浦先生は、志布志の町とか。
 本当に親孝行もこれからと思っているうちでしたが、御両親はじめ兄弟みんな長生きして下さい。
 書いても書いても何を書いたのか。何か書き忘れた様な気がしてなりません。ただただ無理をなされぬ様に御長生き下さい。
 ご両親様
 兄弟皆様
 国やぶれて何の山河ぞ。必ずや成果を上げ、ご期待に副ひます。
 窓外の煙雨を眺めながら静かに出撃を待って居ります。故郷の山河を回想しつつ、だれか白頭山節を歌って居る。
 泣くな欺くな必ず還る 桐の木箱に錦着て逢いに来てくれ 九段坂
 御健闘をお祈り致します。
正夫
(『丸』277)







 
   ―――諸井國弘少尉―――

 国学院大学史学科卒、第14期飛行予備学生、昭和20年5月11日、神風特攻隊第5筑波隊員として、鹿屋基地を発進し、沖縄周辺の機動部隊を攻撃し、散華。享年23歳。
 

 ―――諸井國弘少尉の遺書―――

 昭和20年5月6日
 拝啓、すでに此処南の第一線基地に来てから旬日、不思議に命長らえてまだいます。
 今日は出撃だと思えば又然らず、しかし明日知れぬ我が命、一度出撃せば体当り、五体爆弾と共に若桜御国嵐に散ります。最新鋭戦闘機を愛機として行けるのは誠に幸福です。現在の心境神様のみ御存知です。
 毎日家の夢を見ます。もうきっと魂は家に帰っているのかも知れません。
 凡人でも立派にやる事だけはやって、御期待にそいます故御安心下さい。今度敵空母撃沈の報があれば、國弘は靖国神社へ行ったと御思い下さい。二十有三年の御厚情、この一挙に報いさして頂きます。御国の為家門の為、一生懸命に祈って征きます。誰かがこんな
歌を作りました。
 
 我が五体敵艦もろ共砕くとも
  折には帰る母の夢路に
 
 飛行機に乗れば何もかも忘れてしまいます。良いですね。皇国の弥栄と父母上の御健勝を祈ってお別れします。
 追、筑波の方から私の荷物が行く事と思います。「コウリ」と「ボストンバック」です。写真はそのうち誰かから送ってくれると思います。さようなら。
  断行            23歳 國弘









 <昭和20年>本土決戦。筑波海軍航空隊、首都圏防空任務へ    



 とうとう、日本本土への攻撃が本格的に開始された。

 米戦闘機や爆撃機が連日のように日本本土上空に現れ、あらゆるものを無差別に破壊した。

なぜアメリカの爆撃機や戦闘機の侵入を防げず、見す見す攻撃を許してしまったのか。これについて、日本本土防空戦においていくつかの問題点があったようだ。

その問題点を以下にまとめる

↓  ↓   ↓



その1 貧弱だった日本の防空体制

 日本は、自国の上空に敵機を侵入させない「守りの防空」ではなく、敵機の行動範囲内の基地を占領あるいは破壊して「攻めの防空」に念を置いていたため、そして、日本が海に囲まれた島国であったため防空に関しては軽視していたようである。

しかし、昭和17年4月18日。アメリカが艦載爆撃機により行った初めての日本本土空襲「ドゥーリトル空襲」では、日本陸海軍はまともに迎撃する事ができなかった。これをきっかけに日本陸海軍は防空体制の強化を目標としたが、その後の戦況悪化で、それまで本土防空を任務としていた部隊までも戦地へ送り出してしまったため、本土防空は手薄になっていたようだ。





その2 技術遅れのレーダーシステム

 当時、日本陸軍は「甲」と「乙」の2種類の電波警戒機を使用していた。
 電波警戒機「甲」は、距離の離れた送信所と受信所の間に電波を流し、敵機が横切るあるいは近づくと電波の乱れにより生じた唸り音により探知するというものだったが、敵が通過したという事しかわからず編隊の規模や位置の探知はできなかった。
 電波警戒機「乙」は、現代に使用されているレーダーと同じパルス波を使用する、いわゆる「レーダー」だったが、当時は精度が悪く故障も多発し、索敵レーダーとしては使えたが、射撃管制レーダーとしては使えなかったようだ。
 しかしこれでも当時の日本のレーダー技術はそれなりには先進的だったが、緒戦の連勝により慢心したのか継続的な研究開発を軍部が怠った事と、材料の不足・熟練した工員の不足により、先進的だったレーダー技術はアメリカに徐々に水をあけられていった。
 





その3 迎撃に使用する高射砲・対空機関砲の不足

 米戦闘機やB29などの爆撃機は1万メートル以上の高高度を飛行する事が可能で、これを迎撃するのに必要な三式12センチ高射砲の数が足りず、また、高度5000m以下をカバーする対空機関砲も足りなかった。特に40ミリ級のものが少なかったのは致命傷で、低高度で機銃掃射するグラマンや、低~中高度でB-29の爆撃や焼夷弾攻撃を防ぐ事ができなかった。



その4 新型戦闘機投入なるもパフォーマンスを生かせず 
 
 アメリカが戦前で既に実用化していたスーパーチャージャーを、日本は終戦まで最後まで量産化できなかった。スーパーチャージャーは酸素の薄い高度8000m以上の飛行に必要不可欠であったが、その2段圧縮のものを大量に投入してきた米航空機に対抗して、2000馬力級のエンジン(自然吸気)、「誉」を搭載した四式戦闘機の「疾風」を投入したが、物資不足により本来のオクタン価100のハイオクタンガソリンを使用できず、低オクタン価のガソリンの使用を迫られ、性能を十分に発揮できず(ハイオクガソリン車にレギュラーを入れるようなもの)、パフォーマンスの低下どころかエンジン不調を招いたそうだ。











 サイパンを発進するB29爆撃機や米機動部隊による本土爆撃が始まり、また、P-51マスタングやグラマンF6F(F6F)が軍事基地だけでなく鉄道や工場、一般市民やも民家にまで無差別にあらゆるものを攻撃した。





                 P-51、B29の本土空襲映像 ↓↓
           











 昭和20年4月20日付けで、筑波海軍航空隊は練習航空隊から、第3航空艦隊直属の実施部隊となった。特別攻撃筑波隊を送り出した4月末以降、零戦と零練戦の訓練用飛行隊は、同じ任務の谷田部海軍航空隊へ移された。
 代って紫電装備の戦闘第四〇二飛行隊が編入された。また、5月5日付けで、403飛行隊が筑波空の指揮下に入り、更に徳島分遣隊、谷田部航空隊、大村航空隊 (長崎県)の紫電隊も加わって、筑波海軍航空隊は紫電航空部隊となり首都圏防衛の任務をまかされた。

7月10日すぎ、筑波海軍航空隊司令「五十嵐周正」大佐が率いた403飛行隊は、兵庫県姫路市の北東30kmに位置する鶉野飛行場(兵庫県)へ移動した。この飛行場に隣接して川西航空機の姫路工場(海軍戦闘機を生産)があり、その上空哨戒の任務のため。

 一方、戦闘402隊は7月中旬、飛行長遠藤三郎少佐の指揮で、京都府福知山に進出し、同じく川西航空機の鳴尾本工場(紫電改などを生産)の防衛を任務とした。

両隊は姫路と福知山で8月15日の終戦を迎えた。


















 備考:局地戦闘機 「紫電改(紫電二一型)」

 初代紫電は性能的に零戦の足元にも及ばないものだったようだが、問題点を見事に改良された紫電改は零戦の後継機という位置づけで、零戦に代わる次世代『制空戦闘機』として運用された。零戦にはなかった防弾装備など色々追加され、頑丈に作られた。
 エンジンは「誉」で、零戦が約1000馬力なのに対して紫電改は約2000馬力で、零戦の約2倍。
 手強かった運動性能の高い米戦闘機のF6Fと互角に戦えるポテンシャルを秘めていた。
 しかし戦争末期は熟練したパイロットの喪失や物資不足で劣化した燃料を使用していたため、紫電改の持つ最高のパフォーマンスを発揮できなかったようだ。評価が高い機体ゆえ、遅すぎる零戦後継機のデビューに、もっと早くデビューしていたら、と惜しまれている。
 

  (この写真は 川西 N1K2-J 「紫電改」)
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   ―性能諸元―  

メーカー       : 川西航空機
エンジン       : 「誉」二一型 
エンジン形式     : 空冷18気筒 
    排気量     : 35,800cc  
エンジン瞬間最大出力(離昇出力) : 約2000ps /3000rpm 
エンジン定格最大出力   :  約1886ps / 高度2000m時
                    約1642ps / 高度6100m時
(ウィキペディアの記述を参考に馬力単位hp→ps換算)
最高速度       : 約594km/h (高度5600m時)
実用上昇限度     : 10,760m






 





 現在の筑波海軍航空隊    


 終戦後、その役目を終えた筑波海軍航空隊の司令部庁舎は病院に転用し、つい最近まで県立友部病院として使用していた。

 最近になって病院が近くに移転し、建物の解体工事が進められるが、「筑波海軍航空隊プロジェクト実行委員会」という有志の活躍により、解体前に期間限定の一般公開が実現した。来年3月31日くらいまで建物の一般公開をし、そのあとは取り壊される予定らしい。





      筑波海軍航空隊司令部庁舎  ↓↓
     
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 結果として日本は敗戦になり多くの犠牲を払った。

 よく言われるのが、戦前日本は侵略など散々悪い事をしてきたとテレビなんかで議題に上がるが、アジアの一部国を除いては(どこの国とはあえて言わないが)ほとんどが親日国である事が示しているように、多くの国に信頼されているのもまた事実であり証拠である。

 国を守ろうと勇敢に散っていった悪者呼ばわりされるのはあまりにも悲しいので、最近になってよく言われている正しい歴史認識を持ち、その活躍を知る事で多少なり供養になるのではないかと思う。







     ~おわり~






<参考・引用>
・「新笠間市の歴史」
・「筑波海軍航空隊 青春の証」
・「フィールドワーク茨城の戦争遺跡」
・(筑波海軍航空隊記念館のパンフレット)
・(筑波海軍航空隊記念館)
・「歴史群像シリーズ太平洋戦争8」
・「ゼロ戦と海軍航空隊」
・「零戦と日本の名機」