――筑波海軍航空隊の歴史――  






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             第2章 筑波海軍航空隊 前編





<昭和13年12月27日> 霞ヶ浦海軍航空隊から独立、筑波海軍航空隊が発足    


 
 昭和12年7月、日中戦争が勃発。


 日本海軍は陸軍との協定により上海以南の中国戦線における航空作戦を担う事になり、より多くの航空兵力が必要になった。
 そして昭和13年12月27日、友部分遣隊は霞ヶ浦航空隊より独立し、筑波海軍航空隊(略称:筑波空と言う)が発足した。任務は従来通りの搭乗員教育だが、93式陸上中間練習機が導入され、これまでの中間練習機教程の航空隊となった。
  
 同13年から14年にかけて、県内には鹿島(美浦村)、谷田部(つくば市)に海軍航空隊が、また百里航空隊(小美玉市小川)は、筑波海軍航空隊の分遣隊として設置された。
 筑波海軍航空隊の訓練は、一期50名で訓練期間は6か月、訓練は徹底して行われ、小さな失敗でも卒業を大幅に延期された。卒業検定の搭乗は、鈴鹿海軍航空隊(三重県)への往復飛行であった




  ――93式陸上中間練習機――



 九三式中間練習機は第二次世界大戦中の日本海軍の練習機で、オレンジ色に塗装されていた事から別名赤トンボと呼ばれた。


    <性能諸元>
メーカー     : 川西航空機
生産       : 九州飛行機、日本飛行機、日立航空機、中島飛行機、三菱重工業ほか
全備重量     : 1,500 kg
最高速度     :  210 km/h
最高到達高度   :  5,700 m
航続距離     :  1,020 km
エンジン     :  日立航空機「天風」
    排気量  : 17,900cc
エンジン形式   : 空冷9気筒星型
エンジン最大出力 : 340 Hp(344.7ps)×1
固定武装     :  7.7mm旋回機関銃×2 33kg爆弾×2


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(筑波海軍航空隊記念館の模型より。ほんとにこんな感じの色だったらしい。敵から目立つような・・・)
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<昭和14年> 筑波海軍航空隊に昭和の名力士「双葉山」を招いて記念行事を開催    




 昭和14年春に、横綱双葉山、羽黒山、名寄岩ら立浪一門を招いて相撲大会が開かれた。

 横綱双葉山は、同年1月に69連勝という栄光の記録をつくりあげたばかりで、迎えた筑波海軍航空隊の土俵は、大横綱を一目見ようと押寄せた観衆で満員になった。



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<昭和16年>太平洋戦争勃発     
 
 


 昭和16年12月8日、太平洋戦争(大東亜戦争と称した) が勃発した。連合艦隊のハワイ真珠湾攻撃に、筑海海軍航空隊で教官をしていた飯田房太【ふさた】大尉が参戦し、真珠湾の飛行場を爆撃し、部下を航空母艦へ帰艦させ、自らは引返してアメリカ軍艦に突入して爆死した。大尉は戦争の前途に危惧の念をいだき、「日本は今に大変なことになる」と友人に話していたという。

 太平洋戦争が始まると訓練は一層激しさを増し、夜間訓練も実施された。発着、上昇、急降下、旋回、射撃、編隊飛行などの訓練が
繰り返し行われた。海軍少年飛行兵や予科練習生も入隊して猛訓練をうけ、訓練修了後、激戦地へ飛び立っていった。
           
 昭和16年10月1日から翌17年3月27日まで、筑波空で中練教程を修了した甲飛六期、飛練二一期生の動向を、同期で訓練修了後、筑波空の操縦教員として残った青田勝義が、戦後、同期生52名の追跡調査を行った。
 その結果、52名の修了生で、昭和20年8月15日の終戦を迎えることができた者は6名だけで、46名が戦死した。多くはガダルカナル、ソロモン、ブーゲンビル、ラバウルなど東南アジアの激戦地での戦死で、内地 (日本国内) での戦死は4名にすぎなかった。

 同期の年度別の戦死者は、昭和17年が四名、18年が27名、19年が13名であった。搭乗した戦闘機は零戦が23名、九七艦攻が7名、九九艦爆・一式陸攻が14名で、他は銀河・彗星などの戦闘機での戦死であった







 備考: 友部出身の市原米吉特務少尉
 
 宍戸町南小泉(現在笠間市)出身の市原米吉少尉は、昭和12年1月から13年1月まで霞ケ浦海軍航空隊友部分遣隊の教員を務めた。
 昭和17年3月22日、大湊航空隊より索敵に出動したが未帰還となり、4月22日戦死の公報が届いた。



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(遺書は昭和12年9月22日に書かれたもので、妻の市原つやに宛てたもの)

――市原米吉特務少尉の遺書――

 今更こと新しく遺書を書き残すこともなく、すべての事は、生前たびたびお前に話してあるとおりに実行すればよい。
 軍人一たび戦地に至りては「義は山岳より重く、死は鴻毛より軽し」「死」は当然のこと。出来得るなら、第一等国との戦闘に華々しく戦って戦死したい。が支那の弾丸でも当たれば戦死は当然のこと。
 今まで当地よりの何回かの通信で、僕の戦闘振りは少なからず分かったことだろう。既に何回かの危険な生死の境は越えて来た。この事変は今後いつまで続くか知らんが、誰か生ある凱旋を保障できるや。後で「虫が知らすか死を悟った」といわれるは心もとないが、あえてこれを書き残すことにした。
 
 僕の戦死で、当然お前は寡婦になる。初めのうちは世間の人の好奇な目で同情も集まるだろう。が、事変も治まり世が再び平和になれば「喉元過ぐれば熱さを忘る」は人の世の常だ。
 いろいろな方面の誘惑もあるだろうが、今からはお前の身体は僕と二人分だ。確固たる精神、強い信念、偉大なる母性愛をもって世の荒波を乗り切り、子どもを養育せねばならぬ。要するに世間の誘惑に打ち勝ち、人に馬鹿にされぬ強い女、強い母になり、裕子を立派に養育してくれ。どんなことがあっても人から笑われぬ、あたり前の生活を続け、裕子の養育は立派にしてくれ。
 あれがかっての上海空中戦の勇士の遺族の生活振りだ、などと指さされぬように頼む。これは一に君の心掛けによるものだ。よくよくこの際自覚して、いつまでも忘れぬようにしてくれ。
 父は何といおうと僕の希望として、百姓のできぬ串前が家人と共に同居することは賛成できぬ。
 ほかに借家なり適当な所へ家を建てるなりして、分家してくれ。
 お前はまだ20歳の身空で子供を抱えて世の荒波を渡るのは事実むずかしい事だ。普通、世の人は娘盛りで苦労も知らずに親下にあるのに、寡婦生活は実に気の毒だ。適当な人があれば再婚するのも止むを得んだろう。が、人の心には裏表がある。上辺ばかりに惑わされぬよう十分注意したがよいと思う。
 今まで、自分は何もしてやることができなかったが、少なくとも結婚生活2年間は、できるだけの愛情と好意を捧げ、幸福な生活をさせたつもりだ。それ故、他人にお前の泣きを見せるような事はさせたくないと思う。充分と注意してくれ。
 世間に馴れたとはいえ、まだまだお前は世間を見る目がないと思う。注意が肝心だ!!
 もし再婚するにしても、お前が他に嫁ぐようなことはせず、私の姓を裕子により伝えてくれ。
 戦死による賜金並びに家族扶助料は、若干下賜さることと思うが「座して喰らえば山をも崩す」たとえだ。何なりと自己の才能に適した職業を見つけるなり、内職をするなりして地味なまじめな生活をしてくれ。
 親も老境に入り仕事も出来ぬことになり、妹達も年頃だから結婚費用の一助位は親父に出してやってくれ。
 今から収入のないお前にこんなことは言い難いが、家のことも考えればわずか位は仕方ないだろう。
 これが最後と思えばいろいろ書き遺したいが、もうみな言わんとするところは簡単ながらしたためたつもりだ。
 身体は一大財産だ。くれぐれも健康に注意して暮らしてくれ。 さようなら。
(昭和12年)9月22日

つや子殿











<昭和19年3月> 零式練習用戦闘機による実戦訓練が開始    


 昭和19年3月15日、筑波空は零式練習用戦闘機(零式練習機)配備の練習航空隊となった。これまでの93式陸上中間練習機(赤トンボ)は、福岡県筑城【ちくき】航空隊に移動し、大分航空隊から零戦が移ってきた。大分航空隊には、零戦90機と零戦練習機24機が配備されていた。

 4月の筑波空には零戦150機が配備され、40期飛行学生が零式練習機で訓練していた。更に13期飛行専修予備学生前期107名が、7月下旬に筑波空で実用機教程の訓練に入った。
 




  <零式練習用戦闘機>

機体は実戦用の零式戦闘機と変わらないが、操縦席の後ろに教官席を設け複操縦式とし、前席の風防は開放式、後席は密閉式で、両席の間に転覆時の乗員保護の為のバーが設けられていた。主翼は折りたたみ機構を廃止し、整備を簡易化するため主脚カバーの車輪部分が省略されていた。
 武装は射撃練習用に機首の7.7mm機関銃を残し、また、主翼下の爆弾架も残され、運動性能も零戦と何ら変わりない実戦機である。
 沖縄決戦では、この練習機にも爆弾を積んで特攻を行ったようである。


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――性能諸元――


メーカー     : 中島飛行機
生産       : 第21航空廠 、日立航空機
エンジン     : 栄【さかえ】 
エンジン形式   : 空冷14気筒  
    排気量  : 27,900cc
エンジン最大出力 : 約963.2ps(高度4200m時)
最高速度     : 約476km/h
実用上昇限度   : 約10,300m
固定武装     : 7.7mm機銃 ×2

特記事項     : 軽量化のため時速650km以上出せず、防弾仕様は施されていない。



           アメリカに現存する零戦戦闘機の52型 ↓↓
      









<昭和19年9月~11月> 滑走路舗装工事が開始    





当時の滑走路は芝張り(芝生)であった。零戦の訓練が始まると、芝のいたみが激しく、そのためデコボコができて、車輪がとられ脚を傷付けたり、機体を破損することがあった。
 
 また、訓練中不慮の事故で殉職した隊員もいた。中野忠二郎司令は、舗装した滑走路を筑波空の自力で作ることにした。各方面から資材を集め、昭和19年9月中旬から11月中旬にかけて工事を進め、三角形の滑走路を完成させた。

 この間、第一四期飛行専修予備学生120名が筑波空に配備され、鹿児島県出水航空隊から移動してきた。筑波空では滑走路工事のため操縦訓練ができず、その間青森県三沢基地を借用して実用機訓練を行った。


   (現在の滑走路の位置。)
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<昭和19年> フィリピン・レイテ沖海戦 ~筑波隊、 特別攻撃隊に要員を派遣~    

 昭和19年10月24日から25日にかけて、フィリピンのレイテ沖海戦で、日本の連合艦隊はアメリカ軍の機動部隊の攻撃をうけ、航空母艦四隻をはじめ多数の軍艦を失い、壊滅的状態に陥った。
 レイテ沖海戦に、海軍は神風特別攻撃隊(当初はしんぷうと称したが、一般的にはかみかぜと呼ばれた)を出撃させた。250kg短爆弾を着装した零戦が、体当り攻撃を始めた。
 10月25日には、神風特別攻撃隊敷島【しきしま】隊、大和隊がアメリカ軍護衛空母を撃沈するなどの戦果をあげた。



(米機動部隊と激しく衝突したレイテ沖海戦が発生したおおまかな空域と場所。実際はもっと広範囲らしいが参考程度で)
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 同年秋、筑波空からフィリピン戦の特別攻撃要員として25名が派遣された。選ばれた25名は、「寄せ書き」を残してフィリピンに進出した。「寄せ書き」には、「馳参国難」(丸山隆)、「雲染む屍」(綿引芳男)、「絶勇」 (星野正巳)、「大往生」 (増田情)、「筑波特攻隊に続け」(行武義弘)等、力強く墨で書かれていた。
 筑波空からフィリピンに進出した隊員は、12月から翌20年1月にかけて、神風特別攻撃隊金剛隊として、セブ基地などから出撃し、13名がアメリカ艦船に突入して戦死していった。星野正巳中尉、大塚明上飛曹は、アメリカ輸送船「ウィリアム・シャロン」に突入、丸山隆中尉は、護衛空母「マニラ・ベイ」に突入、米兵15名戦死、負傷51名の被害を与えた。
 






       備考 : フィリピン空中戦で戦死した城里町出身の大畠敏雄中尉

 東茨城郡桂村(現在:城里町)出身、水戸中学(現水戸一高)から海兵71期。軍艦長良、武蔵の乗組を経て、第40期飛行学生。霞ケ浦海軍航空隊(中練)、大分航空隊(戦闘機)から筑波海軍航空隊に移った。
 昭和19年10月24日、午前7時15分、フィリピンのマバラカット飛行場を出発、フィリピン沖東方海上で空中戦となり、被弾し自爆したとされた。
湯野川守正大尉は、「口数は少なく真面目そのものの人物であり、別府杉乃井での清遊派で、静かに過ごしていた。彼の銃剣術は鋭く俊敏であった。台湾では生き残りながら比島の総攻撃で散って仕舞った。ご冥福を祈る」と回想している。


                        大畠敏雄中尉肖像 ↓↓
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<昭和20年2月>友部にアメリカ艦載機の来襲。筑波空迎撃、空中戦へ    

昭和20年2月16日の明け方、東京の南東200kmの洋上、アメリカ軍航空母艦からグラマンF6FヘルキャットF4Uコルセアを先頭に艦載機が関東地方を攻撃してきた。関東各地の実戦部隊、第11連合航空隊で零戦配備の筑波空、谷田部空に遊撃(敵を迎え討つ)の命令が出た。
 筑波空では操縦教官(尉官以上)、教員(尉官以下)28名(うち紫電四名)が出動態勢をとった。この日の出撃数は零戦48機、紫電11機であった。
 
 翌17日もF6Fの来襲があり、零戦だけ延26機が出撃した。アメリカ艦載機の4機(2機・2機) の編隊機動に筑波隊は翻弄された感があったという。筑波空にF6Fの機銃掃射が何回となく繰り返された。
 
 筑波空発表の両日の戦果は、撃墜8機、撃破7機、対空機銃による撃墜1機で、損害は自爆15機、被弾5機、不時着一12機で、戦死18名、負傷4名であった(「筑波海軍航空隊戦闘詳報」)。
 
 2月17日早朝、空中戦のあおりで宍戸大田町の唯信寺が全焼した。F6Fから発射された曳光弾が、寺のワラ屋根に突きささり燃えあがった。唯信寺には、東京都向島区の寺島第一国民学校の学童73名と職員5名が集団疎開していた。学童たちは北山の飛竜神社や山林に避難して全員無事であった。焼け出された疎開学童は、その夜から円通寺(大田町) に移った。
 
 2月25日にもアメリカ機動部隊が来襲した。筑波空から零戦五二型14機で迎撃して、撃墜5機、撃破1機と戦果を報告したが、被害は自爆・未帰還4機、戦死4名、被撃墜1機(負傷1名)、大破1機、地上破損8機であった。
 同日、宍戸上空を襲ったF6Fの機銃掃射をあびて、平町の警防団員が即死した。また笠間、稲田地域にも飛来し、無差別に機銃を掃射し、稲田で子供一人、笠間でも小学生が死亡した。飯合地内の民家も空襲により焼失した。




   空中戦の記録

      <2月16日の空中戦>

――― 戦果 ―――
〔08:30〕水戸北方上空においてF6Fと交戦、1機撃墜。
〔09:15〕鉾田上空でF6F、8機と交戦。1機を撃破。
〔09:20〕涸沼上空でF6F、1機撃墜。
〔09:50〕銚子上空でF6F、1機撃墜。
〔10:00〕水戸陸軍通信学校上空においてF6F、3機と交戦。1機撃破。
〔10:15〕大洗沖西進中のF6F、6機と交戦。1機を撃破。
〔10:25〕大洗方面南進中のF6F、4機と交戦。1機を撃破。
〔10:30〕涸沼上空においてF6F、7機と交戦。1機を撃破。
〔13:10〕水戸北方上空においてF6F、4機と交戦。1機を撃破。
〔13:20〕大洗沖においてF6F、30機と交戦。、3機撃墜。
――― 被害 ―――
12名撃墜。ほかに被弾6機、うち内1機大破


     <2月17日の空中戦>  

――― 戦果 ―――
〔07:50〕 石岡上空にてF6F、7機と交戦、1機撃墜
〔08:00〕 石岡上空ニテF6F7機卜交戦、1機撃墜
〔08:00〕 石岡上空ニテF6F3機卜交戦、1機撃破
〔07:50〕 当隊ノ銃撃セルF6F、8機ニ対シ、機銃隊交戦1機撃墜(不確実)
――― 被害 ―――
 3機撃墜、ほか被弾1機。ほかに地上員、その他にも被害あり。



     <2月25日の空中戦>

―――戦果―――
〔08:25〕鉾田上空においてF6F、8機と交戦、1機を撃墜
〔08:35〕諏訪村上空において4機と交戦、1機を撃墜
〔08:20〕大洗上空、30機と交戦、2機を撃墜
〔09:30〕筑波空東南上空において5機と交戦、1機を撃墜
〔09:05〕大洗上空において7機と交戦、1機を撃破
――― 被害 ―――
3名撃墜。ほか1名空戦により弾し落下傘降下せるも顔面火傷。ほか1名、被弾し不時着、大破。人員は無事。その他、銃撃による地上被害、零式戦闘機1機、中練2機、その他零戦中練3機。  





 アメリカ艦載機F6F戦闘機の来襲を受け、出撃した零戦の数は16日は延べ48機出撃。17日は40機出撃。
 
 以上のように、多くの撃墜や撃破を記録した。

一見すると零戦が優位のように見えるが、しかし、筑波空の被害はそれを遙かに超えるものだった。 零戦の約2倍の2000馬力級のエンジンを搭載するなど機動性の高いアメリカ戦闘機F6Fを相手に苦戦を強いられたようだ。

 しかし、旧式化となりつつある零戦でエンジン性能差というハンデがあるながらもよく戦ったものだ。。。。

 以下、零戦とグラマンF6Fとの決定的な違いと、零戦の弱点について。参考までに。

    
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   (参考 : 零戦とグラマンF6Fヘルキャットとの決定的な違い と弱点)  
    






次に続く→→