――筑波海軍航空隊の歴史――  
       ~筑波海軍航空隊司令庁舎公開記念~



もう既に存知だと思いますが、現在、特別公開されている筑波海軍航空隊司令部庁舎の公開記念に、筑波海軍航空隊の記事を書いてみました( ̄∀ ̄)

あのような戦前の古い建物が、特攻隊員を送り出した建物が当時のまま残っているなんて、とても貴重です。

自分は筑波海軍航空隊記念館へは既に3回行きましたけど、筑波海軍航空隊の事はそこで初めて知りました。

あまりに無知だったんで・・・・、もっと筑波海軍航空隊についての歴史を探ってみよう!!

以下、筑波海軍航空隊についてを詳しく調べました。

年表形式でまとめてみました。長くなりますが是非ご覧ください( ̄▽ ̄)ノ 





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       第1章 霞ヶ浦海軍航空隊友部分遣隊





  <昭和9年9月29日> 霞ヶ浦海軍航空隊友部分遣隊が開隊    


 


  大正7年7月、国の機関だった農林省は笠間市平町に国立友部種羊場を設置した。(以下の地図参照)

 その後大正15年に茨城県種畜場(現・茨城県畜産センター)が、その国立友部種羊場跡地(40ha)と庁舎を払下げを受けて移転。
 









(種畜場だった跡地は赤く囲ってあるところと、オレンジの国有地↓↓一部は現在、県立こころの医療センターの敷地となっている。「笠間市畜産試験場跡地概要・全体写真」より)
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今も現存している大正8年に建てられた国立種羊場のちに茨城県種畜場の木造洋風建築。(写真:写真記録茨城20世紀)
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友部種羊場は、国による緬羊事業の一環として大正7年7月6日に設置された。だが、緬羊事業の縮小されたことに伴い、数年後の大正13年12月15日に廃止され、大正15年3月31日をもって茨城県種畜場に移管された。
 現存する友部種羊場も、この時に払い下げられ、昭和55年5月末までは実際に庁舎として使用されていた。その後は文書などの保管庫として使用されていたが老朽化にともない放置されているようだ。
 近年では、この庁舎が大正時代に建てられた風情のある古い建物である事から、のどかな風景も相まって、映画やドラマ、CMのロケ現場として使われているようだ。














 昭和になると、この種羊場の空き地で、所沢航空隊や霞ケ海海軍航空隊、陸軍の気球研究班などが離発着の訓練を行っていた。

 昭和9年になり、霞ヶ浦海軍航空隊の陸上班の一部をこの敷地に移し、初等教育班として搭乗員養成にあたる分遣隊の設置が決まった。

 早速、基地の建設に着手された。 

 同年昭和9年3月5日に海軍省建築課の技師らが、宍戸町長を訪問、更に現地を視察。友部駅から航空隊に至る基幹道路と資材輸送のトロッコレールは、海軍省が施工し、航空隊から橋爪まで1000m道路(海軍道路)は町が請負うことになり地元の有志によって宍戸駅から基地までの道路が建設された。

   



 (海軍道路の位置↓↓)
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 3月20日から、三井商事と大林組が工事を請負い、格納庫、兵舎等の建築資材が鉄道便で搬入され8月に入り司令部庁舎、兵舎、病院衛生所、格納庫八棟が完成した。

 同月8月15日に分遣隊内の開隊式を挙行した。初代分遣隊の司令長は三木森彦
 軍艦旗が掲揚され、三木森彦分遣隊司令の訓示、河村本隊司令の隊内巡閲と訓示が行われ、その後、練習機一八機が三〇〇mの高度を保ちながら水戸、那珂湊、石岡、笠間、宍戸上空を飛んで、空から開隊のあいさつをした。

8月に入り司令部庁舎、兵舎、病院衛生所、格納庫八棟が完成した

 霞ヶ浦海軍航空隊の主な任務は、初等教育班として搭乗員養成飛行機の搭乗員を養成する事だった。当初は戦闘機パイロット養成が任務であったはず、だがのちに戦況悪化にともない実戦へと駆り出され、この基地からも多くの特攻隊員を送り出す事になるとは誰が予想していただろうか。
 こうして昭和9年8月15日に、のちに筑波海軍航空隊となる練習航空隊「霞ヶ浦海軍航空隊友部分遣隊」はスタートしたのだった。








    (霞ヶ浦海軍航空隊友部分遣隊開隊当時の正門。現在の裏門が当時の正門だった)↓↓
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兵舎裏にあった洗濯場↓↓
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 (分遣隊開設の頃に撮影されたもの。前列右から7人目が初代分遣隊司令長の三木森彦中佐)↓↓
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 <昭和9年9月29日>霞ヶ浦海軍航空隊友部分遣隊の開隊式    


 昭和9年9月29日、霞ケ浦海軍航空隊友部分遣隊の開隊式が第5格納庫を式場に挙行された。来賓として横須賀鎮守府長官永野修身海軍大将、陸海軍の将官、県知事、県会議長・議員、宍戸町長、近隣町村長・議員など250名が参列した。分遣隊司令の式辞、永野大将の訓示、多数の来賓祝辞があり、盛大な開隊式であった。
 当日、町内では友部駅前に大アーチを立て、花火を打上げ、街道沿いの各戸に日の丸が掲げられ、祝賀一色につつまれていた。東町・西町・仲町の三か所で余興の催しがあり、小学生の旗行列が街をねり歩いた。
 開隊式終了後、霞ケ浦本隊の艦上攻撃機5機、同偵察機9機、陸上練習機9機、水上偵察機13機、水上練習機7機が、新装の飛行場から飛びたち、大編隊を組んで友部上空を飛行した。当日は航空隊施設を一般開放し、見物人であふれかえっていたという。

 航空隊の開隊により、飛行場付近の大沢、矢野下の集落は、飛行場建設にともなう大工、人夫の宿泊地となり、飲食店、理髪店、雑貨店等ができ、また、駅前の運送業、料理店、旅館なども活況を呈し、駅前や平町通りは兵士の下宿所となった。友部駅の乗降客も増加し、営業実績も黒字となっていた。







  備考: 「鬼の筑波」と恐れられたきびしい操縦訓練     

 友部分遣隊発足時、使用していた機体は3式陸上初歩練習機(3式初練)で、昭和十二年頃までは、3式初練を四〇機ほど保有し、操縦訓練生、予科練卒業の飛行練習生を教育していた。

教官一名が三、四人の練習生を担当した。訓練は厳しく、ちょっとした失敗も見逃さず、教官の制裁をくらったようで、鬼の筑波と恐れられた。

飛行訓練中、筑波山方向に飛び、「山頂に向けてそのまま直進せよ」との意味の指示が「筑波山宜候(ようそろ)」ここで操縦訓練を受けた誰もが脳裡に刻み込んでいたという。



           3式陸上初歩練習機 ↓↓
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では実際に、元筑波海軍航空隊で、訓練を行っていた人の貴重な話をひとつ引用してご紹介しよう。

少々引用が長くなるが、今では聞けない貴重な話なので是非ご覧あれ。






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    筑波海軍航空隊での訓練
                  陰 山 慶 一



<陰山 慶一さんの略歴>

陰山慶一氏さんは、長岡高等工業学校卒業と同時に、昭和18年9月、第13期飛行専修予備学生として土浦海軍航空隊に入隊。筑波海軍航空隊では、戦闘機専修学生(学生長をつとめる)として操縦訓練にはげむ。その後、第203空、戟闘第304飛行隊、第2美保空、大和空、第1081空に所属、海軍中尉。戦後は島根県下の中学校長を歴任、平成12年教育新聞社山陰支局長。










 昭和18年12月1日、中練数程、筑波航空隊の入隊式があった。第一種軍装に身をかためて、号令台前に整列する。
 「陰山慶一ほか164名……」と、私の名前を呼ばれて予期せざることに驚いた。
 荒木保司令の訓示があり、今日から憧れの大空に生命をかけた飛行作業に入るのだ。真剣、確実、細心でなければ飛行作業はできないと覚悟をあらたにした。
 入隊式が終わるとすぐに、学生舎に帰って飛行服にきがえ、ジャケット(救命胴衣)も着て、駆け足で飛行場のエプロンに集合するよう命じられた。すぐさま用意を整えてかけつけると、5名がペア(組)となって、担当教員(下士官)と顔合わせをおこない、午前中の飛行作業についての説明をうけた。私たちのペアの教員は、迫一飛曹(戟闘機出身)である。作業課目は地上演練で、飛行機の点検法、始動の仕方、暖機運転、各計器の説明など事細かに指導をうけた。
 やがてエンジンが始動され、プロペラがまわりはじめると、その風圧の強いのに驚いた。なにもかも、目に入るものすべてがめずらしく、新しい体験ばかりである。この飛行機を自分でほんとうに操縦ができるだろうかと、内心不安になった。
 午後からは飛行作業、「慣熟飛行」である。いよいよ生まれて初めて飛行機に乗るわけである。地上指揮官に届け出もそこそこに、ペアの3番目に搭乗する。狭い座席に座り、教えられたとおり伝声管をつなぎ、教員の指示をじっと待つ。やがてプロペラがうなり、身体がふるえるような気がする。

 「落下傘帯のフックをつけよ。バンドはよいか」

と、伝声管から指示が伝わってくる。翼端にいた整備員がチョーク(車輪止め)をはずした。飛行機が動きだして、やがて離陸地点に到着した。

 「左右前後、見張りはよいか」「離陸する」

 レバーを一杯に入れると、プロペラが猛烈に唸りをあげている。飛行機がすべり出した。いつのまにか身体が浮き、離陸しはじめた。地面がだんだんと離れていくのがよくわかる。
 上昇後、まもなく第1旋回にはいり、機首がかたむいて身体がおかしな状態になる。そのような私の状態を察してか、後席より教員から声がかかる。

 「ほら、前方の筑波山ヨーソロだぞ」

 やがて第3旋回も、第4旋回も終わったのも知らないうちに、飛行機は着陸の体勢に入っていた。地面が急にせまってくる、と思ったとたん、ガタンと接地する。同時に、またエンジンを一杯にふかして離陸する。
 「よく地上をみよ」「左右をよくみよ」「筑波山ヨーソロだぞ」

 あれこれと後席から教員の指示があるが、何をしていいやら、さっぱり見当がつかない。3回目に着陸して飛行が終わり、列線に帰ってきてホッとした。つぎの学生と交替して指揮官に届け終わるまで、無我夢中で緊張の連続だった。
 これから毎日、このような飛行作業が続くのであるが、はたして操縦がうまくできるようになるであろうかと、期待と不安で胸がいっぱいになった。
 私たちの中棟数程は、昭和18年12月1日より昭和19年3月24日までの約4カ月間である。もちろん、この間は冬季日課であり午前6時に、「総員起こし!」がかかる。
 ここでは飛行作業が主体なので、飛行場や練習機の都合で、2個分隊(1分隊約80名)が午前と午後に分かれて、交替で飛行作業を実施する。 しかし、飛行作業は天候しだいで、あなたまかせである。有名な筑波おろしのからっ風が吹いて、朝は霜柱が立ち、身を切るように冷たかった。
 私たちが飛行訓練を受けるのは、93式陸上中間練習機(通称赤とんぼ)である。93中練は昭和8年以降の海軍航空隊の搭乗員は、すべてのものがお世話になった飛行機である。
 昭和8年に中間練習機として海軍に正式採用されて、終戦まで使用され、ひじょうに寿命が長かった。赤トンボと称せられて、みんなに親しまれた複葉機で、どこの航空部隊にも2、3機はあり、連絡飛行などに幅広く使用されていた。この赤トンボも、戦争末期になると、爆装して特攻機として使用され、特攻の猛訓練をしたのだから、痛ましい限りである。
 筑波海軍航空隊では、はじめて飛行科予備学生がこんなに多くやってくるというので、その受け入れは物心ともに大変だったようである。
 教官はもとよりのこと、教員にいたるまで、なにかとわれわれのために研究会を開いたようである。
 整備の教員が、「私たちは飛行科予備学生に講義させられることがわかり、日夜、一生懸命に勉強して待っていました」と話してくれたことをみてもわかるように、われわれに対する期待の大きさと準備は、本当にありがたいものだった。

 その一つに「三誓」がある。
 教育期間中、雨が降っても猛吹雪でも、毎朝、「総員起こし」後、ただちに駆け足で航空隊の一角にある筑波神社に参拝して、当直学生の号令で、大きな声で「三誓」を口論するのであった。

1、今日一日、忠節を尽くさん
1、今日一日、旺盛なる攻撃精神を発揮せん
1、今日一日、没我精神に徹せん

「三誓」は飛行科予備学生のためにつくられたものと理解し、私たちは日夜これに恥じないように行動しようとつねに努力した。
              (「筑波海軍航空隊 青春の証(あかし)」から)








 大賑わいをみせた海軍記念日     

 毎年五月二十七日の海軍記念日(日露戦争の日本海海戦に勝利した日) には、航空隊を地元民に開放して盛大な祝賀行事が行われた。
 霞ケ浦海軍航空隊から飛来した九〇式三号艦上戦闘機や三式初練が展示してあり、格納庫には落下傘の実物も展示された。隊員が
扮した「友空ペロ助幼稚園」や女装した隊員の仮装行列は、見物人の爆笑をさそっていた。近隣小学生の兜杯争奪対抗リレーなどもあり、終日盛上がりをみせていた。
 海軍記念日は隊員にとって厳しい訓練の束の間の休息となり、地元の人々にとっても基地の一般公開は航空基地を身近に触れる事ができる楽しみとなっていた。



(今で言うところのコスプレといったところだろうか ↓↓)
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