鉄道事故史 常磐線土浦駅 列車三重衝突事故 その② |
前回の続きからです。
今回は241旅客列車(客第241列車)の惨憺たる被害状況について詳しく見ていきたいと思います。
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客第241列車の被害状況
常磐線下り本線を進行してきた客第241旅客列車の機関車は、下り本線で脱線転覆していた254貨物列車を牽引していたD51機関車と激しく衝突。(詳しくは前の記事の図6を参照)
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・客車の1両目は客第241の牽引機関車の上に前端の部分がのし上り、後端は2両目以下に押されて、その勢いで棒立ちに。
・2両目は、上り線路上に跨って転覆。
・3両目は前端の部分が鉄橋に引っ掛かり、後端は桜川に落ち込んだ形で斜めに傾いている。
・4両目は河中に完全に水没。
・5両目は鉄橋にわずかにかかったところで停車して、何らの損傷も受けず、室内電灯も点灯している。
つまりこうです↓↓ |
<イメージ図> ( 書籍『木碑からの検証』から抜粋 )より
1台の機関車は鉄橋上に転覆し、他の1台が鉄橋近くの本線上に横転しているが原型は留めていない。客車は写ってはいない。写真の右の方に写っている車両は、254貨物列車のD51機関車である。写真右から左へ暴走し転覆したのち、241旅客列車と衝突した。(写真の奥側が桜川上流、西方向。)
第241旅客列車に乗車した乗客たち。 |
1両目から4両目に多数の死傷者を出しているが、5両目に乗車していた乗客は急ブレーキにより転倒こそはしたが、怪我人は無く列車内の電気も普通についている。5両目以降に乗車した乗客は運良く、事故を免れた。 |
1両目から4両目に乗るか、それとも5両目以降に乗るか。そのわずかの違いが乗客の命運が大きく分ける事となったのである。 |
突然だが歌手の坂本九はご存じだろうか?
「上を向いて歩こう」で有名な坂本九なのだが、坂本九は幼少時代に、母親と疎開のために、この第241旅客列車に乗車して笠間に向かっていたところ常磐線土浦列車三重衝突事故に巻き込まれた。
列車に乗り込んだ最初は、衝突で絶望的な大破をする事になる1両目から4両目のいづれかに乗り合わせていたらしい。しかし、事故発生直前に恐らく5両目以降に移ったのだろう。坂本九は奇跡的に難を逃れている。
坂本九といえばこの曲↓ |
坂本九
「九ちゃん」の愛称で親しまれた昭和の人気歌手,坂本九。『上を向いて歩こう』は日米でミリオンセラーをヒットし、アメリカの全米ヒットチャート「ビルボード」において1位を獲得するなど偉業を成し遂げた。
戦時中,茨城県笠間にある母の実家へ疎開し,幼少時代の多くをここ笠間で過ごした。結婚式は笠間稲荷神社で挙げ,その後市内をパレードした。また,市立笠間幼稚園には,九ちゃんが寄付したピアノが今でも現役で使われている。
1985年にレコードレーベルをファンハウスに移籍。再び歌手活動を本格化させようとしていた矢先、同年の1985年8月12日、日航ジャンボ機墜落事故に遭遇、43歳という若さでこの世を去った。このVTRの翌年の事だった。
「九ちゃん」の愛称で親しまれた昭和の人気歌手,坂本九。『上を向いて歩こう』は日米でミリオンセラーをヒットし、アメリカの全米ヒットチャート「ビルボード」において1位を獲得するなど偉業を成し遂げた。
戦時中,茨城県笠間にある母の実家へ疎開し,幼少時代の多くをここ笠間で過ごした。結婚式は笠間稲荷神社で挙げ,その後市内をパレードした。また,市立笠間幼稚園には,九ちゃんが寄付したピアノが今でも現役で使われている。
1985年にレコードレーベルをファンハウスに移籍。再び歌手活動を本格化させようとしていた矢先、同年の1985年8月12日、日航ジャンボ機墜落事故に遭遇、43歳という若さでこの世を去った。このVTRの翌年の事だった。
坂本九は日本航空123便墜事故でこの世を去ってしまったが、それ以前に遭遇した土浦列車事故で損傷の激しい先頭車両に乗っていたらばこの名曲、上を向いて歩こうは存在していなかったかもしれない・・・。 |
次回に続く⇒⇒⇒ |