水戸藩の旧刑場跡  田彦原今鹿島磔刑場





     かねてより調査していた、ひたちなか市の田彦原刑場について

 
 かつてひたちなか市の「田彦原」という場所に存在していたと伝えられている水戸藩の郷牢である田彦原の刑場跡についてですが、この度ようやく、おおよその場所が判明し、この場所にほぼ間違いないであろうと断定いたしましたのでその調査報告といたします。なお、場所など間違いなど何か情報をお持ちでしたらご指摘いただきたいm(_ _)m

 田彦原刑場調査の経緯についてですが、2011年8月にID「N市民」さん、という方から田彦原刑場跡についての情報提供がありました。そのN市民さんによれば、「田彦原(ひたちなか市)についてですが、知り合いの不動産屋との雑談で、6国沿いの日製前 ヤマダ電機の手前の林付近とのうわさです」という事でした。
 この時点で田彦原刑場のおおよその場所を把握する事ができていましたが、情報元が所詮は『噂』という事で信憑性及び説得力に乏しく、記事にするには至らず公開に踏みとどまりました。なにか史料などによる記述を探す事により裏づけする事が必要だと思ったのです。『噂』を掲載したとしても、都市伝説で片付けられてしまうでしょう。
 
 場所は分かったところですが実際本当に存在していたのかどうかという事実の確認について。田彦原刑場について裏づけ調査を行なうべくその田彦原刑場について史料などにに何らかの記述はないかと調べてみました。が、しかし、水戸の赤沼牢屋敷に関しての記述は多くあるものの、田彦原刑場についてはどの史料も触れてはおらず記載もないため、時代が移り変わるとともに忘れ去られていったようであります。

 つい先日茨城県立図書館にて、閉架書庫にある1940年出版の「佐野郷土誌」という、とても古い郷土図書を請求して拝見したところ、ついに田彦原刑場についての記述を発見いたしました。

 その田彦原刑場についての記述はわずか一行のみでしたが、この記述の発見は実に大きい。

 1940年という古い郷土史料に記されている記述はとても有効で、そして、前述の田彦原刑場がヤマダ電機の林付近ににあるという『噂』による情報の裏づけとなる貴重な証拠となるでしょう。当時を知る古い郷土史料がそう語っています。



 史料は禁退出しかも閉架書庫なので外部には持ち出せませんので10円でコピーをいただきました。その佐野村郷土史の記述は以下のようなものです。

 苦労してたったこれだけ(汗)


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佐野郷土誌 / 1940年5月
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 わずか一行のみの記述ですが、これだけあれば十分です。記述がある事が確認できればいいのです。当時を知る古い史料に書いてあれば実際にそこに存在していたという証となり、心強い味方になります。
 この記述により田彦原刑場の場所が明確に判明し、その刑場では磔を行なっていたという事も判明しました。





田彦原刑場跡現地調査




 史料「佐野村郷土史」には田彦原刑場の所在について『大字田彦今鹿島』と記されています。

 まず、地名『大字田彦今鹿島』という場所を探してみましたがそのような地名は見つかりません。それもそのはず。佐野村郷土史が出版された今から72年前の1940年当時は、田彦は現在のひたちなか市ではなく佐野村の一部であったためです。
 現在は『大字田彦今鹿島』という住所は存在おらず、現在の田彦の北端に「今鹿島神社」という今鹿島の名前がある神社がある事からすれば、昔の1940年当時の大字田彦は、現在の稲田まで広がっていたという事になります。(これは恐らく、国道6号の敷設や都市化によりもともとあった大字田彦が分断されたためだと思われる。)
 





 という事で、72年前と現在とではまるで違う、という以上の事を踏まえ現地調査を行ないます。

 情報提供のあった『国道6号沿いの日製前 ヤマダ電機の手前の林付近』へと向かいます。

 歩道橋には『稲田今鹿島』。

 情報提供による情報と、1940年の郷土図書による記述とが見事に一致した。

 間違いなくこのすぐ付近に。確かに、田彦原刑場はある。






  
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 まずは、歩道橋にのぼって全体を広く見渡してそれと思われる林を眺望して探してみることにしました。

 住宅や工場などが入り組んだ雑踏の中。

 刑場跡の林を探すためには周辺の探索が必要かと思った。しかしそれは不要。明らかにそれだと分かる空間を発見が。一発でそれと分かりました。明らかにそこだけおかしい・・・・・






よくご覧いただきたい





 
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 周辺は住宅やマンション、大型店が建ち近代化していく中、そこだけ時間が止まったかのようにぽっかりと空いた空間。この空間こそが田彦原磔刑場の跡だ。

 かつて水戸藩だった時代に磔刑が行なわれていた刑場跡は、依然として手付かずの状態で荒れるに任せる状態であった。

 今度は実際に、磔刑場の跡地である林の中に入って調べてみることにした。

 写真では分かりにくいが、磔刑場跡の林の前に立つと分かる。

 周囲との温度差を感じるのであります・・・・。




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  では、突入して調べてみます








刑場入り口です。ここから刑場跡内部に侵入する事ができます。
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誰かが踏み込んだような跡が。
不自然に笹の枝がところどころ折れていました。
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刑場の内部は思ったよりも意外と広くて、ツタの絡まった幹の太い松?の木がいくつもあります。
樹齢は数百年かというような相当昔からあるような古木です。
水戸藩時代の頃からあったのではないかと思います。
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ツタがびっしりと絡まった古木。
長い年月をかけてこのようになったと思われる。
なんか気味が悪い・・・・
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   地図



<所在地>
ひたちなか市の国道6号線のヤマダ電機とパチンコビックマーチの間の三角の土地の林。(住所はビックマーチが「田彦」、ヤマダ電機は「稲田」になっているのでちょうどその境界線に位置している)





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三角の土地が刑場跡↓↓
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 という事でまたひとつ刑場跡を解明することができた。

 かつてひたちなか田彦原にあったといわれる、磔を行った水戸藩時代刑場跡は現在もひっそりと存在していた。周辺は開発が進むなか、この場所だけは時間が止まったかのようにそのままの状態で残されている。

 すぐそばには国道6号で車がバンバン通るが、一歩刑場内部に踏み込むとそこは別の世界、異様な空気を感じる。

 この刑場がどのような形態であったのか詳しくは分からないが、罪人の処刑や、元治元年に起きた水戸藩の幕末内乱で捕らえられた多くの人を処刑したのだろうか。