吉田境橋行刑場  ~追補~




 既に調査が終了している水戸市元吉田町にある「吉田境橋行刑場」ですが、新たに追記事項があります。

 この刑場跡は既につぶされ更地となっていますが、たまたまこの刑場に関する史料を発見したので引用して掲載します。史料は、大正14年6月1日発行の「川俣茂七郎」という書籍です。






大正時代に出版された書籍「川俣茂七郎」の吉田境橋刑場に関する記述↓↓

 吉田村に至り先生、(川俣茂七郎)の踏査せんと欲す。

 水戸市南端より人力車を雇いて台町を過ぎ、吉田神社薬王院はこの台地上にあり、皆当時の史蹟にして武田耕雲斎が松平頼徳を擁護し、水戸に入らんとして市川勢と戦いし所なり。

 吉田村役場を訪れふ。村長藤咲氏には先生梟首場につき、二・三度調査をわずらわせり、同氏より梟首場の位置を記入せる略図を貰い受け、一直線(下町江戸街道)の街道を南方に走ること一里餘り、殆んど長岡村附近まで進みしも発見することを得ず。
 よって里人に聞きて車を返し、徒歩にて路傍の並木の間を探しつつ吉沢村の南端に至りしに、車夫は一本の小塔婆を草原の中に発見す。余、大いに喜び地図を広げてこれを検するに、吉沢村南端にして松並木の発端東側にあり、道路に接する二畝ばかりの地は、夏草繁茂し、その中に三尺許りの板塔婆は中ば傾きつつ建てり。周囲を見るに北方は雑木の小林、東方は畑なり、この畑には白骨無数の小片無数に散々す。
 当時の御仕置き場なることは疑ふべくもあらず。たまたま村人の畑を耕すにつきて、これを問へば「此の地は天狗様の御仕置場にしてその白骨は即ち梟首後この地に焼き捨てられたものなり。この地白骨を出だすを以て耕作する者なく、近年一部を開墾したるに白骨著しく出でたるを以て、小松を植え付け松林となりつつあり、又道傍のいばらの中に井戸の跡あり。これ斬に処された首をこの井水を以て洗い、然る後に晒首するものなり」といふ。

 先生(川俣茂七郎)の首は当年(元治甲子)九月九日羽衣村民によって水戸に送られ、水戸佐幕党にてその首を此の地に梟すこと3日にして焼捨したり。此の地に焼捨てされたる勤王志士はすこぶる多数にしてしたがって、この草原中に埋没せる遺骨の多量なること推知するに餘りあり。余は此の畑中の白骨に対して感慨無量、あだかも生ける先生に面接するの思ひあり、依て車夫と共に骨片を拾い集めたるに一厘銭二・三個を得たり。
 里人に聞くに「磔または梟首中此の前を通過する旅人は磔には八文、梟首には七文を喜捨するのに慣例して、この銭は皆中夜番人を勤める番太の収入に帰するものなり云々」

 次に里人に頼んで、塔婆を貰い受け他日新しき塔婆を建つるの約束をなせり。この御仕置場、当時の現状に付き、最もよく知れる吉沢村大久保牛太郎氏の詳細なる談話は本編に揚ぐるを以って略す。
 この仕置き場は勤王党のみの処刑場ににして、この他に吉沢村の中央部に佐幕党の処刑場ありて、多くの小塔婆建つるを見る。これ戊辰戦争の佐幕党を処刑せる所なり。この勤王党の御仕置場は勤皇志士の処刑場として史跡保存の方法を講ずべく、且つその骨片は今日なお無縁となりて徒に草奔の中に遺捨されつつあり。これまた、墳塚を築きて遺骨を収集し、永く国民の儀表として記念すべく施設を講ずべきものなりと信ず。
    











この畑には白骨無数に散々す。

この地は天狗様の御仕置場にしてその白骨の小片は即ち梟首後に焼き捨てられたものなり。


この地白骨出だすを以って耕作する者なく、

近年一部を開墾したるに白骨著しく出たるを以って、小松を植え付け松林となりつつあり。

また、道傍のいばらの中に井戸の跡あり。

これ斬に処された首を井水を以って洗い、然る後に梟首するものなり












 この吉田境橋刑場の跡地には「水藩殉難志士忠魂碑」と「贈正五位昌木晴雄碑」という2つの慰霊碑が建立されたようです。しかし、近年、この刑場跡は都市化に伴う取り潰しに遭い、この慰霊碑は別の寺へと移転したようです。以下の写真は、近年まで刑場跡に存在していた慰霊碑2基です。
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 贈正五位昌木晴雄殉難碑
 「昭和6年9月17日、水戸清水正健題額水戸寺門誠選文従六位勲六等住谷金次郎」
 昌木晴雄はこの吉田境橋刑場でハリツケの刑となった。
 











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 水藩殉難殉難志士弔魂碑
 捕らえられた天狗党や尊王攘夷の志士達が処刑され晒し首にされた、また、敦賀投降後斬首された首を晒した場所である。それら死者を弔う碑。











 少々引用が長くなりましたが、それにしてもおぞましい内容です。白骨が散らばっていたとはとても尋常ではありません。この場所に葬られた死者は数十人規模の相当な数があったのではないかと思います。

 そして、水戸市内には幕末頃に天狗党や尊攘の勤王志士を処刑した刑場跡がいくつもあります。それら弔う慰霊碑の建立を実現するも、移転して刑場跡をつぶされてしまうのはちょっと残念な気がします。より近代化、都市化に向かうため不要な土地をつぶして拡大するのは仕方ないとは思いますが、もうちょっとはかなく散っていった志士たちに関心し、気づいてくれればと思います。

 話は変わりますが、今日現在の日本を見ると外交に弱腰が見られます。日本周辺国に対し侵略を許しているのが実情のようです。
 
 かつての「黒船来航」や、迫り来る欧米列強や周辺国に対して全国に警鐘を鳴らした尊攘思想の水戸藩士。彼らは国防に対するとても熱心で国防の必要性やあり方を説き全国各地に遊説を行ったり、巨額を投じて日立市助川に外国船を追い払う大砲を築いてみたり、また、「桜田門外の変」や「天狗党の乱」などでもみられるような、弱腰な政府(幕府)に対して過激な反対行動を起こす時代もありました。

 今日においては北朝鮮の弾道ミサイル発射や、ロシアや中国の艦隊の日本近海通過、北方領土問題や尖閣占領など確実に乗っ取られていく日本領土。つい先日においては、在日中国大使館書記官が日本国内でスパイ活動をしていたというらしい。この状況を見たら彼ら水戸藩士や天狗党の人たちは何を思うでしょう。

 幕末に散っていった水戸藩の志士が現代に生きていたなら国防や日本防衛、日本の巨額借金問題など政治面においても頼もしい存在になっていたかもしれません。皆殺しにしてしまったとはとても惜しい存在です。

 あくまでこれは個人的な意見ですが、危険人物といわれる元航空幕僚長「田母神俊雄」と非常に似て重なる部分があります。 熱心に国防の必要性・あり方を説く姿は、尊攘の水戸藩士と重なって見えます。

 「田母神俊雄」と「尊攘思想の水戸藩士」。どちらも共通して国防に熱い魂や情熱を注いでいるのと、どちらも危険人物です(笑)。 徳川斉昭と対談したら面白いかもしれません、話合うかも。(あくまで個人的な妄想です)










 まとめ

・吉田境橋刑場はおもに天狗党ら尊攘派専用の御仕置場で、数多く天狗党、それに関わる者を捕らえて磔刑に処した

・他の刑場で斬首した首もここにも運び込み梟首、その後焼いて無残に投機した

・天狗党の降伏後、敦賀で処刑された首領格である4人(武田耕雲斉・山国兵部・田丸稲之衛門・藤田小四郎)の首は塩漬けにされ水戸に送られて、この場所その他に梟首した。その時、武田耕雲斉の妻(人見氏48才)・桃丸(9才)・金吾(3歳)・孫の三郎(14歳)・同金四郎(12歳)・同九才らが同時に梟首された

・記事中の史料「川俣茂七郎」が出版された大正11年頃当時頃は、この刑場跡地跡地は草原で二畝ほどの広さ。北方には雑木林、東方は畑が広がっていてその畑には白骨の小片が散々していた。また、首洗いの井戸の跡があった

・記事中の史料「川俣茂七郎」が出版された大正11年頃当時頃は、この刑場跡地跡地は草原で二畝ほどの広さ。北方には雑木林、東方は畑が広がっていてその畑には白骨の小片が散々していた。よって、小松を植えつけた。

・首洗いの井戸の跡があった

・松を植え付け松林のなりつつあり。

・(出版年大正11年頃当時)その骨片はなおも草むらのなかに遺捨されつつあり

・昭和初期頃に刑場跡地に2基の慰霊碑が建てられが、都市化に伴い更地に。慰霊碑は水戸市元山町一丁目神應寺に移転








現在の吉田境橋行刑場跡地(2012年)↓↓
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