しかしいかに罪人とはいえ、晴雨があるとしても、休日無しに働かせるのは身体に無理があり不憫だから、仁恵をもって正月は七日まで、五月句と四月十五日、十六日、十七日、七月の十四、五日は御代々様の御祥忌日だというので一日休日として骨休みをさせた。
 罪人が滞りなく日数だけ刑期を勤め終えると、寄場方から寺社人別の者はその支配者へ、百日の者はその村の庄屋へ、町人は町名主あてに、指紙を当人に持たせて帰宿させ、庄屋、名主に指出させた。庄屋や名主は指紙を受け取っておいて支配役所へ返戻した。
 
 天保十四年三月、町奉行を廃止して市政は郡奉行に移し、別に新たに盗賊改奉行(のちに公事奉行と改む)を置き刑当取り計らいと召捕りもの、即ち刑事一般を取り扱わしめ、郡奉行が担当する人足寄場方と従来、町奉行が担当した赤沼の獄舎も所管せしめた。
 天保九年の行刑新制度数年間実施してみると、家族の困苦を除き、従来の獄制の不備を補い、改過遷全の実効を収めたので、烈公は更に徒罪の範囲を拡大して死刑囚にも及ぼし、軽罪人と等しく恩露に浴しようとした。が、色々と意見が出て実施するには至らなかった。しかし、天保十四年五月、新設の盗賊改奉行より領内追放以下の刑を徒罪に改めたいと建議があったので、烈公は次のとおり実施せしめ、従来の追放刑を全廃してしまった。



<大赦を一命御助><鼻剪><額焼印当>⇒従来は領内を追放していたのを改めて、細谷村寄場に三ヵ年拘禁
  
領内御構追放すべきものを    ⇒徒刑ニ年と改む
五里三郡追放すべきものを    ⇒徒刑ニ十ヶ月
五里ニ郡追放すべきものを    ⇒徒刑十五ヶ月
五里四方追放すべきものを    ⇒徒刑一ヵ年
二里四方追放すべきものを    ⇒徒刑二百日
居村追放、町追放すべきものを  ⇒徒刑百五十日
居村払             ⇒徒刑百日
        ただし徒罪再犯の者は累積加重して一等引上刑当。


 従来大赦により死刑を免れて、水戸領を追放になった者や、鼻剪、額焼印当などの刑を受けて国より他領へ追放になった者の中には愚魯より出でて罪を犯したものが多く、別段、領内に置いても公(徳川斉昭)の考えから、又五里一郡並に二、三郡追放の罪因については、刑期がなかった、一定の期間だけ細谷村の寄場に拘禁して、のちに自由人として釈放することに改めたのである。

 徒刑場で使用する提灯は丸に水に、人足寄場方と記き入れ、徒刑囚に着せる法被は木綿柿色染で、背中に曲一色位の長方形(五十日以下のもの)又は円型(百日以上の者)に白く染め抜き眞中【真ん中】に仮名でトと黒で染め出していた。


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 旧藩時代には牢という語を用いるのが普通で、たまに禁獄ともいった。しかし監獄といいだしたのは、明治維新後で西欧の影響を受けて、プリズンを訳したもの。典獄だとか典獄補などという陰惨な感じを与える文字を使わないで、人足寄場合方などというのは、おだやかな表現で、我国も大正十一年になつて監獄から刑務所とあらためている。
 烈公も幕府の幕府の要人と衝突をして謹慎や隠居を命ぜられなかったら、行刑制度についても、外部との交通許可を考えたり、拘禁方法や戒護や作業教育や休養までも改善実施したかと思う。
明治新政府が出来ると、旧水戸藩細谷徒刑場を引き継いで茨城県監獄細谷本署と称して、専ら受刑者を拘禁した。別に水戸市の旧弘道館内と同市下市の赤沼町の二ヶ所にに支所を置いて檻倉と称し、刑事被告人だけを拘禁し県の警察で管理していた。
 明治十四年になって両監獄を一緒にして北三の丸の検察庁、法務局、税務署のある所に移し、これを上市支所と改称した。ところが明治十五年三月、細谷本署が火災で焼失した。そこで細谷本署を廃止して、上市支所に監房を増設して、ここに刑事被告人も受刑者も共に収容し、茨城県監獄本署と称し、土浦と下妻に支署を置き、県庁の第二部監獄課が所管していた。
 その頃細谷村から東茨城郡上大野村細谷権現台となっていた幕末時代からの徒刑所の敷地八三五五坪をそのまま水戸の監獄本署の附属地として受刑者の農作業場に充てた、明治二十三年十月地方官々制が改正されて茨城監獄所と改称、明治三十六年四月監獄官制ができて、司法省に移管せられ、名称も水戸監獄と改めた。水戸刑務所となったのは大正十一年十月であり、勝田市の市毛に敷地三万二千五百坪を買収して北三の丸から移転したのは昭和十三年であった。




   解説      

こちらの記事を参照↓↓
農村の犯罪と刑罰 ~水戸藩の行刑制度~









 という事で以上見ていただけた通りですが、牢費(衣食費その他)は受刑者の自己負担であります。

 受刑者に支払い能力が無い場合は家族が支払う事になります。
 
 しかし貧困な家族は支払う事ができなかったり、貧苦で家が潰れてしまい一家断絶してしまう事もあったようです。刑期が長引けばそれだけ多くの支払いが必要ですし。

 受刑者本人も家族も支払いができないどうしようもない場合、最終的には藩からの出費で受刑者の衣食費をまかなう事になりますが、ただでさえ財政難である水戸藩の財政を更に圧迫させます。
 
  そこで徳川斉昭はこれまでの行刑制度を見直し、行刑改革を行ないます。

 早速新しい行刑制度を導入された水戸藩細谷徒刑場では、受刑者に作業をやらせ受刑者自身に牢費を自分で稼がせることにより、家族の負担や水戸藩の出費を抑えることが成功しました。これが今までとは違う一番の大きな特徴です。家族は支払わなくて済むし、藩費の節約にもなりました。画期的だったと言えます。

 
 これらを踏まえると水戸藩細谷徒刑場はこれまでの獄舎とは違い、斉昭の徒刑に対する考えやアイディアを盛り込まれ軽罪人への配慮なんかも見て取れ、これまでとは違い赤沼の獄と比べれば明るい感じのこれまでには見ない優良な刑場となったのです。斉昭は積極的に行刑改正をしてみせたのです。さすがに、斉昭案のの死刑囚にも軽罪人同様に恩路に浴しようという案は却下されましたが・・・。人情味あふれる斉昭らしさが出ているが、いやさすがにそれは無謀すぎるでしょ( ̄ー ̄U



 そして、現在、ひたちなか市毛にある水戸刑務所はもともと水戸藩細谷徒刑場の引き継いだ、流れを汲む前身だったのです。これは意外な発見ができました。 (ちなみに、ひたちなか市毛の水戸刑務所の沿岸にもしっかりと「旧水戸藩の徒刑場を引き継ぐ」との記載があります)



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 現在の水戸藩細谷徒刑場跡


 
では、水戸藩細谷徒刑場及び監獄細谷本署は現在のどこら辺に位置していたのでしょう。

場所を精密に特定してみることにしました。

 郷土史本の『水府異聞(1989年発刊)』によれば、那珂川の水戸大橋手前城東5丁目と若宮2丁目にかかる一帯で現在は存在してないが、その細谷徒刑場跡地には、昭和の戦前までは刑務所の農場だったらしい。(茨城県監獄細谷本署、及び水戸監獄附属細谷農場については上の文を参照↑)

では、まず米軍撮影の1946年に撮影された昔の白黒写真を見てみましょう。

赤枠で囲った部分が、水戸藩細谷徒刑場のあった場所です。

この時代には水戸監獄附属細谷刑務所の農場となっています。


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では、次に現在の地図と照らし合わせて見ましょう。

アルファベットのA~Dまでの地点を照らし合わせます。

すると、水戸藩徒刑場及び監獄だったおおよその場所が判明します。

かつて刑場だった場所は、国道6号線により分断される形になっています。

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徒刑場のおおよその場所が判明したところで、なにかそれらしいものは見つからないかと実際に見に行って探索してみることにしました。



歩道橋から水戸藩細谷徒刑場/監獄細谷本署跡を望む
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しかし、徒刑場跡地をぐるりと散策してみたがそれらしい面影のようなものは何ひとつ見つけることはできなかった。

関係無いが、那珂川の堤防沿いには史跡神勢館の碑文が。

なんと、この付近の地図があるではないか。

細谷徒刑場も書いてあるか??

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と、期待してみたが、

神勢館の事については詳しく書かれているが、水戸藩細谷徒刑場の記載については無い。

肝心な要点が抜けてしまっている、徒刑場に関してもちょっとくらい記載があってもいいような・・・。

史跡神勢館の事は知っていても、徒刑場があったのはほとんどの人は知らないだろう。

まあ、徒刑場及び監獄跡地にはこれだけアパートや住宅が密集してるわけだし、逆に無いほうがいいのかな。
自分のマイホームが、監獄の跡地に立地してるなんて知ったらねぇ~(¬з¬)処刑場ではないので全然問題は無いですが。

 という事で、今回の水戸藩刑場調査「水戸藩細谷徒刑場」はそれらしい所は一切見つからずに終わってしまいましたが、まだ水戸藩内外にはいくつもの刑場跡が存在してるようなのでそれら忘れられた埋もれたスポットを発掘して参ります。

 処刑された者の中には無罪の人や天狗党もいるので、まあ、慰霊にでもなればと思いますね。


      ~おわり~