郷土史料「水戸藩の地方支配」行刑制度についての詳細な情報の記載があったので、参考史料として引用します。
↓↓

  <農村の犯罪と刑罰>

  犯人逮捕と刑の確定

 農村では奉行所手代が容疑者をを召還し調べることが多い。軽犯の場合は庄屋宅へ村役人同道召しだす。調べがつかない時は奉行所に連行する。その他奉行所役人が直接役所へ召喚する場合がある。この場合が多い。一日で調べが片付かない時は牢に入れて調べる。この略入牢(拘置)にしても本入牢(実刑)にしても一日の経費は白米五合と決まっていた。この入牢経費は容疑者個人持ちである。被疑者にその支払能力のない場合は、親戚または村負担である。奉行所召喚、入牢は村をあげての事件なわけである。
 入牢に際しては、まず手代・同心があたり、罪科が動かぬものとなると、一件書類を揃えて入牢証文奉行に請求し入牢が確定する。入牢前再度調べが行なわれ、嫌疑が晴れれば、この段階で釈放されるが、情状酌量の余地がないと判断されれば本入牢となる。これを境目として容疑者ではなく刑事被告人となる。

 入牢者の獄中における食料は、自己負担である。これを「牢扶持」とか「牢舎人扶持」「獄扶持」と称し、入牢者は二人扶持(白米一升)の割合で食費を納めた。この場合現物でも金納でもよい。金納の場合はその時の米の値段を金に換算してくれる両替屋があった。
 もし困窮のため納入できない場合は親類が出す。親類で保証しない場合は当人の田畑、山林、屋敷、家財を売ってこれに充てる。もし足りない場合は五人組が支払うことになっていた。それでも足りない場合は村負担となった。大勢の入牢者が出た村は大騒ぎとなる。(これらはあくまで農村の例)

 入牢者は入牢にあっては、牢扶持代として金一分、敷物代として百文を支払い、ゴザ一枚、草履一足、鹿皮百枚、とっくりひとつ、茶碗一個を持参した。
 なお、入獄にあっては郷牢まで村役人が引率したが、到着が夕暮れになった場合は、民家に宿をとって、地元の役人と村役人が寝ずの番で入牢者を監視し、翌朝まで獄舎に繋いだ。村役人の出張費やそれぞれ村持ちであったから罪人の出た村では出費も大変だった。

 
 徳川時代の刑罰

 幕府開設以来の刑罰はすべて前例によって行なわれてきた。八代将軍吉宗の時「御定所百箇条」と称するものができて、おおむね刑罰の基本はこれによっておこなわれてきた。

イメージ 1



<備考>
・藩法、幕府法は相互に申し合わせの形で協定し、各藩とも幕府法に準じて作成するので大きい矛盾はなかった。

・他藩にまたがる罪は、幕臣は幕府方のみ、藩士は他藩で罪を犯した場合は所属の藩法で裁かれる。一方庶民の場合は、甲藩のものが乙藩領内で罪を犯した場合乙藩の適用を受ける。ただし処罰の自由は甲藩に申し送る。惨罪以上の場合は身柄を甲藩に送る。

・当時は科学的捜査などはなかったから、主として傍証と自白で犯罪結果をつくりあげた。農村における百姓の逮捕拘引は一方的で、証拠や承認の立証は必ずしも必要としない。百姓に不審な行動の嫌疑があれば「お尋ねの義あり」として召喚し、「不届きにつき」「不埒につき」として投獄した。申し立てに李があっても釈放せず、役人の面子のみで拘留した。更に「乱心につき押し込め置候」となると酷い。無実でも、最後は吟味の上「時に御用捨御慈悲をもって釈放す。ただし御城下御陣屋付近を徘徊すべからず」のおまけまで付く。そこには人権のひとかけらもなかった。




 水戸藩郷牢について

 水戸藩内三~五区域に分かれて郡奉行所が置かれ、郷村の支配が確立した寛文年間(1660~)より、各地に郷牢が置かれた。水戸下市にあった赤沼牢を初めとし、太田、小川、潮来、馬頭、大子、部垂(現:常陸大宮市)、助川、下手綱に各郷牢が置かれた。
 この郷牢は郡奉行の所管で、「牢守」「牢番人」を置いて管理した。郡奉行所には担当役人があって責任者となった。村役人は罪人の入出牢の立会い、差し入れ、面会にも立ち会った。
 牢守の給与はどうしたか。「常陸太田市」によると、太田村では安政の頃、牢守給として田二石八斗五升一合、畑一石七斗七升七合が役高引とされている。
 部垂、松岡(下手綱)では牢守給として米麦を徴収した。後には金銭納に変わり指銭で一括納めさせた。
 
『続 久慈の清流 水戸藩の地方支配 / 昭和63年9月15日』