以前から、幕末期に天狗党を処刑したという、水戸市の元吉田にある『境橋行刑場』という処刑場については調査していました。。。φ(・ω・ )カキカキ

吉田村境橋行刑場では、幕末期に天狗党の処刑を行い、敦賀で斬首された天狗党首領の武田耕雲斎や藤田小四郎らの首をさらし首にした場所だと伝えられています。境橋行刑場について場所がわからずじまいでしたが・・・。

ついに、元吉田の行刑場跡すなわち、処刑場跡を発見しました!!!

と、その前に、もういちど天狗党の乱についておさらいしましょう。




桜田門外の変から4年後…。天狗党の乱勃発!



さかのぼれば今から約146年前。

桜田門外の変。この歴史的大事件は終わりに見えた。しかし・・・。

それから4年後の元治元年(1864年)。

またしても、水戸藩浪士が日本中を巻き込んだ大きな争乱が起きた。その一大争乱は『天狗党の乱』と言う。

天狗党はおもに水戸藩の下級武士を中心に構成され、天狗の名の由来は『下級武士のクセに天狗になっている。生意気な。』というところからきているとか・・・。

彼ら願いは、「尊王攘夷」の重要性を全国に知らしめる運動をすると同時に、京都にいる一橋慶喜(徳川慶喜)を頼り朝廷に尊王攘夷を訴える事。

徳川慶喜はかつては水戸藩の仲間同士で水戸の尊王攘士らと親睦もあり、桜田門外の変では、共に井伊直弼の通商条約締結に反対した。

天狗と呼ばれた天狗党は藤田小四郎と武田耕雲斉を中心とし、筑波山の筑波神社で挙兵し常陸から西へ向かう。

途中途中で、追ってきた幕府の追討軍や、おもに上級で構成された水戸藩の天狗党追討軍(諸生党)、そして各藩との激しい戦いを繰り広げる。(天狗党の道中の全国各地には戦場跡や、処刑場跡、首塚や同塚などが残る)

天狗党は各地での連戦と、大雪で進軍に疲労しながらもなんとか今庄宿(福井県南越前町)までたどり着く。常陸(茨城)の大子を出てから40日が過ぎたころだった。

新保宿(現:敦賀市新保)に滞在中、思わぬ事を聞いた。

慶喜が朝廷に対して天狗党追討の許可を願い出ているという驚愕な事実だった。 慶喜は朝廷に、「武装した常陸浮浪脱走の徒が大勢して京へ押しかけようとしている、この人数の中に私の実家の家来も混ざっている由、そのような事があっては申し訳ないので、近江まで出張して追討したい」と願い出、朝旨は、「追討」ではなく「鎮静」をすればよい、という考えのようだったようである。

天狗党が頼みとする徳川斉昭の七男の慶喜がこともあろうに浪士勢の追討総督として出陣し、一大包囲網がすぐ近くまで来ているを知り絶望感をいだいた。

だれよりも頼りにしたい、衷情を訴えたいと上洛の目標にしていた主家の縁戚、慶喜。その慶喜様には敵対はできない。

天狗党は、慶喜の指揮する天狗党大包囲網を前に、ついには加賀藩に降伏し武装解除する。




天狗党の厳しい処分。



新保宿で降伏した天狗党の総人数は823人。

幕府は身柄に引き渡され、判決が下るまで肥料のニシンを入れたニシン蔵16棟にそれぞれ50人くらいずつ押込められた。

中は真っ暗闇のうえ、便所は桶を一つ据えただけであり、戸口の手を入れるだけの穴からぬる湯だけの二度の食事ができるだけ。敷物はむろのみ。土蔵の前で衣服を剥ぎ取り、下帯まで物は全て取り上げ、左足に足枷【あしかせ】がはめられた。

とても不衛生な獄舎で、判決を待たずして衰弱や病死した者もいるようである。
(※そのうちのニシン蔵1棟は水戸市が福井県敦賀市から譲ってもらい、水戸の回天神社境内にあり、回天館という名で資料館になっています。)


幕府の判決は「死罪352人、遠島137人、構いなく追放187人、水戸藩渡し130人、永厳寺預け(15歳以下少年)11人、」 という厳しい判決が下った。

福井県敦賀市の来迎寺という所の境内に穴を5箇所掘り、即席の処刑場とし遺体は穴に放りこまれた。

この判決のうち、水戸藩預けとなっている130人の者は、水戸藩に身柄を引き渡され、水戸に護送したのに水戸藩家老の市川三左衛門の手により水戸市内あるいは茨城県内にある処刑場で次々処刑されていったようである。




水戸藩渡しの天狗党、水戸市内の処刑場で次々と処刑される



最終的に敦賀で降伏し水戸に護送されてきた天狗党の人々約130人なのだが、水戸藩家老の市川三左衛門の手により、千束原(調査中だけど場所不明)、赤沼牢屋敷(水戸市東台2丁目)、吉沼磔刑場及び渋井町の土壇場(水戸市吉沼町、渋井町)、そして吉田ヶ原(吉田行刑場と同一か??)、吉田行刑場(処刑場)で次々と処刑されたようである。

このうちのひとつの吉田行刑場がどこにあるのかという事なのだが、情報がとても少なく調査は難航した。

しかしある日水戸市立図書館で別の調べものをしていた時に、たまたま見つけた「吉田の今と昔」という本になんと吉田行刑場の場所を記載した地図があった。





それがこの地図↓↓


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           (参考図書『吉田の今と昔』  著者:吉田地区コミュニティ活動委員会)





明確な場所が分かったところで、早速、元吉田町へ現地調査に出かける。地図を見ながら散策してみるも、しかしそれらしい場所はなく辺りは住宅街が並ぶばかり。

地図でおおよその場所が分かっても、実際に元吉田の行刑場がどこにあるのか詳しい場所までは分からなかった。

処刑場跡は150年が経った今では住宅化してしまい、完全に消滅してしまったのだろうか・・・。処刑場跡に家を建ててしまったのか・・・、色々憶測が頭に浮かんだ。


仕方ない、あれを使おう・・・。


あまり使いたくはなかったが、ゼ○リンの住宅地図セブンイレブンプリントアウトサービスで行刑場の詳細な場所を割り出す事にした。今まで、マイナースポットの捜索に多大な貢献をしてきたゼ○リン。精細な調査で地元民も知らないマイナースポットを記載していたりする。

まさか、マイナー中のマイナースポットが住宅地図に記載されてるわけがないだろうな~、と思いながらも、目的の場所をパソコンで入力し、印刷番号へ控えセブンイレブンへと向かった。

これには300円の資金がかかっている。300円もあればジュースでもアイスでも何でも買える。これで何も写っていなかったら、住宅地図とはいえ自分としてはただの紙くず同然。即ゴミ箱にポイだ。

控えた番号をセブンイレブンの印刷機に入力し、地図がプリントアウトされてきた。

行刑場が記載されているか、いないか。緊張の瞬間・・・。

プリントアウトされてきた住宅地図を見る。。。。。




なんと、その行刑跡はハッキリと記載されていた!!!



まさか処刑場跡なんてのを何も記載してはいないだろうなとは思いながらも、さすがはゼ○リンである。地元民も知らない事を知っているとはあらためて驚きだ。こういった、別に大衆に必要ではなさそうな情報も記載してくれるのはとてもありがたい。

では、参考文献である『吉田の今と昔』とゼ○リンの住宅地図を照らし合わせながら、元吉田にある行刑場についての詳しい場所を割り出す。

すると以下のようになった。↓↓
(※赤丸で囲んである墓地の記号が記載されている場所が、境橋行刑場跡になります)





                                          ↓↓(クリックで等倍に拡大します。)
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境橋行刑場の現地調査へ




詳細な場所が判明したところで、早速、現地調査にやってきた。

廃店舗と住宅の間には雑木林があり、そこだけがぽっかりと空いた荒地があった。

天狗党の乱、あれから150年の月日が流れ周辺は住宅化が急速に進んだものの、この区画だけは何も手付かずの状態で放置されているようだ。





境橋行刑場全景↓↓                      (あ。右の車は自分の車ね(笑) 写ってもうた…)
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右の店舗は廃業してしまったのか、使用している感じはなく、ボロボロに果てている。

やはりここは処刑場跡。

自分の勝手な思い違いかもしれないが、この土地は大凶で、ここでは何をやっても全てが失敗する。民家や店舗など建てるべき所ではない。中国から伝わる占いで風水占いというのがあるが、風水では処刑場跡や三角の土地、墓地が家のすぐ前にある等というのは大凶中の大凶。なにをやってもうまくいかず、気が衰弱したり短命だったりするそうだ。

なんの根拠も無い占い話はさておき、この潰れた店舗はそう暗示しているかのようだ。







さき程の廃店舗の後ろ側から撮影。左の大きな杉の木は昔からあるかなり古い古木です。なんかとても気になります。この古木も何か関係があるのでしょうか・・・。
そして、写真に写っている重機の横にあるのは埋設する土管なのですが、何かの建物を取壊しした跡があり、ガレキの山ができていました。
↓↓
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では、行刑場の敷地内に突入します。。。。。

雑木林の内部へ




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行刑場敷地内部には特に目立ったものは何もありませんが、奥の方に門のようなものがあり、ブロック塀で土地が区切られています。しかし既に建物の姿はありません。




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普通に写真を撮ってると思いでしょうが、この山林はとても不気味で薄気味悪い感じがします。なにやらガサガサ音がするし、早く撮影を終了させて抜け出たい気分です。さすが大凶の土地だけあります。

ここでは幕末期に天狗党の処刑執行が連日のように行われた場所であり、天狗党首領の首を晒し首にした因縁ある土地と聞きます。地面にはその鮮血が地中深くに染み込んでいる事でしょう・・・。

想像するだけで鳥肌が立ちます・・・。










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↑※イメージ図  







このすぐ側は県道が通り、交通量が多く、数多くの車が通過していきます。

この場所において、敦賀で処刑された天狗党首領の藤田小四郎・武田耕雲斎・山国兵部・田丸稲之衛門たち、塩漬けにされた首がさらされました。

この街道を通る人はどのような思いで、この晒し首を見ていたのでしょうか。

果たして彼らは本当に悪者だったのでしょうか・・・。




どうやらブログの最大5000文字を超えてしまったようです。続きはまたあとで。


つづく・・・




参考文献:『写真紀行 天狗党追録』、『吉田の今と昔』 『ゼ○リン』