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                注※この記事には暴力的なシーンが含まれています

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普段何気なく使っている『土壇場』という言葉があります。

〔土壇場で逆転する。土壇場に立たされる。土壇場でキャンセル、ドタキャン〕など。

ここで、土壇場という言葉を辞書でひいてみましょう。





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普段使っている土壇場という言葉はこの〔最後のギリギリの場面〕や、進退極まる状態を意味して使われる事がほとんどです。

しかし、本当の意味の『土壇場』の言葉の意味はもっと別なところにあります。

その本当の『土壇場』という言葉の意味を知る人はほとんどいません。

本当の『土壇場』とは、いわば〔斬首刑の刑場〕を意味しています。

江戸時代では、斬罪の刑を執行するときに土を盛って築いた壇の上に罪人を横たわらせていました。

すなわち本当の意味の 『土壇場』 とは 斬罪の刑場 の事で、江戸時代の斬罪の刑場における、 斬罪を執行するため土を盛って築いた壇の事 を言います。また、土壇場では刑死体の試し斬りも行われていたようです。






徳川幕府刑事図譜 <49 御様の図>
土を70センチ余り高く盛った土壇場の上に刑死体を置き、試し斬りをしている図 ↓↓
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もともと斬罪の処刑場を意味して使われていた『土壇場』ですが、〔処刑場〕の意味がいつしか転じ,どうにもならない場面や最後のギリギリの場面を『土壇場』と意味して使われるようになったと言われています。

今回は、水戸市にある土壇場について話をすすめていこうと思います。







土壇場と地獄橋




 今回やってきたのは、水戸市渋井町の『渋井町緑地公園』という所です。

 見ての通り、なんの変哲もないただの公園です。。。。




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  すぐ側には、鹿島臨海鉄道東水戸駅が。

  とても静かな、のどかな所です。






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しかし、そんなのどかなところにある見た目は普通の公園ですが・・・

この石碑の裏にはこの公園について案内が書かれていますがそれを読むと、この公園が普通ではない事が分かります。




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 肝心な所は後半に書かれている部分。

 幕末に遺骸が運ばれ、埋葬されたと書いてあります。

 赤沼牢屋敷で大量に処刑された首無しの遺体が運び込まれた先がココ渋井町緑地公園で、そしてそれら無造作に遺棄された忌まわしき土地なのであります。
 
 ここで、『水府異聞』という本を引用しよう。。。。。

 驚くべき事が書かれている。









   処刑者を埋葬していた吉沼のこの地は土壇場と呼ばれていた。

   大正の末、上大野村尋常高等小学校に通っていた照山さんは学校から帰ると、新川でフナ釣りをやった。

   面白いように釣れたのが冥加淀。

   そこでたまたま見たのである。 

   ちょうど冥加淀の水勢で侵食され、白骨化した遺体が出てきた。

   照山さんはびっくりして、父(末吉=昭和24年 没72歳)に話したところ埋葬場の故事来歴を聞かされた。






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   昭和18年ごろ、食料事情が窮迫。

   増産、増産の掛声で、それまで手をつけなかった『土壇場』も水田にした。

   ところが、そこでとれた米をたべた者が、そろって病気になった。

   さては祟りかと、田んぼを元に復し供養の木碑を建てた。

昭和2年に刊行された東茨城郡誌下巻の旧蹟の項にこう記されている。↓↓







徳川時代

罪人の死者、および無籍の死者を葬りし所にて

葬り方が粗末なる故

時々露出し、犬の引きズリ出す等の事あり

見る者戦慄して、地獄橋と名づくに至る。

明治維新後は橋の位置も変え、渋井、吉沼間に架せしを以って境橋と称するに至れり









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                              ↑↑明治維新後まで地獄橋と呼ばれていた境橋。(さかえはし)






 

 つまり徳川時代に斬首した死体を粗末に土をかぶせただけの粗末な埋葬の仕方だったので、それをお腹をすかせたノラ犬がモグモグと食べていたという事であります…

 無造作に積み重なる赤沼牢から運び込まれた首の無い死体、人間の死体をむさぼるノラ犬。悪臭も立ち込め、この世の地獄だったと当時の資料は伝えています。

 もしかすると、地面の底に掘り出されない首無しの遺体がまだ眠っているかも分かりません・・・







吉沼 磔処刑場跡


 埋葬場である土壇場から、境橋を渡ると吉沼町になります。

吉沼の地名の由来は、稲科の植物、{葦(読:ヨシ・アシ)} が生えた湿地帯だったのでそう呼ばれたのではないかという。
 
 周囲は見渡す限りの田んぼが広がっていますが、 しかしそのうち一区画だけ、ヤブが生い茂り放置され、ゴミは投棄され、荒れ放題になってる土地があります。

 


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反対側から↓↓
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 やはりここも同じく、幕末期に磔(ハリツケ)という残酷な手法で処刑が行われた、処刑場があった場所です。

 ここで処刑された遺体も、対岸の土壇場へと葬られたようです。

 その残虐な手法で処刑するハリツケの様子は『徳川幕府刑事図譜』にあります。

 赤沼牢屋敷で行われた処刑は主に斬首刑でしたが、この吉沼磔刑場で行われた処刑法は更に残虐さを極める、次のようなものでした。↓









徳川幕府刑事図譜 52『磔刑の図』
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徳川幕府刑事図譜 53『磔刑取片付の図』
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残念な事に、不法投棄されたゴミが目立ちます。

いたるところにゴミだらけ。

かつて磔が行われた処刑場の面影はなく、ゴミ捨て場と化しています。

戦後、耕地整理などもあって次々と所有者が変わり、かつて磔の行われていた場所は土砂が埋められ荒れるがまま放置されているようです。






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(なんだこれ↓)
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現在ハリツケ場は土砂で埋められ、周囲よりも不自然に高く盛られています。
まるで何かを封印するため、土砂で埋めたかのよう。

ここは特に異様な感じがしたので、さすがに立ち入るのはやめました。

↓↓
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(首洗いの池との噂がある窪み↓)
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地図



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これまで、水戸藩赤沼牢屋敷から、斬首された首無遺体の跡を辿って参りました。

道中の途中には、赤沼で斬首された遺体を慰霊する無数の首無し地蔵というのもあり、これら首無し遺体が最終的に首無しの行き着く場所は渋井町の土壇場であることが分かりました。そして、川の向こう岸の荒地ではハリツケによる処刑が。

しかし残念な事にゴミが投げ捨てられひどい状態でした。恐らくここがどういう所なのかを知らないでポイ捨てしているのだと思われます。

水戸の幕末争乱に大量に処刑されここで処刑・遺棄された人がすべて悪い人というわけではなかった事でしょう。何の罪もない人が斬られ、粗末に遺棄されていると聞きます。

その無念の人達のためにも、この土壇場と 荒れ放題の吉沼磔刑跡が少しでも広く知れ渡ればと思います。

以上で、赤沼牢屋敷から首無しの跡をたどってきたお話はこれで終わりにします。



~おわり~