茨城の戦争遺跡  ―海軍特攻艇「震洋」平潟基地―



茨城の最北端、北茨城市平潟には旧日本海軍の平潟基地があります。

『茨城の戦争遺跡』という本を見たら洞窟の写真が載っていて、なかなか面白そうなので実際に見に行ってみる事にしました( ̄▽ ̄)ノ

この基地は『震洋』という神風特攻隊の水上ボート形バージョンみたいなもの?の秘密基地の跡らしく今でも現存しているようです。
 
なんと、戦時中はボートに爆弾を積んで自らの命と引き換えに敵に体当たりして自爆していたようです。実戦では部隊ごと全滅することが多かったとか…(´゚A゚`)

なんという命を粗末にした無謀な作戦であろうか。そのままどっか逃げちゃえばいいのに~(´ヘ`;)







これが震洋 平潟基地
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崖に大きな口が開き洞窟のようになっています。

この反対側もこのような洞窟になっていたので、つながってトンネルになっているのかもしれません。

基地に侵入しようと試みましたが落石防護網が張り巡らされていて中に入ることができません。
内部がどうなってるか見てみたかったですが残念です( ̄ー ̄U






網の隙間から撮影↓↓
内部は奥が深く、真っ暗です。
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この基地の詳細については、参考本の『茨城県の戦争遺跡』に詳しく書かれているので引用したいと思います。


〈震洋と平潟基地〉

 秘匿名称「マルヨン」とよばれた海軍特攻艇「震洋」は、アジア太平洋戦争末期に、旧日本海軍が本土決戦に備え極秘に開発した水上特攻用ボートである。ベニア板製、124馬力の自動車エンジンを積んだ全長6,5メートルの小型ボートで、艇首に250キロの炸薬を搭載。1人乗り乗り用の1型と2人乗り用の5型があった。
 時速60キロで海上を疾走し、敵の揚陸部隊が上陸点に侵入する前後に、艦船に体当たり攻撃するものである。日本本土の太平洋側・沖縄・台湾・朝鮮・フィリピンなどに146部隊が設置され、約6200隻の震洋艇が生産された。



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〈現在の状況〉 平潟基地の存在があきらかになったのは、戦後50年を経過した1999年。それまでは、北に15キロの小名浜基地が第138震洋隊・第141震洋隊の部隊基地が小名浜基地から平潟基地に移動したという事実が明らかになった。  第141震洋隊は、戦争末期の1945年6月25日に小名浜基地で編成され、7月下旬以降に平潟基地にその部隊基地が移された。  隊員は搭乗員50人を含む173人。敗戦間際であったため実際に出撃した事はなく、同年9月20日に解散している。このためか、敗戦の翌日、1人の隊員が猛スピードで震洋艇を乗り回し、ついに沈没してしまったという逸話も残されている。



1人の隊員が猛スピードで乗り回し沈没したってどれだけヤンチャなんだ・・・

皮肉にも、敗戦が隊員たちの命を救い、出撃せずに済んで命拾いしたようです。

現在、この震洋平潟基地の入り口は廃材が無造作に散らばっていて、まるでゴミ置き場と化しているので、ちょっと片付けして案内板でも建ててこんな身近なところに戦争遺跡がある事に気づいて欲しいと思います( ̄∇ ̄U)







所在地⇒茨城県北茨城市平潟町

地図
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参考書籍↓↓
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フィールドワーク 茨城の戦争遺跡
編者:伊藤純郎(つくば大学大学院人文社会科学研究科教授)
2008年10月15日第一版第一刷発行
定価(本体700円+税)