これまでのあらすじ






 
今回の『水戸の歴史』シリーズは、渋井町の『首無し地蔵尊』についてです。

前回に引き続き暗い残酷な内容です。

水戸市渋井町には無数の首無し地蔵がありますがこれらを調査したいと思います!

とその前に、赤沼牢屋敷について調べを進めているとまた赤沼牢屋敷に関する新たな事を発見いたしましたので、赤沼牢屋敷についての追加の情報を載せたいと思います。

『城東歴史散歩』という本から。

赤沼牢屋敷に関する事が書かれていました。



以下の内容が赤沼牢に関する追加の情報です
   赤沼牢屋敷

 赤沼牢屋敷の内部についてはほとんど記録が残っていないが、『水戸藩世相』では、江戸伝馬町の牢屋敷から類推して、まず張番所の前を通っていくと左右に出入り口が4つあった。
 
 揚がり屋は旗本以上の高級武士を入れる舎牢で揚り屋は士分と僧侶の入る舎牢となっていた。百姓や町人の入る舎牢は大牢、女性の入る舎牢を女牢といい、部屋とも呼ばれていたという。

 赤沼の獄の表門を入ると、すぐそばに仕置き申し渡し所があった。藩主から仕置き申し渡し状が出されると、即日執行されたという。
 
 この仕置き申し渡し所のそばに士分の切腹場所と斬罪や死罪にする首切り場が設けられていた。更に、その近くに血洗い井戸があり、それらが舎牢の入り口になっていたそうである。

 なお、水戸藩の牢屋は、水戸は赤沼であるが、郷牢として小川、潮来、馬頭、大子、部垂、太田、助川、下手綱の各地にあった。
 また、火あぶり、磔、獄門などの刑場も天和元年の制では、田彦原、後台入合野、長岡原、台渡走付の四ヶ所が指定されている。
 
 幕末になると水戸城下の各所に刑場が設けられて死刑が行われたようである。

 









渋井町の首無し地蔵



 はい、では本編です( ̄▽ ̄)ノ

幕末期にはこの赤沼牢屋敷では連日のように天狗党の家族や関係者などの処刑が行われ、その数は300人を超える斬首が行われました。

 赤沼牢屋敷で斬首された首の無い遺体はある場所へ運ばれていきますが。。。。。


 その道の途中には『首無し地蔵尊』というのがあります。その名の通り、これらのお地蔵様にはすべて首がありません。

 今回、実際にその『首無し地蔵尊』を現地に行って見てきましたがどんよりとした空気につつまれ、とても異様なオーラを放っています。 

 しかし、なぜ首がない地蔵をつくったのでしょうか…  

 水戸市渋井町の首無無し地蔵の由来について調べを進めていると、『水戸 しぶい』という本にこの首無し地蔵について詳しく書かれていました。

 まずはその首無し地蔵の詳細ついて、この本を見てみましょう。


↓↓↓


以下全文

 首無地蔵尊

 渋井町は、昔一時首無村と称した時期があったようだが『地名辞典』には一語の記述もないところをみると、ただの言い伝えなのだろう。ただ、渋井町に接する吉沼町内には、小字名で「頭無」の地名が、また渋井町にも、地番の600~650番の、吉沼の「頭無」に地続きで接する地域に、小字名で「首なし」の地名が残されているほか、この地域の端にある弁財天の南側の小さなお堂に首無地蔵が現存している。






イメージ 1





 
 ところで地元には昔から、この地蔵さんについて言い伝えがある。
 江戸時代に近くの赤沼に260年間置かれていた牢屋敷の刑場があり、斬首された遺体がカラ俵に詰められて頭無し通りを運ばれている姿を、折々そっと遠目に見送っていた農民たちが、「悪いことをした人ばかりではなかったはずだろう、せめてもの慰霊に」と、お上の目をはばかるように、正暦寺の墓地(渋井町にあった共同墓地)の奥にお地蔵様を建てた。
 
 時に幕末の水戸藩内の争乱により、赤沼牢で処刑された多くの貴い命の数は300を越え、その中には、武田耕雲斎の妻とその子らも含まれている。この赤沼には供用の碑が建立され、今もって昔を偲んでこの地を訪れ、祖霊を供養する人が後を絶えない。

 渋井では昭和48年、鉄道建設に伴う地蔵堂や墓地の移動が行われ、縮小されて現在の所に大小十数体の首無し地蔵が、町内の心ある人が建立した堂の中に安置され、渋井町の優しい信仰心のある人々によって受け継がれ、大切にされている。

    

上にある通り首が無い地蔵は、なんとカラ俵に詰められた赤沼牢で斬首された首の無い遺体を慰霊しているそうです!

どうやら、この首無し地蔵も天狗党との関係がありそうな気がします。

天狗党ぬきにして首無し地蔵は語れないので、ちょっとかんたんに天狗党の歴史をさかのぼってみましょう

269ページもある本を参考にできるだけ短文に簡単にまとめます(汗)






 < 天狗党の悲劇 >



今から約146年前。水戸では大きな内乱がありました。

尊王攘夷派で結成された水戸藩士・藤田小四郎と武田耕雲斎をリーダーとする天狗党と、佐幕派の水戸藩家老の市川三左衛門率いる天狗党追討軍及び幕府軍とが激しい戦闘になります。

水戸城下や弘道館も戦場に。

 天狗党は慶喜に尊皇攘夷を訴えるべく京都を目指します。
天狗党は不要な戦闘は避けこちらから戦いを仕掛ける事はなく、途中よその各藩を通らねばなりませんが交渉や話し合いなどで各藩を通らせてもらったり宿を提供してもらっていたようです。
 がしかし、天狗党の一部の人で、金品強奪したり火を放ったり暴走する荒くれがいたそうで悪党との誤解を受け、幕府は全国の各藩に天狗党の追討令を出します。

 天狗党は最終的に幕府軍に包囲され、天狗党追討軍の総監を指揮していたのが頼りにしていた徳川慶喜だと知り絶望します。
そして加賀藩との話し合いの結果天狗党の出した答えは「追討総監の一橋卿に弓を引き、恩義を感じる加賀藩に敵対行為を取る事は忍び難し」と言い降伏を決定します。

 しかし圧遇された加賀藩の態度とは一変し、降伏した天狗党はニシン倉にへと閉じ込められ幕府へと身柄を移送されます。
 そのあと、賛否両論あったようですが天狗党の処分は『死罪352人、遠島137人、構いなく追放(?)187人、水戸渡し130人、永厳寺預け(15才以下)11人』という歴史史上類を見ない厳しい残刑が決定されました。 
 幕府のこの判断を勝海舟は「多数有為の士をして一惨渦に陥らしめ、降伏の後も酷刑に失し、これがため志士一層憤慨の心を激動し…」と幕府の処置を批判しています。

 天狗党の処刑は次々と執行されましたが天狗党リーダー藤田小四郎は享年24才でした。





イメージ 11









 
 この本には、更に追い討ちをかけるように市川三左衛門の赤沼牢での一族皆殺しとか、その遺体を長野原に野捨てしたとか色々残酷な事が続いていますがあまりにも酷い内容なのでここら辺にします( ̄□ ̄lll)
 
 話が戻りますが、赤沼牢での処刑者は『水戸藩死事録で300人を越えると言われている』ので毎日のように首無しの遺体が詰められたカラ俵が行列をなして、ここを通っていったのでしょう。
 それを見た農民がそっと遠目に「(天狗党に)悪い事をした人ばかりではなかったろう。せめてもの慰霊に」と首無し地蔵を建立したという事でしょうか・・・

今度は実際に首無し地蔵をご覧いただこうと思います。




地図↓↓
イメージ 2











地図には頭無しが・・・






イメージ 3








 鹿島臨海鉄道の建設で移転された正暦寺の共同墓地とその敷地内にあった首無し地蔵は現在の狭い三角おの敷地へと集められ移転されています。
 
 もともとはこの付近の農民の心ある有志たちが建立した首無し地蔵ですが鹿島臨海鉄道でその存在が危ぶまれるも、またしても地元の有志によりお堂が建てられ大事に保存されているようです。



イメージ 4




イメージ 5













  この中に首無し地蔵が・・・








イメージ 6
















イメージ 7


 格子を覗くとお地蔵様がありますが、これらすべてのお地蔵様にはなんとすべて頭がありません!!!!(゚ロ゚ノ)ノ
 移転で一ヶ所に集められたたくさんの首無し地蔵が! とても不思議な異様な光景です。
 
 この他にも、このお堂の横に首無し地蔵がありました。






写真中央首無し地蔵と、移転で集められた無縁の墓
↓↓
イメージ 8










こちらは千波町の千波原にあった首無し地蔵。これも何か関係があるのだろうか・・・
イメージ 9














 渋井町の首無し地蔵やその由来について知る人はほとんどいませんが、水戸の暗黒史とそれにまつわるこのような場所があったという事で、少しでも知れ渡れればと思います・・・ (-д-;)

会津若松の白虎隊の悲劇? 飯盛山?

いや、水戸の方がはるかに凄まじい規模であるのは確かだ…( ̄ー ̄;

 





 この話にはまだ続きがあります。

首無しの遺体は最終的にたどり着いた場所は土壇場と呼ばれ、ここに野捨てされてしまいます。

 見るものを戦慄させるほどの目を覆いたくなる地獄のような光景広がっていたそうです∑(O_O;)

 そしてそこには『吉沼境橋刑場』というところがあります。

ここでも天狗党の処刑が行われ首領の藤田小四郎・武田耕雲斎・山国兵部・田丸稲之衛門・山国兵部がさらし首にされました。

次回は『死者を葬りし土壇場』と『吉沼境橋刑場』を載せてみようと思いますので楽しみにしていてください(⌒_⌒;





つづく・・・







 
イメージ 10