さて、突然ですがしつもんですw

あなたはどこの県の出身ですか?

その中で水戸出身だという方へ。

うちは先祖代々、昔から水戸に住んでいる水戸出身だという方、本当に先祖代々水戸出身であると言えますか!?

もしかするとお爺さんの代に県外から移り住んだ県外人であるかも知れません!水戸人ではないかも知れません!!




水戸市民の半分は他県人か他県人の第二世!?


 幕末の水戸では内乱が起き、水戸藩は水戸天狗党と水戸藩諸生党に分裂し、互いに殺し合い水戸は自滅していきました。

 当時の、明治大正の水戸の様子を今に伝える『明治大正の水戸を行く』という水戸を記録した本に、当時の記録を今に伝えるこのような記述があります。

 文久、元治、慶応の七年間の水戸は、斬ったり斬られたり、血なまぐさい風が吹きまくった。
 明治元年十月、市川三左衛門の指揮する諸生勢と、水戸城を守備する藩兵との間に戦闘が開始され、弘道館の建物の半分以上は戦災によって消失した。
 前年大政を奉還した一橋慶喜(徳川慶喜)が江戸から下って、しばらく謹慎していた至善堂(弘道館の藩主の休息所で諸公子の勉学所)だけ焼け残って現存しているのは拾い物である。
 このせまい水戸の城下町にしても百年足らずの間に外観から内容まで一変してしまって、市中を歩いてみても弘道館、偕楽園その他二、三の史跡をのぞいたら、水戸らしいところはどこにも見られなくなった。
 第一に生枠(きっすい)の水戸人がぐんと減って、今の5割までが他県人か、他県人の第二世であるのだから、300年間天下の副将軍で鳴らした水戸藩の気風や慣習など、とっくにどこかへ消し飛んでしまったかたちだ。
 

 文中の「今の5割までが他県人」というのは、この本が出版された年が昭和34年で今から約49年前の話で水戸が合併する前の事だから、現在の水戸市は近隣市町村との合併で面積が大きくなり人口が増えたので、この文中が言う『水戸』とは、かつて水戸城のあった水戸の中心部・水戸市街地に限定しての事であるが、明治大正期の水戸市街地での寂れ(『泉町物語』によればトタンで張っただけの粗末な商店が数件並ぶ程度だったという)、水戸城等の文化財の消失・古来の水戸の有能な人材の消失(みんな赤沼牢等の刑場で処刑してしまった)、水戸出身の5割がよそから来た者という悲惨な結果に終わり、最後には結局何も残らなかったε-(´・`)・・・



資料 

昭和7年の水戸市の地図↓↓ (※サイズめちゃ重いです。)
http://proxy.f3.ymdb.yahoofs.jp/users/46553f14_88bf/bc/62ce/__hr_/9863.jpg?bclRYCJBP2HlWBct





現在の水戸市街。
千波湖から市街地を望む↓

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さて・・・
次回の水戸の歴史シリーズは、天狗党の乱をはじめとする、最終的に降伏し捕らえられ処刑された水戸藩の偉人達、水戸の先人達がうけたひどい仕打ちを書いてみようかと思います。

赤沼牢獄舎内の惨劇、吉田村境橋刑場、渋井町の地名頭無し、鹿島臨海鉄道高架下の首無し地蔵の由来とは!?