泉神社の由来
『常陸国風土記』から
いわゆる高市、ここから東北二里のところに密筑(みつき)の里がある。村の中に浄らかな泉がある。土地の人は大井という。夏は冷たく冬は温かく、湧き流れて川を成している。遠近の郷里の人々は、酒肴を持参して、男も女もつどい集まり、休んで遊び、飲み楽しむ。その東南とは海浜に望み、(石決明(あわび)・棘甲贏(けうに)・魚・貝等の類がはなはだ多い。)、西と北とは山野をひかえている。(椎・櫟・榧・栗が生え、鹿・猪が住んでいる)。すべての海山の珍味については、全部書きつくすことはできない。(『風土記』から)
・・・まったく意味が分かりません (∵?
写真1枚目⇒泉神社の参道
写真2枚目⇒看板です 見りゃわかるって??
写真3枚目⇒この泉神社の御神木のようです。今にも死にそうです
写真4枚目⇒ある日、雷に撃たれてやられた と書いてあります
写真5枚目⇒泉神社です
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崇神天皇の御字四十九年、久自国造、船瀬宿禰の奉請で、大臣伊香色雄命勅命を奉じて此に鎮祭りしたと伝ふ。古くは天速玉姫命神社と云ふ。祭神天速玉姫命は天棚機姫命の女で、天太玉命の后神、天比理刀咩命とも云ふ。常陸風土記に蜜筑里の大井の、又常陸二十八社号に泉川、霊玉を以て神体とすとあり。霊妙なる浄泉が湧き神域を泉ケ森、泉山流れを泉川と呼ぶ。三代実録「貞観八年五月二十七日庚午常陸国正六位上天之速玉神に従五位下を授く、十六年十二月二十九日癸未従五位下天之速玉神に従五位上を授く」延喜式内小社、久慈郡七座の一、享禄三年九月佐竹義篤社殿造営、社号を泉大明神と云ふ。この時青山次郎延久神馬を奉ぐ。(棟札)
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つまりどういう事ですか? (>△<)
写真6枚目⇒何を祭っているのでしょうか? ↓↓下記参照
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天速玉姫命(あまのはやたまひめのみこと)
近郷近在の方々に信仰され、商工繁盛、交通安全、家内安全、延命招福、五穀豊穣、海上安全、大漁満足、縁結び、安産等の祈願所とされている。
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写真7枚目⇒泉が森の、天然の水が湧き出る泉です。お金とか卵とか異物が水没しています。
写真8枚目⇒水がとても透き通っていて、『ぼこぼこぼこ』と果てしなく水が湧き出てきます
写真9枚目⇒なんとか神社です。漢字読めません( ´д`)誰か通訳してください
写真10枚目⇒でました。慰霊碑です。無縁仏です!!ギャ━━━━━━Σヾ(゚Д゚)ノ━━━━━━ !!!!
でも心配はご無用!なんて言ったってここは神社の敷地内なんですから
神社は結界が張ってあるような事を聞いた事があるし、すでにお払い済みでしょう
ちかづいても大丈夫でしょう。
それにしても何の霊を鎮めているのでしょうか??
後に調べた結果、日露戦争と、大東亜戦争(?)の戦没者 13名の魂を鎮魂する慰霊碑であることが分かりました。
もともとは、太平洋沿いの丘陵上坂上小学校という所の西南端にあった戦没者の墓なのですが、終戦とともに廃棄され20年間も放置されていました。
しかし、この殉職した方の霊を弔おうとする人々が集まり『戦没者慰霊塔建立委員会』が結成されました。
そして、500万円を超える募金が集まり見事に慰霊塔建立の実現が叶いました(^-^)メデタシメデタシ
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我らは之ら戦没者の最期の叫び悲願を想いその遺族の人々の心境を察し現在の平和な日本に安住し,今後の世界平和を念ずる者としては,其の礎石となった忠魂に対し心から感謝の誠を捧げ,其の霊を慰めることは当然の務めと思い此の塔を建て以て後世に残す所以である
昭和四十六年三月吉日
丹 規矩 撰文
佐藤 丈助 謹書
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