松浦勝人の起業史

僕は大学三年生の四月に運よく近所の貸しレコード屋「友&愛 港南台店」にバイトを見つけた。

当時、レンタル屋さんのバイトはなかなかなかったのだ。

お店もオープンしたばかりで、バイトの人数も午前のパートのおばさんを入れて全部で四人、

それもバイトは全員同じ高校の同級生という願ったりかなったりの環境だった。

とにかく僕は、自分の好きなダンスミュージックが好きなだけ聞ける、

それも仕入れは全部自分が担当できるという特権に大満足で、

それまでいくつも掛け持ちしていたバイトを辞め、時給などまったく気にせずにこの店のバイト一本に絞った。



しかし、店の売り上げが思わしくなく、このままでは店の先行きも不安という状況の中、

何とかこの店の売り上げを上げなければお店がつぶれてしまう=好きなダンスミュージックを好きなだけ

買うことが出来なくなるという苦境に立たされることになる。バイトを始めて3ヶ月位の時だった。


おかしなもので、すべてのバイトを辞め、このお店に集中していたせいか、お店にも愛着がわいてきている。

そしてなにより、ますます、ダンスミュージックに、はまってきていた僕は

何が何でもこのお店の売り上げをどうにかしなければという不思議な衝動にかられるようになる。

もちろん小さなお店とはいえ、一つの店の経営などしたこともない。

それまでの僕にしたことがあるバイトは親父の会社の中古車販売の手伝いか、車掃除、

それに新橋と横浜でやっていた無愛想なウエイター、横浜高島屋のお中元、お歳暮の配送、

それに大工の友達がいたのでそこでの肉体労働くらいだった。

それがいきなり、バイト先とはいえ貸しレコード屋の経営全般(当時はそういう意識はなかったが今思えば経営だ)を

任されるようになってしまったのだから無茶苦茶と言えば無茶苦茶だ。

まぁオーナー自らが僕らに「好きにしていいよ」と言ってしまうくらい経営に困っていたというのが事実だが。


オーナーに任されてから、僕と同じ高校からの三人での悪戦苦闘が始まった。

とにかくまず第一の目標はちょうど線路の反対側にある競合店のレンタルレコード店に勝つことだ。

何せシェアはおそらく8:2位で負けていただろう。敵を攻めるには敵を知るということで

様々な方法でマーケティングを試みた。

とはいっても当時は自分達のやっていることがマーケティングといわれるものだなんてことも知らずに、

相手の店をのぞきに行って、店の前に一日中立って来客数を数えたり、

新譜が入荷するとその枚数とそれがなくなるまでの時間や来客数を数えたり、

素人ながらに相手の店の分析を行い、自分達の店の弱点を見つけては克服していった。


そして、土日や連休を選び様々なキャンペーンを店頭で実施し、11月頭の連休にはお店は人でごったがえすまでになった。

まぁ、こんな経緯で僕は、単にダンスミュージック好きのバイトから知らず知らずのうちにお店の経営を実践の中、

独自に習得していった。

年末を迎える頃には大学三年生のバイトでありながら、オーナーの好意で店の売り上げの7%を自分のバイト代としてもらい、

店長の肩書きをもらい、名刺まで持っていた。

売り上げを上げれば上げるほど自分の給料も増える。

今思えばまさにこれはインセンティブというもの以外の何ものでもなかったのだろう。

もちろん当時はそんな言葉も知りはしなかったが。年が明けた頃(大学3年の正月、21歳の時)、

オーナーからじきじきに話をいただいた。


オーナーいわく、単なるバイトだった僕と50対50の出資で新しい会社を作って一緒に経営しないかというものだった。


通常のオーナー経営者であったら、便利な僕をl利用して、自分の利益を追求するため、

僕のようなバイトはいいように使われるのが普通だったと思う、しかしそのオーナーは僕とイーブンで、

それも僕を学生ながら代表取締役にして、いっしょにもう一店舗貸しレコード事業を始めたいと真面目な顔をして言うのだ。

店も閉店したあと、二人で車の中でとことん話した記憶がある。


最初は戸惑った。当時僕は大学3年で春先からは就職活動をする予定だった。

しかしながら愛着がわいていた貸しレコード店をやってみたいという野心もあった。


僕は高校時代、それなりの進学校に通っていたが成績は悪く、自分の将来なんてどうせ月並みなものだと思っていた。

毎朝、高校の正門をくぐるたびに、自分の将来なんてどうせろくなもんじゃないだろうと思っていたくらいだ。


大学に進んでも一、二年生の時は月曜から金曜までは大学の友人と合コンやバイトに明け暮れ、

いわゆる大学生活をミーハーに楽しみ、土日の週末は高校時代の地元の友人と

暴走族まがいの走り屋と化して箱根の旧道やターンパイクをイニシャルDさながらドリフトをしに行ったり、

湘南の西湘バイパスで最高速度に挑戦したり、横浜の富岡でゼロ4をしたりの二重生活をしていたものだ。


そんなぼくが変わったのはやはり、前述の貸しレコードのバイトをはじめてからだ。

2年までで、要領よく大学の単位をほとんど取ってしまっていた僕は3年生になると大学にはほとんど行かず、

貸しレコード屋のバイトに明け暮れ、いつしか大学の友達とも、地元の友達とも一時的ではあるが付き合いは薄くなっていった。

そんなおりに、共同経営の話を突然、いただいたものだからびっくりした。


だが、高校の正門を毎日くぐりながら将来の自分の姿を想像できず、どうせろくなもんじゃないだろうと思っていた僕は、

この話に戸惑いを感じながらもその決心を固めるのにさほど時間はかからなかった。


うちの親父は小さいながら自営業で中古車販売をしていた。

僕の気持ちのどこかで、もし貸しレコード屋を失敗しても最悪親父の会社を継げばいやという安易な気持ちがあったことも否めない。

かくして、僕はそのバイト先のオーナーと共同で株式会社ミニマックスという会社を設立し、

無事横浜の上大岡に僕にとっては一号店である友&愛上大岡店をオープンさせるのであった。

大学4年の6月6日のことである。


最初の資金は自分の親父から確か700万を借り、

バイト先のオーナーからも700万を出資してもらい計1400万で細々と店を始めた

のである。


しかし、僕が店をオープンした直後に貸しレコード店はレコード会社との係争問題が勃発して、

その結果次第では、その先どうなってしまうかわからない、

つまり廃業に追い込まれる可能性も否定できない状態となってしまっていた。


その上、僕が借りた、店舗は横浜市の再開発計画の地域に指定されており、

その店舗の賃貸契約も借り手の僕には非常に不利で、

その再開発が決定次第、有無を言わせずすぐに、出て行かなければいけない契約であった。


しかし僕はその立地条件のよさに引かれ短期決戦でもとその場所を選んだのであった。


しかもその上大岡という駅は横浜市でも横浜駅につぐ位の乗降客数の多い場所で、

当然、僕が出店した時にはすでに競合店である貸しレコード店は同じ駅に4店舗もあり

僕の店は5店舗めの後発という厳しい出発であった。



当時、レンタル店は出店ラッシュで、また、レコードとCDの端境期で、

どの店もCDがどのくらいのスピードで普及するのか、はたまたレコードがまだまだしばらくは続くのか微妙な時期で、

ほとんどの新店舗は相変わらずレコード主体で出店していた。



そんな中僕の店はほとんどCDという冒険的な仕入れを行いオープンした。

そんな中僕の店はほとんどCDという冒険的な仕入れを行いオープンした。

要は、レンタル店はこの先どうなってしまうかわからない。

お店もいつ出て行けといわれるかわからない。

まして同じ駅で最後発である5店目の出店で、なおかつこの先CDが本当に普及するのかもわからない時に

CDだらけの在庫で出店するというまさに無謀とも言える冒険に出たのだ。

もちろん不安だらけだった。

失敗したらすべておしまいである。

バイトのみんなも帰り、ひとり店のカウンターで、いったい自分の将来はどうなるのかと不安に思ったものだ。

大学の友達は就職活動を始め、一方、僕はどうなるのかわからない貸しレコードという商売を始めた。

当然、将来の保障は何もない。


とにかく、僕はその前一年間の貸しレコード店でのバイトで培ったすべてのノウハウをその新店舗に投下した。

6月にオープンし、10月までは苦しい時期が続いた。

しかし、忘れもしない10月の末にレベッカ(当時大人気のアーティスト)のCDが発売され、

その日を境に売り上げは日増しに上昇し、それから数ヵ月後にはすべての競合点を退け地域NO.1となった。

もちろん誰もが予想しなかったほどのCDプレイヤーの普及や係争問題の一応の解決、

そして、再開発の延期等等、僕には神風ともいえるような幸運の連続ではあった。

その後一年余りで、なんと15坪にも満たない僕の小さな店は友&愛の中でも売り上げ一位を記録するような店となっていった。

日本全国の貸しレコード店のオーナーがたかだか15坪の店を見にやってくる。

松浦勝人22才の時である。

ここで、僕の起業というものを考えてみる。ぼくのこの時点での成功の理由は何だったのだろう。

僕が思うには、自分の好きなものをとことん追求し、それをビジネスに変え、

目の前にある出来ることをあまり先のことを考えずにひたすら実行し、がんばったということに尽きる。

常に、あらゆるものに対し何故何故何故と考え、自問自答していた。

もちろん大企業であれば将来のビジョンを掲げ、それに向かって目標をたてて、遂行していくことが大切であるかもしれない。

しかし、


起業した当初、零細企業のぼくにとってはどうなるかもわからない未来に大きな夢を描き、それを目指す事よりも、

今しなければならないこと、

今、出来ることを階段を一歩一歩上るようにひたすらやり抜くことがその成功という結果を導いたとしか思えない。


そこには不思議と運も味方してくれた。もちろん成功したからいえるだけのことかもしれない。

しかし僕の場合に限ってはそうだったということしかいえない。事実そうだったし。


何より、このレンタル店の成功の時点では、その後僕がエイベックスという企業を設立し、

社長になるなんてことは夢にも思っていないのである。





僕がやっていたような小さな貸しレコードの専門店は今ではほとんどないだろう。

今ではビデオレンタルや本屋さんといっしょになっているケースがほとんどで、それも100坪を超える大型店が主流だ。

しかし、今から20年前にはレンタルレコード専門店が存在し、

専門店というにふさわしくしものすごい幅広い品揃えの店も中にはあった。

自分の店はその中でも突出した専門店で邦盤から輸入盤まで、果てはクラッシックから演歌まで、

新譜に至っては入荷しないものはないという品揃えの店であった。

まして人気アーティストの新譜の発売ともなるとそのアイテムの仕入れ枚数は軽く数百枚を超え、

発売日の前日、いわゆる店頭入荷日に借りに来ても絶対に在庫を切らせないというポリシーを徹底していた。

そして何よりの特徴は輸入盤のレンタルであった。

邦盤は普通に発注すればどんな店でも、商品を仕入れることは容易だが、

輸入盤となると自分の足で渋谷や新宿の輸入レコード専門店に足を運び、

限りなくあるアイテムの中から自分の耳だけを頼りに仕入れを行わなくてはならない。

これはちょっとやそっとじゃ出来ないことだった。まして20年前である。

今とは違いインターネットもなく、情報なんてものは皆無に等しく、ただただ自分の耳と知識だけの勝負だった。

はずれを買わないように、また、誰も知らないような傑作を見つけて、

仕入れるためにほぼ、毎日のように輸入盤店に通った。

もちろん、買ってきて店頭に並べただけじゃ誰もそんなわけのわからないレコードやCDは借りてはいかない。

みんなが借りたくなるようなキャッチコピーを考え、細かい解説キャプチャーをつけ、

いろいろなジャンルに仕分けしたり、様々なランキングをつけたりして店頭に置くのだ。

今では当たり前だがアイウエオ順にしかレコードが並んでいなかった当時ではこんなことすら画期的なことだった。


僕にしか出来ないことを20歳そこそこの僕は見つけることが出来た。


こんなささいなことが・・・、今という時代では当たり前のようなことが、当時、20年前には僕にしか出来ないことだったのである。

今でもそうなのかもしれない。僕はいつも自分にしかできないことを探している。

自分にできないことはしない。自分にしかできないことをするのだ。


店の、そして僕が最初に作った会社である「株式会社ミニマックス」の売り上げは順調に推移していた。

しかし、僕の中では常にいつくるかもしれない再開発の通知や、

近所に巨大な複合レンタルの競合店の出店があるのではと常に何かにおびえる毎日だった。


そんな中、全国から尋ねてくる貸しレコード店のオーナーの一人が僕の店の輸入盤の多さに興味を持ち、

「自分の店の仕入れを代行してくれないか」と話を持ちかけられた。

常々、15坪の自分の店だけでは売り上げにも限度かあると感じ、

ものすごい勢いで増えていたレンタル店に対して何か商売ができないかと常々考えていた僕は、

この提案にすぐさま乗った。そしてすぐさま全国の貸しレコード店に「輸入盤を扱わないか」とダイレクトメールを送ったのだった。


狙いは的中し、すぐに30店舗の輸入盤の仕入れを代行するようになった。


末端の店舗からひとつ川上に上がった問屋業の始まりだった。

この問屋業、すなわち卸しといわれる商売がのちのエイベックスというレコード会社に発展していくとはその時は思いもしなかった。

この卸売業も順調に推移し、50店舗くらいの仕入れを任されていた。

店のほうは相変らず好調で、純粋なCDのレンタルの売り上げだけで15坪の店にもかかわらず月間900万円を突破していた。

粗利益が80%近かったので正直、ぼろ儲けに近かった。


そして、ある時、運命を変える出来事が起きる。

ある貸しレコード店のオーナーが僕のサイドビジネスであった輸入盤の卸しを

共同で別会社にして一緒にやらないかという誘いだった。

当初は、自分ひとりで十分やれていたので断っていたのだが、

あまりの熱心な誘いに半ば強引に一緒にやることになってしまったのだった。

一緒に作った会社の名前が「エイベックス・ディー・ディー株式会社」

そう、今のエイベックスの誕生であった。


1987年10月のことだった。(正式な会社の登記は翌年1988年の4月11日である)


松浦勝人23歳になったばかりのときである。


自分の趣味であったダンスミュージックを徹底的に研究し、誰にも負けない知識を身につけ、それを商売に結びつけた。

自慢でもなんでもなく、やはり僕にしかできないことだった。


それは、たとえ僕と同じくらいの知識、もしくはそれ以上の知識を持っていたとしても、

それを商売にして、全国のレンタル店にばら撒くノウハウを持っている人間は誰もいなかったということである。

あっという間に取引店舗は全国のレンタルレコード店となり、

当時6000店舗近くあったレンタル店に僕の書いた解説付きのCDや12インチシングルが全国のレンタル店に並ぶこととなった。

売り上げは倍倍ゲームで上がっていったが、僕にとってはあくまでエイベックスはサイドビジネスであり、

本業はやはり自分の小さなお店で、じかに消費者と接することのできるお店というものが僕は好きだった。

レジにたって実際のお客さんの行動を僕はいつもずっと見ていた。

その経験が後に、消費者が何を求めているのかという視点にたったエイベックスの商品つくりに役に立っていくとは

そのときは思いもしなかった。

なにしろ、ただのレンタル店への輸入盤の卸売業者がレコード会社になるとは夢にも思わなかったからである。

僕らはレンタル店への輸入盤卸からさらに発展させ、輸入盤店(HMVやタワーレコード等)へも商品を卸すことを検討していた。

非常に薄利多売であったが、若かった僕はそこにも果敢にアタックし、

当時、出店ブームであった大型輸入盤店への卸へも参入することに成功した。

僕は相変らずダンスミュージックに夢中で当時流行していたユーロビートに関しては

それこそ日本一の知識があることを自負していた。

とにかく知らない曲はなかった。

それも輸入卸をしていたので日本中のどこの誰よりも早く、音源を聞くことができたし、とにかく大好きであった。

レンタル店をはじめ、大型輸入盤店へも大量に商品を供給していたことから、

エイベックスは世界的にダンスミュージックに強い会社として認知されていった。

そんなある時、イタリアのインディペンデントレーベルから、商品ではなくて、

日本国内でオリジナルのCDをリリースする権利を買わないかという話が舞い込んで来た。僕たちは喜ぶと共に、非常に悩んだ。

CDやレコードの輸入をして堅実に商売を続けていくか、

権利という未知の世界のものを買ってレコード会社としてメーカーになっていく道を選ぶか・・・・。

若かった僕らは結局周囲の大反対を押し切ってメーカーになる、

すなわちレコード会社へなっていく道を選んだのであった。1990年

松浦勝人26歳のときであった。


スーパーユーロビートの発売、すなわち

avex trax

の誕生である。


しかし、この時点ではまさかエイベックスが上場企業となり、

これほどのアーティストを抱えるレコード会社になるとは僕は夢にも思っていなかった。

松浦勝人の起業からavex trax の誕生までを簡単に記してみたが、


やはり僕が言えることは、

目の前にあるちょっと頑張れば手に届きそうな夢に対して、無我夢中に頑張ってきた結果、

それが思いもよらない成功へ結びついていったということだ。



もちろん、ついていたのだと思うし、あの時代だからこそ、可能だったことでもある。


今、現在も僕は自分にしかできないことを探す努力をみんなに薦める。


誰でも出来る事でなく、自分に出来ないことでもなく、自分にしか出来ないことを探すことだ。

大好きなことを徹底的に追求していくこと。



生半可じゃなく誰にも負けないほどにだ。


僕はなんにも偉そうには言えない。

ものすごい運が自分に味方してくれたことも事実だ。


今の時代の中で君が君にしか出来ないこと。


それを探しそれに熱中していけば必ず何か道が開けるのではと僕は思う。


ここに書いた様なことはどこかで読んだことのある人もいると思う。

数々の雑誌やテレビで今までに取材を受けて、ライターの手により記事となってきた。


ただ、自分が自ら自分を語ったのはこれが始めてである。







松浦勝人の起業史 終わり