昔もちょっと書いたけど・・・2009年版ということで

酒を本気で飲みだしたのは、

27歳くらいだったと思う。

それまでも飲まなくはなかったけど、

たいした量は飲まなかった。

どうして酒の量が増えたのかということは

仕事と密接に関係している。

知っている人はご存知の通り、

自分は普段は極端に口数が少ない。

普通にしていても

怒っているかのように思われたり、

無愛想に見られてしまう。

それは元来からの性格によるもので、

どこからそうなったか、

幼児期の経験なのか

はたまた遺伝なのか

(少なくともうちの母親は世界一

ずうずうしいので母方の遺伝ではない)

まぁ、要するに類まれ見る

「恥ずかしがりや」なのである。

無愛想なのはその「はずかしがりや」

の裏返しだと自分では思っている。

照れ隠しが無愛想にうつるのだろう。

以前、専務時代だが、

社員に会社で挨拶されても

あいさつをかえせなかった。

まったく悪気はないのだが、

心の中でしかあいさつがかえせなかった。

社員からは「しかとされた」

とうつったかもしれない。

まぁ、そんなつもりはないのだが

無愛想な専務だと思われていただろう。

そして「あの人はそういう人」だからしょうがない

とまでみんなに思わせてしまったかもしれないし

それが自分のキャラクターの一部

として皆に認めさせてしまったような感もある。

社長になった今でさえまだ

その癖は抜けきれずにいるが

今ではちょっとだけ、

(いやこれでも努力してるつもりなのだが)、

小声だけどあいさつをかえせるようになった。

夜、お酒の席でしか僕と会ったことのない人には

信じられないかもしれないけど(笑)

あっ!、当然仕事上や社外の人には

当たり前ですがそんなことはありませんから。。。

で、お酒との関係、

そしてなぜ27歳過ぎから飲むようになったか

という話になるわけですが・・

27歳位の時に小室さんと

よく飲みに行く機会があった。

TRFがまだtrfでデビューするくらい

のあたりだったと思う。

現副社長の千葉と一緒の機会が多かった。

当時の僕達、エイベックスは

業界の知識も経験もなにもない新参者で

小室さんに楽しんでもらうには酔っぱらって

馬鹿をすることくらいしか出来なかったのである。

そのいい感じで酔っている僕らのことを

小室さんは面白がっていた。

そして僕は千葉の酔った時の豹変振りを見て

「あっこれだ!!!」と確信したものがあったのだ。

「すべては酒の勢いで」

その時そう確信してしまったのである。

要は酔ったふりして言いたい事を

言ってしまおうと思ったのである。

相手に甘えたたり、なにかをねだったり、

お願いしたり etc・・・

しかしながら元来が中途半端なことの

出来ない性格の僕は適当に

理性が聞く程度に飲むということはできず、

酔うならば徹底的に理性を失うほどに

酔う以外は出来ないのであった。

だからいつも本当に酔っぱらってしまうのである。

千葉もそうだ。

だから作戦なんかではなくて

ホントに酔って相手が誰であろうと

いいたいことを言ってしまうのである。

これは当時かなり危険だったと思う。

相手によっては・・

自分はまだしがないレコード会社の

専務でしかないわけだから

下手すると「失礼な奴だ」と

目上の方や相手を怒らせてしまう

可能性だってあったのだから。

しかしながら、この酔っ払い作戦・・

というかただの酔っぱらいの思いつきの行動と発言は

昼間の自分とのギャップも手伝ってか

なぜか割と成功?というか今につながるまでの

さまざまな仕事での人脈作りに

おおいに役に立ったのであるから不思議だ。

(でもこの作戦?は人にはあまりお奨めしません。

かなりいちかばちかですから)

30歳ちょいの頃、

エイベックスの専務初期の話である。

世の中はtrfが全盛期で、

ヴェルファーレがオープンした頃の話である。

エイベックスはジュリアナがなくなればつぶれる。

エイベックスはtrfが売れなくなればつぶれる。

エイベックスは安室が売れなくなればつぶれる。

エイベックスは小室が売れなくなればつぶれる。

浜崎は絶対売れない。

そんなことを業界から常に言われていた時代だ。

その後も酒の量はエスカレートし、

365日毎日酒を大量に飲み

(ウォッカ2本はいってました)

夜は必ず酔っぱらっていた。

そして、帰りはほぼ毎日5時を軽く回っていた。

それでも朝の10時には必ず会社にいた。

それは徹底していた。

特に苦でもなかったし、

考えてみれば町田にエイベックスを

作ったときから会社の鍵を開けるのも、

最後に閉めるのも自分だった。



1998年僕が34歳の誕生日10月1日に

エイベックスはJASDAC(当時、店頭公開)に上場した。

強い雨の降る日だった。

翌年1999年12月10日東証一部に上場した。

それからは上場企業の専務なんだから

○○○○しなさい!!みたいな事が増えていった。

自分は上場企業役員になったのではなく、

役員をしていた会社が上場しただけだ。

だから自分は変わらないみたいな

自分勝手な考えを当時は持っていたと思う。

今思うと恥ずかしい話だが事実そう思っていた。

そして、上場の翌年1月の頭、

年頭の朝礼が終わるとすぐさま

会長(前依田会長)の指示??命令??で

僕はハワイに行った。

「移り住みなさい。ハワイから制作の指示を

すべて出せばいいから」という会長からの指令だった。

なぜなのかあまり意味は聞かなかった。

聞いたこともあるが何かいつもはぐらかされるので

あまり理由も聞かなかったのである。

それより単純にハワイに住んでいいということが、

いや、ハワイに住みなさいという会長の命令は

僕にとっては願ったりかなったりの最高にうれしいことだったのだ。

一生ハワイにいていいということだったので、

まず家を買うことにした。

以前それより一年前に三ヶ月間ハワイで楽曲作りの合宿

(余談だがこの時にayuのファーストアルバムの曲をほとんど作った)

を作家達と一軒家を三つほど借りてやっていたことが

あったのでその近所に当時からいいなあと

思っていた家が偶然売り出たのでその家を買った。

土地が二区画になっているので

スタジオを別棟で建てられるというのが

そこを買った最大の理由だった。

ソーシャルセキュリティーNOをとって、

グリーンカードを申請した。

ハワイの生活は快適であった。

そしてハワイ特有のそのゆっくりとした時間の流れは

10年ちょっと狂ったように仕事に酒に明け暮れていた

僕にはたまらない休息であった。

一日は朝起きて夜のうちにインターネットで

送られてきているメール、音源、詞、ジャケット等の

チェックから始まる。

大事な会議にはテレビ電話の会議システムを使った

(結果的にはあまり使わなかったが)

メールに返信をして、音源や詞、ジャケットに

一通り直しを入れてお昼過ぎには仕事は片付いてしまう。

会議や打ち合わせがないとこんなにも早く

仕事が片付くのかと当時はびっくりしたものだ。

午後からはほとんど毎日考える時間か、

マリンスポーツをしていた。

そして夜はワイキキにほぼ毎日食事に行った。

この夜の食事の時間当たりから、

日本から仕事の電話連絡が来る。

が、こハワイは夕食の時間である。

したがって酒を飲んでいる。

やっかいな問題が酔っぱらっているときに来ると

困ったものだった(笑)

だが、この頃自分は次第に病んでいった。精神的にだ。

人生における生きていく意味がわからなくなっていた。

何のために生きているのかばっかり考えていた。

このころから朝から酒を飲むようになっていた。


1999年12月、上場も果たして、お金も入った。

それは本来の僕の目標ではなかったけど、

いつからか上場することは「ねばならないこと」として

僕の中にはインプットされていた。

そのために自分の感情は消して会社に言われるがままに

「ねばならないこと」のために我慢した。

その時(上場)まではと感情も極力消して上の指示に従った。

「ねばならないこと」だと思っていたから。

そしてそれが(上場)果たされたとき、

僕は自分の次の目標を見つけることが

出来ないような人間になってしまっていた。

ハワイで暮らしていた頃、

2000年 世紀末、ミレニアムという言葉がはやった頃だ。

依田前会長から松浦真在人と改名させられていた34歳の年だ。

35歳の誕生日を迎える前に東京から

帰国するよう指令があった。

一生ハワイに住んでいいといわれていた僕にとっては

青天の霹靂だ。

グリーンカードはもらいに行けばいいまでの

状態になっていた。

スタジオの設計図も出来ていた。

ハワイに来て9ヵ月の時だった。

これにも明確な理由があった記憶はない。

しいて言うとすればこの頃から

全体的にCDの売り上げが下がってきた

からだったからなのではないかと思う。

ずっとハワイにいていいというから

用意したものはすべて無駄になった。

愛犬のタローともお別れだった。

日本に戻っても僕の心は病んでいた。

会社の薄暗い個室で一日中なんのために

生きてるのか悩んでいた。

そういう状態だから当然、

夜は毎日飲んだくれていた。

この頃の酒はただ酔う為だけの物だった。

なんでもよかった。

酔っぱらえればとりあえずその時間は気分が楽になる。

それだけだった。

周りの心配もよそに

相変わらず酒の量は増えていき、

心の病は何一つ解決策を持たなかった。


今思えばこの時期の酒は本当に良くなかった。


そしてそんな数年の後、

さらにどん底に落とされる事件が起きた。

昔からの後輩に自分の資産の運用を任せていたのだがそれがパンクした。


僕は一気に多額な債務を負うこととなった。

あまりに任せきりだった自分が

悪いと思う以外気持ちの救いようはなかった。

37歳。

自分を戒めようとワンルームマンションに引越しした。


いろいろなことの清算が始まった。

過去との清算だ。

自分でした事の始末と自分でしなければならない。

生活や考え方を変えざるを得ない状況に陥った。

今となってはそれが良かったのかもしれない。

ハワイ以降の精神的に病んでいた時と比べても

比較にならない辛い日々の連続の中、

次第に僕は立ち直っていく。


「愛」というものを真剣に

考え出したのはこの頃だ。

愛といっても恋愛の愛ではない。

無償の愛だ。利他の精神だ。

どん底まで落ちたからかもしれない。

何のために生きてるのかって

ずっと考えて出た答えは

自分のために生きるのではないということだった。

本気でそう思った。

今でもまだそうできているなんてはとてもいえないが・・・

そんなことを考え出した38歳時に

彼女のおなかの中に子供の命を授かった。

まぁ、いわゆる出来ちゃった結婚といえばそうである。

子供が生まれて、39歳になり前厄となる。

相変わらず多額の借金は頭痛の種だった。

金利の支払いだけでいっぱいだった。

その年の夏今度はあの事件が起きる。

いわゆるエイベックス騒動だ。

これには今はあまり触れないでおく。

忘れてしまいたいことだが一生忘れないだろう。

あの時、会社を辞めるということは

自己破産を覚悟してのことだったのだから。


かくして僕は社長になった。

社長になるときの資本の移動で

株式を売却することになり借金はだいぶ縮小した。

縮小したことはしたが

まだ多額であることには違いはない。

だけど今は、

一生かけて返せばいいと今は思っている。


ゆえに僕は

日本で一番社長が似合わない社長

だと思っている。

社長になって4年半。

まだまだ似合ってはいない(笑)

しかし、社長というものは恐ろしいものだ。

専務とはわけが違う。

当たり前といえば当たり前だが、

実際経験するとその違いの大きさに正直びびる。

まず、周囲の対応がガラッと変わった。

本当に自分自身、

気をつけて我を忘れないように

していないとだめだという事に気がついた。

NOと言ってくれる人がいかに大切であるか、

間違いを指摘してくれる人がどれだけ大切か

そしてそれを素直に聞く自分でいることが

いかに大事か。

裸の王様だけにはなりたくない。

そうなった時は人としておしまいだから。

気をつけます。。。。。

そして今、お酒を11時以降飲まないようにしています。

正直まだ2週間なんで偉そうには言えませんが。

別に体が悪いわけでもないし、

何かあったわけでもないです。

そもそも、

そんなにお酒が好きなわけではなく、

酔うために飲んでいたようなものですから

酔うという行為に飽きてしまっただけなのかもしれません。

だから、別に酒をやめたというわけじゃなくて、

正確に言うと酔っぱらうことをやめたと

言った方が正確かもしれません。

酔っぱらわないためには量を減らせばいいのですが、

酔っぱらうために今まで飲んでいたので

酒を飲む意味がなくなったというわけです。

誕生日とか何か特別な日は

飲んで酔うかもしれませんが、

今は人が酔っていく過程の変化を

冷静に見て観察してます(笑)

適度な酔っ払いを練習中です。