久しく本を読んでいない。俺は活字はどうも苦手でジャンルを問わず敬遠してしまい勝ちなのだが、せめて漫画で教養を嗜みたいものだ。という訳で先日、本屋で石ノ森章太郎の『古事記』を買った。しかしさっそく読もうとページを開き、俺は思わず目を見張ってしまった。画風や物語の構成、その他全てにおいてそれが手塚治虫作品に酷似していたからだ。そう、それはまさしく手塚治虫の『火の鳥』であった。
昭和30年代。”漫画の神様”手塚治虫に憧れて東京都豊島区の旧アパート「トキワ荘」に集ったのが石ノ森章太郎、赤塚不二夫、藤子不二雄A、藤子・F・不二雄の新進気鋭の漫画家4氏である。今日の漫画・アニメ大量生産文化、その礎を築いたのは間違いなく手塚及びこの4人であろう。そしてその中で最も早く頭角を現したのが石ノ森章太郎だ。石ノ森は手塚に次いで数多くのヒット作を世に輩出し、”漫画の王様”として手塚とも並び称されたまさに手塚一門の大出世頭である。ちなみに俺は上述の4氏のうち、石ノ森だけはほとんど読んだことがない。だからこれは作画から受けるただの印象なのだが、少なくともデビュー初期段階において、石ノ森は手塚作品を忠実に模倣していたのではないだろうか。そして手塚の表現手法をさらに徹底的に洗練させて、例えば後年の特撮分野進出などにも幅広く活用したのだろう。その意味において、石ノ森章太郎は手塚治虫の純然たる継承者であると言えよう。
一方で上に挙げた4氏のうち、最も頭角を現すまでに歳月を要したのが藤子・F・不二雄である。藤子Fはデビュー当初こそ『オバケのQ太郎』(藤子Aとの合作)や『パーマン』などのヒット作を手掛けたが、その後の作品はいずれも短命に終わり鳴かず飛ばず、長いスランプに陥ることになる。しかし特筆すべきは、石ノ森とは対照的に藤子Fの作風は極めて異彩を放っていた点である。とりわけSFをより身近な題材として子供向け作品に取り込む巧みさは、俺が知る限り手塚作品にも見られなかった。藤子Fの個性は手塚一門の中でもまさに特異的であり、その独創性の高さゆえに、執筆における指針を確立させるのに長い年月がかかったのは致し方なかったのかも知れない。また石ノ森、赤塚、藤子A、藤子Fの愛弟子4人のうち、手塚が「天才」と称するほど才能を高く評価し、自身の地位を脅かしかねないと脅威にさえも感じていたのがこの藤子・F・不二雄だ。そして藤子Fが熟齢に差し掛かり、苦闘の果てに発表したのが言わずと知れた国民的大人気作品『ドラえもん』である。
漫画黎明の時代にあり、ともに偉大なる師・手塚治虫の下で開花した少壮気鋭の石ノ森章太郎と大器晩成の藤子・F・不二雄。執筆家としてまさに対極的な道を歩んだ彼らの在り様は教えてくれる。如何なる仕事であれ我々は成功の時期を自らで選ぶことは出来ず、しかし全ての努力は然るべくして将来を切り開いてくれるのだと。
※追記。一身上の理由により、しばらくの間更新を休みます。しかし事情済みし後には必ずや再び日記を書きに戻って参りますので、その際はまた当ブログを温かくご愛顧くださいますようお願い申し上げます。それでは、皆さんにご多幸のあらんことを。