『ドラえもん』といえば、言わずと知れた故藤子・F・不二雄の代表的漫画作品であり、今日日本で最も広く支持される国民的アニメ作品である。1969年に漫画連載開始、1979年にテレビ放送開始。作風の健全性や教育的要素から「親子2世代番組」「親が子供に見せたい番組」として盤石の地位を確立した。その認知度の高さは、もはや日本国民全員が知っていると言っても過言ではない。また国内のみならず海外でも、アジア地域を中心に熱烈な人気を博している。
しかし『ドラえもん』に対し、一部で否定的な意見が根強く存在することも事実である。「のび太はぐうたらな少年であり一切の努力をせず、ただドラえもんに甘やかされて願望を満たしているだけではないか」。けれど一度同作を見れば、そのような批判がお門違いであることは明白だ。のび太はドラえもんから借り得たひみつ道具を用いて、一時は有頂天になるも必ずしっぺ返しを喰らい、その度に教訓を得ているのだ。ならばなぜ、上述のような解釈がささやかれているのであろうか。
周知の通り『ドラえもん』は一話完結作品である。長編ストーリー作品のように、話数を追う毎に主人公の知力や体力、精神性などのバロメータが上がっていくことはない。毎回毎回が初期状態から始まるのだ。前話においてひみつ道具から学びを得たのび太は引き継がれることなく、次話では全く別の訓話として学びを得ていないのび太からリスタートする。この「のび太のリセット」が誇大的に捉えられたことにより、成長しないのび太像が一人歩きしてしまったのではないだろうか。
『ドラえもん』において、子供たちは常にのび太と同じ目線から物語を歩み、のび太と同じ願望を抱き結果失敗を目の当たりにして、のび太と同じ自戒を得る。そしてのび太がリセットされる度に、それを何十回何百回と疑似体験するのだ。児童向け作品として、如何なる啓蒙書も同作には及ぶまい。「どんなに便利な科学技術も使い方を誤れば人間に害をもたらす」。その繰り返されるメッセージこそが、『ドラえもん』が誕生から半世紀を経た今も尚愛され続ける理由であろう。
※諸事情により一月ほど入院することになりました。従ってしばらくの間更新を休みます。然る後にはまた当まきしま日記をご愛顧よろしくお願いします。では。