一人になりたいなあ

 

人間関係って大変だ

みんなはうまくやっててすごい

 

誰かと親しくすればするほどに、自分の悪いところが見えてくる

自分が嫌いになる

 

誰かと親しくすればするほどに、自分が弱くなっていくことがわかる

この人なら自分を受け入れてくれるんじゃないかななんて

そんなことあるはずもないのに

 

好きっていう気持ちが強くなればなるほど、嫌われるのが怖くなる

心が乱れる

 

人と接するって大変なことだ

とても疲れる

混乱する

傷つく

 

僕は弱い

傷つきたくない

 

心に膜を貼ろう

一線を引こう

できるかぎり、一人になろう

 

それでいい

別れてから避け続けていた彼女とマックに行った。彼女の他に彼女の女友達が二人付いてきた。この4人でマックに向かうことになった経緯ははしょらせてもらう。

 

彼女と別れてから、僕は彼女のことを極端に避けてきた。別れを告げられた日、僕はできる限り悲しみを表に出さず、友達に戻ろうと言葉をかけたが、自分自身が耐えられなかった。彼女が自分に冷めてしまったという事実に大きく傷つき、彼女のことを見るだけで胸が傷んだ。彼女の姿が視界に入るだけで、彼女の声を聞くだけで、息苦しくなった。とにかく彼女を忘れようと努めた。視界に入れまいとした。時々虚しくなる時がありはしたが、概ねうまくいっていた。

 

しかし、今日久しぶりに彼女の顔を見ながら話して、思った。やっぱり自分は彼女のことがどうしようもなく好きだ。彼女を避けていた間に、気持ちは幾分落ち着いていたが、好きだという気持ちに衰えはなかった。むしろ心に余裕が出来、落ち着き始めた今だからこそ思う。自分が彼女を好きだという気持ちは、嘘ではなかったのだ。恋によって盲目になっていたからなどではない、初めての彼女だから余計にということでもない。自分は単純に彼女が好きだった。そして今でも好きなのだ。

 

不思議なものだ。僕と彼女の性格は真逆だ。趣味も何一つあっていない。外見だって正直に言えば好みではない。それなのに僕は、彼女のことを好きだと思う。

 

彼女のことが好きだと再確認したわけだが、これから何かをするつもりは全くない。彼女との恋人関係はすでに終わってしまったし、もう一度はきっとない。彼女と友達になりたいと今は思うが、それも無理かもしれない。それでもいい。彼女と何の関係も築けなくていい。自分は彼女のことが好きだというこの気持ちは、心の奥底に秘めておこう。

牛河という人物に心惹かれた。彼はその非常に醜い見た目のために、自分の意思とは関係なく孤独を強いられた。醜い外見のために、賢く優秀でありながらも、表社会に受け入れられることはなかった。

 

しかし、彼は自分の外見に対してそれほど不満を抱いてはいないようだ。自分が醜いことを事実として受け入れた上で強く生きていた。それは醜く汚い生き方であったかもしれないが、彼の生き方は僕を魅了した。彼は地面に這いつくばりながらも、少しずつ前へ前へと進んでいるように思え、それは人間の力強さを連想させた。

 

牛河が殺されてしまったのは、非常に悲しい。生まれた頃からの嫌われ者が、醜くも力強く生きた最後があんな無残な死だとは、あまりにも救いがなさすぎるのではないだろうか。

 

しかし唯一の救いがあるとするならば、タマルが彼の優秀さを認めてくれたことだ。

 

『1Q84』は面白い作品だったが、終わり方が微妙だった。青豆と天吾は再会するべきではなかったのかもしれない。

自分のことが好きな人間のことを「ナルシスト」というのであれば、僕は間違いなくナルシストの一人だ。それも手の施しようのない、極度のナルシストである。

 

僕の行動理由のほとんどは、突き詰めれば自分がナルシストであることが原因だとわかる。例えば親孝行。両親に誕生日プレゼントを贈る建前の理由は「いつもの感謝をこめて」だ。しかし、後々考えてみると、自分がプレゼントを贈る理由はそんな綺麗なものではないことに気づく。本当の理由は「親孝行している自分が好きだから」だ。

 

初めての彼女と別れて、自分の行動の根本はナルシストだということを改めて知った。僕は彼女と付き合ってから別れるまで、ずっと彼女のことを考えていた。他の女性のことなど眼中になかった。自分で言うのもなんだが、僕は女性に対して見境のない人間だ。外を歩いているときはいつだって可愛い女の子を探しているような人間だった。しかし、彼女と付き合っている間は彼女以外の女性はどれも同じ顔に見えた。驚くべきことだ。

 

それだけ彼女のことが好きだった。自分の好きという気持ちを毎日素直に伝えた。その結果、彼女はその重荷に耐えきれなくなり、僕に冷め、振られてしまった。振られた後もなかなか彼女のことを忘れられなかった。久しぶりに涙が流れた。「彼女は僕に冷めてしまったとしても、自分は彼女のことを変わらず好きなのだから、辛いのは当たり前じゃないか」と、誰にいうでもなく一人つぶやいた。

 

「僕はただただ、彼女のことが好きだった。だからこそ重くなってしまったし、別れてからも辛い思いをしているのだ」

 

そうはじめは思っていた。しかし本当は違うのかもしれない。もしかしたら僕は彼女以外の女性に眼中がなかっただけではなく、彼女自身すらも眼中になかったのではないか。僕は彼女が好きだから彼女に一途だったのではなく、「彼女に対して一途な自分」がどうしようもなく好きだったのではないか。そしてわかれてから何週間かを「彼女が忘れられずに苦しみながら過ごした」のも、彼女のことが好きだから忘れられないのではなく、「別れを告げられても彼女のことが好きな自分」に酔っていたからではなかろうか。

 

この仮説は自分の中ではかなり確信に近いものになっている。きっと自分は、付き合っている間も心の奥底でこの自分の行動原理に気づいていた。ただ、気づいてないふりをしていただけだったのだ。

 

そもそも僕は自分のことが嫌いだという人間のことが理解できない。もちらん彼らがそういうのには様々な理由があるのだろう。顔がよくないから、勉強ができないから、他人とうまくコミュニケーションを取れないから、他人の気持ちがわからないから、などなど。僕にもそういったコンプレックスはたくさんある。人並み以上にある。誰だって自分の嫌いなところの一つや二つくらいある。

 

しかし僕はそういった自分の悪いところも含めて、自分のことを好きだと思う。いってしまえば「自分のことが嫌いな自分すら好き」なのだ。

 

僕はいつだって無償の愛を探し求めていたけれど、この自分への深い愛情こそが、無償の愛なのかもしれない。

海外での5年間もの留学を終え、日本に帰国して大学受験に向けて予備校に通い始め、半年になる。その間に様々なことが起こった。合格発表の日が近づくにつれて、「別に第一志望じゃないしいいや」と傷つかないように自分の心に膜を張った。しかし落ちたら当然のことながら深く傷つき、受かれば嬉しい。

 

この半年で一番に僕の心を揺さぶったのは勉学ではなく、恋愛だった。一人の女の子と付き合うも、その関係は2ヶ月間も続かなかった。その間は全く勉強をしなかった。「受験中に何をやってるんだ」と自分でも呆れる。しかし、付き合い始めた頃にはすでに滑り止めの大学に受かっていたこともあるし、なにより、それだけ彼女のことが好きだった。

 

初めての彼女だった。当然のことながら僕は舞い上がった。自分の溢れんばかりの好きという気持ちを彼女にぶつけたし、彼女にもそれを求めた。自分の好きで、彼女との関係を壊した。

 

別れてから気づいた。人は孤独であることを、日本に帰ってから忘れていたことに。それは彼女に限った話ではなく、友人関係もそうだ。自分は誰かに受け入れられることを強く欲していた。しかし、それは不可能な話だ。自分には自分の人生があるように、他人には他人の人生がある。自分という存在を完全に受け入れてもらうなど、不可能なことなのだ。

 

もう一つ気づいたことがある。自分は孤独になることを強く恐れていた。

 

長くなってしまった。本当は「孤独と共に暮らしていこう」といった内容を書きたかったのに、前置きが非常に長くなりすぎてしまった。更にその途中に兄 and 父vs母の喧嘩が勃発し、1時間ほど母を慰めなくてはならなくなり、時間の余裕と文章を書く意欲が失われてしまった。ここで終わりにしよう。