自分のことが好きな人間のことを「ナルシスト」というのであれば、僕は間違いなくナルシストの一人だ。それも手の施しようのない、極度のナルシストである。
僕の行動理由のほとんどは、突き詰めれば自分がナルシストであることが原因だとわかる。例えば親孝行。両親に誕生日プレゼントを贈る建前の理由は「いつもの感謝をこめて」だ。しかし、後々考えてみると、自分がプレゼントを贈る理由はそんな綺麗なものではないことに気づく。本当の理由は「親孝行している自分が好きだから」だ。
初めての彼女と別れて、自分の行動の根本はナルシストだということを改めて知った。僕は彼女と付き合ってから別れるまで、ずっと彼女のことを考えていた。他の女性のことなど眼中になかった。自分で言うのもなんだが、僕は女性に対して見境のない人間だ。外を歩いているときはいつだって可愛い女の子を探しているような人間だった。しかし、彼女と付き合っている間は彼女以外の女性はどれも同じ顔に見えた。驚くべきことだ。
それだけ彼女のことが好きだった。自分の好きという気持ちを毎日素直に伝えた。その結果、彼女はその重荷に耐えきれなくなり、僕に冷め、振られてしまった。振られた後もなかなか彼女のことを忘れられなかった。久しぶりに涙が流れた。「彼女は僕に冷めてしまったとしても、自分は彼女のことを変わらず好きなのだから、辛いのは当たり前じゃないか」と、誰にいうでもなく一人つぶやいた。
「僕はただただ、彼女のことが好きだった。だからこそ重くなってしまったし、別れてからも辛い思いをしているのだ」
そうはじめは思っていた。しかし本当は違うのかもしれない。もしかしたら僕は彼女以外の女性に眼中がなかっただけではなく、彼女自身すらも眼中になかったのではないか。僕は彼女が好きだから彼女に一途だったのではなく、「彼女に対して一途な自分」がどうしようもなく好きだったのではないか。そしてわかれてから何週間かを「彼女が忘れられずに苦しみながら過ごした」のも、彼女のことが好きだから忘れられないのではなく、「別れを告げられても彼女のことが好きな自分」に酔っていたからではなかろうか。
この仮説は自分の中ではかなり確信に近いものになっている。きっと自分は、付き合っている間も心の奥底でこの自分の行動原理に気づいていた。ただ、気づいてないふりをしていただけだったのだ。
そもそも僕は自分のことが嫌いだという人間のことが理解できない。もちらん彼らがそういうのには様々な理由があるのだろう。顔がよくないから、勉強ができないから、他人とうまくコミュニケーションを取れないから、他人の気持ちがわからないから、などなど。僕にもそういったコンプレックスはたくさんある。人並み以上にある。誰だって自分の嫌いなところの一つや二つくらいある。
しかし僕はそういった自分の悪いところも含めて、自分のことを好きだと思う。いってしまえば「自分のことが嫌いな自分すら好き」なのだ。
僕はいつだって無償の愛を探し求めていたけれど、この自分への深い愛情こそが、無償の愛なのかもしれない。