ボクはね、
現代人の殆どが精神の
病にかかっちまってる、
そう思ってるんです。
正常でない状態が今は
正常になってる、とね。
それを例えて使うのが
パラドックスです。
ココでは本来のコトバの
意味から外れた意味を
話すことになります。
この論文のテーマは、
現代人が抱え盲信的に
正当化してしまっている
逆説的パラドックス、
という私の卒業論文。(笑)
そんな感じで綴ります。
先ず最初に人間の行動は
精神から起動するもので
ある、というコトバを
先に出しておきましょうか。
コレ一番カギですから。(笑)
本来パラドックスとは
正しそうに見える前提と
妥当に見える推論から
受け入れ難い結論を得る
ことをいいますけれど
今回説明するものは
対極に位置するかのよな
パラドックスです。
一番だと盲信する価値と
起こり得ない過信から
大切な心が見えない結論
というきわめて逆説的な
パラドックスです。
この小さな島国で今生きてる
現代人の殆どの人ってさ
他人様はもとより今の
自分の現状しか信じず
モノゴトを進めようと
しかしていないとは
思わないかい?
という気持ちが僕にあります。
というのは皆心の支えが
欲しいと言うわりには
一番大切なのは現状の
安定に行きつくしそれが
総てを見る物差しだと
いうわけなんです。
皆仕事が上手くいった、
欲しいモノが買えた、
行きたい場所に行けた、
美味いモノに出会った、
マイホームを得た、
沢山交友関係を得た、
これはよくある話ですよね。
ただ一番近くにあなたの
心から大切な人が素直に
寄り添うような毎日を
送っていますか、ってな
部分になると皆揃って
口籠ってしまう。
一番必要な筈のわりには
おかしな話だよね?
そんな疑問がありまして。
何故だと思うのか?
今な大部分の人が物的な
満足で総て順調なんだと
麻痺しちまってるんです。
ヒト、モノ、コトでね。
公私のそんな部分に。
そんな充実が自らに一番
大事なものになっちまい
そして明日もしもの事で
総てが無になることは
在り得るなんていつかは
あるかもしれないけど、
今は絶対起こらないって
盲信的に過信的に仮説を
信じて疑わない。
心から奏でる行動が本来
絶対的な筈なのに、
ホントは虚ろな不確かな
社会的な中の自分だけを
信じている。
真心から他人を見て
信じようとはしないし
できない自分は疑わない
そんな両極端な自らを
自分に問うこともなく
他人には問う人が今の
世の中にはあまりにも
多いのではないかなぁ。
ボクはそう感じるんです。
何かあれば財や仕事や
モノなんて失うことは
いつでも在り得るのに
殆どはそう思わない。
確実なものだと錯覚して
それには気づかない。
逆に他人と人生の旅は
相手が不確かだと思う。
人間の真心から出でる
感覚なのに信じない。
不安や悩みばかりを
そこから探してしまう。
建前と感じてしまっての
そこからの粗探し。
人間として生まれてきて
いのちを燃やしてるのに
大切な部分が変わるって
それ自体変じゃないか?
そうも思うんですね、
僕は世の中に常に。
僕は無から見れるのは
生い立ちからだと思います。
生まれた場所に根をはり
成人できなかった生来
根無し草だったからね。
だから生まれながらに
総ては起こり得ることを
宿命と運命から意思とは
無関係に無意識に自然に
教えられてきたいのち。
だから何が起こっても
やるもんだしできる、と
発想する精神が在るのかと。
そういう部分から僕は
物的な外的な要因から
幸福は測れないんだと
知っている気がするんです。
大金持ちが孤独だと嘆き
スラム街で過ごすのに
心から幸せだと笑いし
ヒト達が居るのかを
沢山の人は一度真心から
考えてみたらいいじゃん
と僕は常に思っています。
幸福は心の深さに起因
するものなんだから本来
全然難しいものじゃない
コトをホントは人間皆に
知っている筈なんですね。
でもそこに平常に無を
持たないヒトは社会や
風潮やメディアに煽られ
自分の心以外の安定で
自分の幸福を代弁したり
またそれ自体が絶対となり
盲信の麻薬に浸ってしまう。
自分の今の背景になるものは
どんなこと天災でも
耐えて揺らぐ危険もないし
さぞや強固で堅牢な建物でも
あるかのように真心とは
すり替わり人生の柱に
なり存在してしまう。
東日本大震災がありました。
そのずっと前には新潟にも
阪神大震災もありました。
沢山の人は失われるコト
なんてないと思いながら
毎日生きていたものを
失った、無になった。
ショックや失望や絶望で
中には自ら命を絶った
人も中には居たでしょう。
でも大部分の人は?
無になってゼロでも
また走り出したでしょう。
誰のため?
自分のため
守りたい人のため、
そうじゃないのかな?
ということはもうそれは
真心から動きしことで。
人間無になっても生きて
歩き始められることの
雄弁な証明だし、失って
始めて大切な精神が逆に
なっていたことを知る
愚かさの戒めでもある、
ってことなんだなぁと。
皆自分を賭ける相手が
必要だと建前や綺麗事は
口にはできます。
でもそれは僕から出る
気持ちと不特定多数の
他人の言うコトでは全く
重みも覚悟も違います。
僕には現代人の持つ
パラドックスがありません。
無から見ているから。
何も無くてもこの人と
人生の死ぬまでの旅を
したいんだという覚悟と
強い願いがあるから。
だから殆どの人は深く
両極端な理想や願望の
矛盾から苦しんだり
受け入れ難い感覚になり
悩んだり不安になる。
一番崇高な精神の部分を
無から感じていないから
他人に真心からそうは
思えない自分の偶像に
ジレンマやエゴを感じて
正当化も失望もする。
そして一番人生の大切な
部分に自分は賭けたり
委ねたりできなくなり
途方に暮れてしまう。
それを毎日繰り返す。
時間はなくなる。
盲信のモノが正になる。
真心は不信だと逃げる。
他人はもとより自分が
どんな人間でどんな人生
どんな旅が幸福なのかも
解らなくなっちゃう。
無から他人を見る人が
今は殆ど居ないし
出来ない人が多いのかなと。
なんとなくそんな現状と
思ってるんですね。
僕は沢山の現代人が患ってる
病にかかっていないです。
僕の無の感覚は心の
共振が総ての原動力で
物的な要因やガソリンは
最初から総て排除して
表現している覚悟です。
だから失うことや見返り
自体もアタマにない。
恐くならない迷わない。
真心や純愛として
自分を大切な相手に
貫いて忠誠を誓える。
僕には命を賭けれる
相手の存在こそが総ての
中心点であり核であり
絶対的な信じる人ですね。
それが僕にはやっぱり
人生で一番重要な核心です。
現代人は殆どそこに
疑問やら悩みや不安を
抱えて現状の満足との
天秤にかけちまう。
だから天秤に測るうちは
誰もが孤独なんです。
恐い気持ちと不思議な
刷り込まれた巨大な
パラドックスの狭間で
苦しんでいってしまう。
皆ホントは心の中では
人は一人で生きれない
コトも心より大切な
感覚はないことを何より
知っているのに。
歪んでしか見えなくて
整理できない世の中に
僕は見えている、と
こういうわけなんです。
この島国のあちこちから
そんな愛の叫びのような
眠った魂の無念さのような
静かな音が時に聞こえるような
そんな時がスゴくあるのです。
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