通 勤 小 説 〈tuukinshousetu〉
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【スライド その10】晴野イイナ著

午前5時を回ったばかりの、恐らく多くの人たちがまだ眠りに付いている頃だと思われるこの時間に妻の里子は世界遺産のDVDを見ている。
ソファに腰掛け、というよりかはソファに埋もれながら、ソファに包まれながら、左肘を肘掛に置き、彼女の右手は彼女の腹部を触りながら、摩りながら彼女の体に後付けとなった通称ぜい肉と呼ばれる彼女の一部と戯れていた。里子が寝ているのか、起きているのか分からないが、寝ているとしたら無意識に彼女は自分の体の一部と戯れていることになる。そのことも見ようによっては可愛らしく思えたかもしれないが、テレビから流れるDVD音量はまったく聞こえない。
キッチンの照明は点けられたままだった。
換気扇も回されたままだった。
僕は里子が入れてくれたコーヒーも飲んでいない、里子が僕の目の前に置いて行ったままだった。

里子がお義母さんの居る和室にインスタントコーヒーを持って行った事は覚えているのだが、里子がリビングへ戻って来た事はうっすらでしか覚えていない。覚えていない。
昔、ユウタがお米と塩化カルシウムの融雪剤を間違えて事にいつから僕の思考は移り変わったのかも分からない。夢だったのかもしれない。眠ってしまっていたのかも分からない。リビングへ入って来た里子が「今度、昆布茶を買ってこようか、お母さんにはコーヒーよりもそっちの方がいいかもね」という話をしたような気もするが、それさえも夢なのか、以前に里子が話をしていた事を思い出しただけなのか分からなかった。
時計は午前5時を回っている。それだけだった。
時間が経っていた。それだけだった。


僕はリビングのドアを開け、寝室へと向かう廊下を歩いた。左手のお義母さんの部屋である和室の前を通ると線香の香りが僕を和室の前で立ち止せることはなかったが、お義母さんがお経を挙げる声がいつもよりかは大きく聞こえ、その声を背中に添えながら僕は寝室のドアを開けると、「鈴(りん)」の音が「チーン・・・」と鳴った。寝室のドアを閉めることを僕は待った、もう一度、「鈴」の「チーン・・・」という音が鳴ることを期待したが、鳴ることはなく、僕は寝室のドアを閉めた。
ベットに入り、布団を被ると「鈴」の「チーン・・・」という音が聞こえた様な気がした。亡くなった母が言っていた「一生続くことはないから、今を頑張りなさい」という言葉を思い出した。
これから、何度となく「鈴」の音、線香に香りを体に浴び、懐かしさを思い出し、作り上げて行くことに期待する事を描けるように今は自分の意思で眠りに就く事が出来る。

<おわり>