中学は母の思い通り、願いどおり私立受験をしました。
といっても、私は塾に行くのも内心嫌々でしたのでさして勉強はしてません
それでも、母の選んだ女子校に合格。あの時は母も私も喜びましたが
考えれば偏差値も下から数えたほうの早い学校。
それでも、母からしてみれば合格したことがうれしかったのかもしれません。
幼い頃から絵をかくのが大好きだった私に母は、高校にあがれば
絵を学べる学校を選んでくれました。
これで何かが変わるのかもと少しは思っていたんだと思います。

中学に上がる前に話は戻りますが、私は小学校3年の頃から
紫外線アレルギーを発症。
今はそこまでではありませんが、頬、首、親指の付け根から手首
肘、太腿、皮膚の出る部分はすべて赤くただれ、かゆくてかゆくてかく仕方ない毎日。
中学時代になっても頬と首はただれたまま。
考えれもそれもきっかけの1つだったのかもしれません。
中学に入って2ヶ月、6月から私はいじめを受けるようになりました。

最初はそれをいじめだと思ってもいなかったんです。
いじめはテレビやアニメの世界のもの、私はうけないだろう空想の世界のもの。
そう思える時点で、小学校時代は友人関係に恵まれていたんですね。
クラスの子、2人から暴言を受け始め、時間がたつにつれ
背中をけられたり、お腹を殴られるように。
最初はそれもたんなるおふざけだろうと、見逃していましたが
だんだん耐え切れなくなり保健室へ。
そこでイジメだと自覚しました。

そして中1の夏休み明けから長い保健室登校がはじまりました。

中1時代、何よりもきつかった記憶は、合唱コンクールの練習。
私はけして歌がうまいほうではありません、はっきり言うと音痴です。
人前で歌うのが心底いやでした、ですが練習だからと
生徒5人のまえで1人で歌うことに。
笑われながら歌うこと、先生も後でただ見てること
これ以上つらい状況はありませんでした。
手足は震えて、泣きそうになるのをこらえて、吐き気もしてきて
逃げ出したい一心で歌いきった後、「もういいや、後の人たちも1人で歌わなくて良いよ」
と目の前の女子達から言われたことは今でもはっきり覚えてます。

そこからもし吐いてしまったら、教室内にいる女子に言われる
酷くまた何かいわれるという恐怖心にとらわれ、
教室に長時間いることができなくなりました。
長くなるので分割しての投稿になります。

5、6年になっても恐怖はそのまま私の中にしっかりと根付いたまま
そこに居座り続ける日々。
従姉妹の家に行くのも憂鬱、家族旅行も憂鬱、何もかもが憂鬱でした。
何処かにいくということは、何かを食べなくてはいけない
そこでもし吐いたらどうなってしまうんだろうと、出かけるときは
思っていたんです。正直外食はこの頃からいやでした。
母は何故私をつれて出かけるんだろう、いっそ家に残してほしい。

塾でのお弁当もだからこそ心底いやで、
塾に行くことも酷く嫌がっていました。
しかし、母に言っても「そんなの勉強がいやなだけだ」としか返事はもらえず
一度だけ大きな間違いを起こしたことがあります。

その行為にいたった理由は簡単で
塾にいくことを母に諦めてもらう口実でした。
ほんの出来心で足をカッターで軽く切ったんです、くるぶしの辺りを3回。
うっすらと、その頃から自傷行為もはじまっていたので
苦しくも痛くもなかった、これで家の中にいれるならとすら思ったんです。
当時の私は、馬鹿なことにその傷を友人に「知らない人に襲われた」とうそをつきました。
そうすれば、親も諦めてくれると思ったんでしょう。
歳を重ねればわかること、友人のお父様はそれをきき慌てて警察へ連絡
私も今ならば同じことをするでしょう。
当然の如く警察の方がきて私の傷を撮ったり
どういう状況だったのか、こと細かく聞かれました。
そのときの私は頭の中が真っ白、母に怒られる、こんなに沢山の人にうそをついてしまった。
今更いうに言えない、ただただ現場検証を行う警察の方を見ながらそう
小さな頭の中でぐるぐると考え続けていましたが
女性の警察官の方が優しく、それでも厳しい声でゆっくりと私に
「うそなんだよね」と聞いてくださったことでやっと謝ることができました。

その後迎えにきた母親に泣きながら「もういやだ」と言う傍ら
母のがっかりした顔、母のつかれきった顔を見て罪悪感でいっぱいになり
結局小学校卒業まで塾に通い続けました。
嘔吐する恐怖はそのまま、食べる恐怖もそのまま。
すべて自分の中で解消できないまま、その不安を解消する自傷行為だけ覚えて小学校を卒業しました。
もう遠い昔になりますが小学生の頃、既に1年生の頃には恐怖心が
あったなぁとぼんやり覚えてます。
酷い便秘を経験してとにかくお腹を痛くして
病院で浣腸をしたのもこの時が初めてでした。
とにかくこの頃はお腹が痛い=吐いてしまうという概念が
あったのでとにかく怖かったのを覚えています。

1年、2年、学校内でも気分が悪くなるのが怖かったのですが
一番酷かったはおそらく小学校3年か4年のどちらかの時期でした。
夏休み期間、人生初の拒食症を体験しました。
食べるのが怖い、どうしても食べたくない、食べたら吐いてしまう
なぜ、そう思ったのかは覚えていないのですが
とにかく食べるのが怖かった。
母から出される食事もなきながら拒否し続けました。
母の怒る声をよく覚えています。
「どうして食べないんだ」
そう聞かれてたのも覚えています。
あの当時の私はうまく答えることもできませんでした。
どうしても食べたくない、泣きじゃくりながら母に訴え
食べるのを拒絶し続け、どうしても食べなければいけないときは
少しでも沢山食べたと見せる為に、白いご飯を茶碗の隅へ押し付けて
少しでも面積を減らそうとしたのをはっきり覚えています。
それほど、吐くことがいやだったんです。

結局しばらくしてから病院へ連れて行かれ
診察した結果、飲み物もとらなかったせいか血液はどろどろ
体重も20キロあるかないか。
1本2、3時間かかる点滴を2本をその日はうたれることになりました。

でも病院にいったからといって改善されるわけでもなく
夏休みがあけて、学校に行くのが私にとって最大の難関でした。
いってその先ではいたらどうしよう、そう思うと学校にいくのも
いやでいやで仕方がなかった。
泣きながら家をでていく毎日、そんな私を多分知っていたんでしょう
近くに住んでいた祖母が私が家から出るタイミングをみて
「おばあちゃん、さんぽにいくんだよ」といって
私の手をとり、学校の校門まで一緒に通う日々がしばらく続きました。
片道10分程度、その道のりを祖母と一緒にゆっくりゆっくり歩いていく
そして校門の前についた瞬間、つないでいた手を離して
祖母が帰る姿を校門の向こう側から見るのがつらかった。

小学校での日々は、吐く恐怖と戦うまるで刑務所のような日々でした。
自分のこの話が「あぁ、そうか、そうなんだ」と同じ悩みを抱えてる方に
少しでも届けばいいなと思い、はじめました。

私は物心ついた頃から「嘔吐恐怖症」に悩まされています。
正直この恐怖症の名前を知ったのも、数年前のお話で
それまでは何でこんなのに悩んでるんだろうと自分の状況を
判断できずに毎日を過ごしていました。

こんなブログを書くからには、なおってんだろう?と思う方も
いるかと思われますが、私はまだなおっていません。
毎日、毎日、未だにこの恐怖心と付き合っています。
それこそまるで恋人のようにぴっとりくっつています。
恋人なら画面の向こうにいるよぉと内心うんざりしていますが
でもこれを治す方法を調べて出てくる候補があまりにも怖すぎて
お恥ずかしいですが何もできないままなのです。

ゆっくり、自分の事をこのブログに書きとめていこうと思います。
こんな人間が世の中にいるんだ程度でよんでもらえましたら有難いです。