身体の不調は心を整えるのが早い! 気持ちも改善ホリステックヒーリング Matthias

身体の不調は心を整えるのが早い! 気持ちも改善ホリステックヒーリング Matthias

はじめまして!

心と身体を頭蓋骨から整える施術家/ヒーリングで心も整えるホリスティックサロンMatthias(マティアス)です。

母の体調が崩れると、
日常はあっという間に非常事態に変わります。
 

片づけて、付き添って、
気づけば一日が終わり、

「考える余裕」そのものがなくなっていました。

そんな中で、

今度は私自身が体調を崩しました。
 

この数日間は、
書くことよりも、
ただ目の前の現実を回すことで精一杯でした。




こんばんはMatthiasです。
 

母が子どものように見えるようになってから、
私の生活はガラリと変わりました。
 

何度も何度も同じことを聞かれることに、
イライラしてしまうこともありました。
 

でも最近は、
「今回は何回で覚えられるかな?」

「どうやったら覚えられるかな?」と、

ゲームのように考えられるようになってきました。

 

そうして母の反応を楽しむようにしていったら、
母がよく笑うようになったのです。

母が笑うと、私もどんどん楽しくなっていきました。
 


車を運転していた時のこと。
 

いつも母は、自分が運転しているかのように
周囲を確認してくれるのですが、

助手席から身を乗り出して後方を確認する姿が、
サイドミラーを隠してしまい、正直とても邪魔でした。

そんな時

「邪魔だ!」と文句を言っていたのですが、

「オーライ!」と軽快に声をかける母が面白くて、

私はツボにはまり、しばらく笑いが止まりませんでした。
 

だって、オーライですよ(笑)
今まで一度も言ったことのない言葉


かわいい🎵

 

私がイライラして、大きな声で
「だ ・ か ・ ら ーーー!」と言っていた頃の母は、
萎縮して黙ってしまい、

その後の話はまったく聞く耳を持たなくなっていました。

 

でも、
「こーきたかー」と受け止めて、

ゲームに変えて声をかけるようにしたら、

毎日がとても楽しくなったのです。

 


それでも、
どうしてもゲームにできない日の私もいます。

 

出かける時は、何日も前から
「✕✕に行って、そのあと〇〇に行くよ」と伝え、
当日まで何度も同じ話をして、
出発前にも確認します。

 

先日の車移動の時のこと。
 

その日は、コンビニで支払いをしてから
スーパーに行く予定でした。
 

コンビニの用事を終え、スーパーへ向かう前に、
私は母の好きそうなアイスを見つけ、
車で待っていた母に渡しました。
 

嬉しそうに包みを開け、頬張る母。

ホント子供みたいにアイスに夢中でかわいい🎵

そして、こう聞いてきたのです。
 

「もう帰るの?それともどこかに行くの?」

 

ここで、少し急いでいた私のプチイライラが発動してしまいました。
 

でもね。
 

「もう、何度も言っても覚えられないんだから。
おばあちゃんは運転しないんだし、黙ってアイスでも食べておきな!」

…と、
笑いながら言ってしまったのです。
 


 

母も、笑っていました。
 

同じようなことを言っても、

怒りを押さえながら言うのと、

笑いながら言うのとでは、

こんなにも反応が違うのか、と気づきました。

 

この出来事をきっかけに、

言いたいことを黙り込むのではなく、

軽く吐き出しながら、

母と私、お互いが笑い合える関係でいよう、

そう考えられるようになりました。🎵
 



母の意見を尊重しようと、
「AとB、どっちがいい?」と聞いても、
「どっちでもいい」と答える母に困ることもありました。
 

でも、
時間をおいて別の聞き方をすると、
答えがもらえることもあり、
いろいろなパターンを発見するのが
楽しくなってきました。

 

私は子育てをしたことがないのですが

 子育てってこんな感じですか?

 

もしそうなら、

子どものいない私に、
子育てのような経験をさせてもらえている。

有難い
 

育児は「育自」とよく言いますが、
本当に育自になっています。
 

私の「器」は、
少しずつ大きくなっています(笑)

有難い

 



母は先日、87歳になりました。
 

こんなに長く、母と一緒に過ごす時間を
与えてもらえていること。

有難い

大きな病気もなく、
お風呂、トイレ、食事、着替え――
最低限のことは自分でできています。
 

ありがたいです。

 

病気でも、寝たきりになってしまっても、
会話ができることがありがたい。


たとえ会話が噛み合わなくても、
一人だけでは、会話にはならないのです。

 

究極、
生きていてくれるだけでありがたい――

今はそう感じています。
 

早くにご両親を亡くされた方は、
きっと、そう考えるのではないでしょうか。

 

お母さん。
そこにいてくれて、ありがとう

 



これで、
認知症になった母に振り回され、

見て見ぬふりをして、

戸惑い、怒り、泣いて、笑った私の話は、

ひとまず終わりです。

 

母との生活は、まだまだ続きます。
 

これからも、
毎日をゲームのように楽しみながら
暮らしていこうと思います。



ここまで そこそこ長い長文連載をお読みいただきませて
有難うございます。

ここに、時系列で書かせていただいたことで
改めて心の整理ができたこと 感謝いたします。

☆☆☆☆☆☆☆

介護の中で、
立ち止まってしまったり、
同じところをぐるぐる考えてしまったり。

そんな気持ちを、
どこにも出せずに抱えている方も
きっといるのではないでしょうか。

そこで、
「答えを出さなくていい」
「ただ話したい」
そんな無料のお話の場を、
つくろうと考えています。


愚痴でも、迷いでも、
まとまっていなくて大丈夫です。
吐き出すだけで終わっても構いません。

参加を希望される方は、
この投稿のコメント欄に
「参加希望」とだけ入れてください。

詳細は、個別にお返しします。

※これは連載です。
認知症の母と向き合う中での、
私自身の心の揺れや戸惑い、
そして少しずつ楽になっていった
思考の変化を綴っています。

 

母を守ろうとしているのに、
なぜか心が落ち着かない。

正解を探し、間違いを正そうとすればするほど、
自分が疲れてしまう。

これは、
母と向き合いながら、
私自身の「考え方の置き場所」に
気づいていった頃の話です。


 

今晩は、Matthiasです。
 

叔母の新盆を、母と二人で迎えようと、
少しだけ贅沢なお鮨屋さんに行きました。
 

そこは、沼津の漁港にあるお鮨屋さん。
30年ほど前、叔母と見つけたお店です。
 

母の誕生日にステーキ屋さんからお鮨に変わったのは、
母が80代になってからでした。
 

母も、好きなものは食が進むようです。
 

お腹いっぱいになったあと、
遊覧船で海に出ることにしました。
 

かもめのおやつを楽しそうに空へ投げる母。

「食べた!食べた!」とはしゃぐ母。

船室の窓辺で、かもめが飛ぶのを見つめる母。

 

何か月ぶりでしょうか。
こんなに、のんびりと
平和を感じられた時間は。

 

その時の私は、
母が子どものように見えて、
とてもいとおしく感じていました。


 

8月は、2泊だけ自宅に戻りました。
戻った際、部屋を片づけ、
必要なものをまとめました。
 

泊まったのは2日でしたが、
母が寝てから車で戻り、
少しずつ荷物を実家へ運びました。
 

昼間は目が離せません。
 

9月に1日だけ、
昼間に母から目を離しました。

本格的な実家への引っ越しです。
 

同時に、実家の整理も始めました。

引き出しを一つずつ開け、
何十年も触っていなかった場所まで、
母と相談しながら、

時に強引に(笑)処分していきました。
 

目的は、
私の荷物を入れることと、
使途不明金を探すこと。
 

結果、お金は
どこにも隠されていませんでした。
 

春頃、つなぎを着た人が
「点検です」と何度か訪ねてきました。

私がいることを確認すると、
それきり来なくなったのを思い出しました。
 

――ああ、何度もやられてしまったんだな。
 

あの頃の母は、
今思えば、とても無防備だったのだと思います。

この無防備さが、
12月に大きな出来事となって表に出ます。
 

私が実家に戻ってから、
母が一人の時にお世話になった方々へ
ご挨拶に伺いました。
 

皆さんが、口をそろえて言いました。
 

「お母様、お顔が穏やかになりましたね」

「以前は、いつもどこか 怯えているようでしたから」
 

母は、不安な日々を必死に過ごしていたのです。
 

ああ、実家に帰って良かった。
心から、そう思いました。
 

けれど私は、
母を守るつもりで、
記憶を正そうとして
声を荒げてしまうこともありました。
 

本当に、
私は母の役に立っているのだろうか。

何度も、自分に問いかけていました。

そんなとき、周りの人たちが答えをくれたのです。
 

安心したのは、母だけではありませんでした。
きっと、私自身もだったのだと思います。





 

人を変えなくていい。

出来事を変えなくてもいい。
 

自分の考え方の置き場所を、少し変えるだけで、
心は驚くほど楽になります。
 

穏やかな場所に自分を置く。

それだけで、対応する人も、
世界も、静かに変わっていきました。

 


一緒にいると食べようとする母。
その小さな変化を喜んだ直後、家族の死と向き合うことになりました。
責める気持ちと、後悔と、書き換えられていく記憶の中で――私は何を見ていたのか。

これは連載です/前回はこちら

 

 


こんばんは、Matthiasです。

母は、私と一緒にいる時には
「食事をしよう」という気持ちになるようでした。
 

何日か実家に泊まっていると、
夜になると決まってこう聞いてきます。
 

「明日のご飯はあるの?」
 

「もう研いで、炊飯の予約もしてあるよ」

そう答えると、

「じゃあ、大丈夫だね」
と、安心したようにうなずきます。
 

自分で作ることはしなくなったけれど、
“食べよう”と思う気持ちが戻ってきた。
それだけでも、なんだか嬉しくて――
思わず笑ってしまうほどでした。


 

そんな矢先のことです。
今度は、母の妹――私にとっての叔母が亡くなりました。

ここで、叔母のことを簡単に紹介します。

  • 母・叔父(すでに他界)・叔母の三人きょうだいの末っ子

  • 同じ市内で一人暮らし

  • 毎週月曜日、実家近くの編み物教室に通っていた

  • 編み物の帰りに、母の顔を見に立ち寄ってくれていた

  • 叔母の様子は、叔父の子どもたち(私の従妹たち)が見てくれていた


その月曜日の朝、
叔母は体調が悪いと、編み物教室の仲間に電話をしていました。

結果として、その日はおけいこに行かなかったことが、後で分かりました。
 

叔母が発見されたのは――
それから 三週間も経ってから でした。
 

おけいこに行くつもりで、エアコンを切ったのでしょう。

テレビは、つけっぱなしだったそうです。
 

六月とはいえ、
去年の夏も、十分に暑かったですよね。
 

つまり――

考えたくない状態で、発見されたのです。

 

「従妹たちは、週に一度は来てくれていたんじゃないの?」

「新聞屋さんは、三週間分も新聞が溜まっていて、何も思わなかったの?」

「母だって、毎週月曜日に妹が来ないことに、気づいたんじゃないの?」

 

また、私は人のせいにしていました。
 

でも、すぐに思い至ります。

実家に戻っていたのなら、
私だって食事くらい、誘えたんじゃないのか。

 

今度は、自己嫌悪でした。
 

どれだけ嘆いても、
叔母は、もう帰ってきません。
 

母の記憶は、どこをどう通ったのか、

「私に会いに来た夜に亡くなった」
という話に変わっていました。
 

窓際で倒れていたはずなのに、
いつの間にか「廊下で倒れていた」ことになり、

命日も少しずつ変わっていきます。
 

今では、三月に亡くなったことになっています。
 

叔母の部屋の向かいの人が異変に気づいた、
そう母は思い込んでいます。

でも、その向かいの部屋は、
十年以上も空き家のままなのです。
 

従妹たちは、警察とともに部屋に入り、
翌日には通帳、現金、貴金属を持ち出してから、
私たちに連絡をしてきました。
 

そこからは、
葬儀、初七日、四十九日、新盆、叔母の部屋の片づけ

そして遺産相続の話――
 

怒涛のように時間が過ぎていきました。
 

私はもう、
ほとんど自宅に戻れない状態になっていました。
 





その頃の私は、
母の記憶と戦いながら、
いつの間にか戦わなくなっていました。
 

正そうとすればするほど、何かが壊れていく気がして。

だから私は、
目の前で起こる出来事を、
ただ右往左往しながら、こなしていくだけの日々を送っていました。


長文をここまで読んでくださってありがとうございます。


昨日は、同じ文章が二つ並んでしまいました。
それくらい、立ち止まっていたのかもしれません。一難去らずに、また一難。
今度は、お金でした。
しかも、気づいた時にはもう、後戻りできないところまで来ていました。

こんにちはMatthiasです。

当時の私は、
それが「お金の問題」ではなく、
もっと別の何かの始まりだとは、
まだ気づいていませんでした。

私が「何かがおかしい」と
はっきり言葉にできるようになるまでの、
ほんの入り口の出来事です。

 

 

何かできないか。
何をしたらいいのか。

分かっていたのは、
このまま放っておけない、ということだけでした。

 

とにかく、
一日三食、ちゃんとしたものを食べてほしい。
それが、病気の進行を遅らせるために
大切なことだと、そう思っていました。

その頃から、
実家に帰る回数が増えていきました。
滞在する日数も、少しずつ、でも確実に増えていきました。

 


「銀行に行きたいの!」


「え? 何しに行くの?」


「生活費が全然ないから、おろしに行かないと!」

 

「うそでしょ?先週、30万円おろしたじゃない!」


「でも、本当に無いの!」

私は探しました。
何度も、何度も。

こんなところまで?と思うほど、
家中を探しました。


でも、本当に、どこにも無いのです。

待って。
最後に銀行に行ったのは、いつだっけ。

「通帳、見せて。」


……そこに書かれていたのは…



 

週に一度、
二、三日に一度、
連日、
同じ日に二つの銀行。

そのたびに、30万円ずつ。
引き出しの記録が、びっしりと並んでいました。

たった二か月の間に、
50年働いて貯めた預金は、
あっという間に
五分の一になっていたのです。

愕然としました。

母の通帳を見たのはその時が初めてでした。

どうして、

こんなことになってしまったのだろう。

何が起きているのか、
分からなくなっていました。
 


母は、
いつも銀行の窓口で手続きをしていました。

だから私は、
「銀行印を、私が預かるよ」
そう説明して、
一度、自宅に戻りました。

ところが、二日後。

母から、電話がかかってきたのです。
 

「銀行印を返して!」
「銀行に行っても、お金が下ろせなくて困ってるの」
 

「この間、あなたが帰る時に
銀行で30万円下ろしたでしょ?
あれは、どこに行っちゃったの?」
 

「……え?そうなの??でも、お金ないよ…生活できないよ」


わずか3日で実家に戻ることになったのです。
今度は、私がお金を3等分に分けて、あちこちに隠しました。
 これで、帰宅してから電話をもらっても 
「あそこにあるよ!」と言えば 直ぐに戻らなくてもよくなるのでは?
と考えました。

 正解でした!10日間は自宅にいることが出来ました。
実家の隠したお金を確認してみると1つは見つけられていて使用済み
 もう一つは、隠されたままでした。

やはりここは親子
隠す私と探し当てた母 隠し場所に思いつくことは同じだったのです(笑)

 ここから、母と私のお金のかくれんぼが始まったのです。
このころの私は、少しゲーム感覚だったかもしれません(笑)

 こうすればこうなる!
こうすれば回避できる!


攻略出来た風で、
次のエピソードがまた起きたのです。

今晩はMatthiasです。 


こまで、読んでくださってありがとうございます。 
少し立ち止まって、 
今日はひとつだけ、問いを投げさせてください。 




これまでの話を読みながら、 

「これは自分のことかもしれない」
 そんな瞬間は、ありましたか?

 私はいま、過去の出来事を 時系列で書き直しながら、 

当時は見えなかったことに、
 次々と気づいています。 「


あのとき、ここでもう少し違う動き方ができたかもしれない」

 「ここで誰かに頼るという選択も、あったのではないか」

 でも正直に言うと、 

その渦中にいた私は、 
そんな余裕を持てる状態ではありませんでした。


 だからこれは、 反省でも、後悔でもありません。

 ただ、 「あとからだから見える景色がある」 ということを、

 静かに実感しているだけです。


 もしかしたら今、 読んでくださっているあなたも、
 ・その時は精一杯だった
 ・選べなかった理由があった 
・今だからこそ気づくことがある 

そんな思いを、 どこかに抱えているかもしれません。


 答えを出す必要はありません。 


言葉にできなくても大丈夫です。 


ただ、 自分の中に何かが動いた 

それだけで、十分だと思っています。



 物語は、まだ続きます。 



出来事も、気持ちも、 もう少し先まで書いていくつもりです。 

その途中で、 同じような場所に立っている人と、

 静かに話せる時間があってもいいのかもしれない―― 

そんなことも、最近は考えています。

 今はまだ、形にする段階ではありません。


 ただ、そんな「場」を思い描いている、
 ということだけ、ここに置いておきます。 


ここから先も、 簡単には終わりません。

 それでも、続いていく話です。


※少しだけ補足です
タイムラグで、同じ文章が二つ並んでしまいました。
それも今の私らしいかな、と思い
どちらも残すことにしました。
読んでくださって、ありがとうございます。

今晩はMatthiasです。

ここまで、読んでくださってありがとうございます。

少し立ち止まって、
今日はひとつだけ、問いを投げさせてください。




 

これまでの話を読みながら、
「これは自分のことかもしれない」
そんな瞬間は、ありましたか?

 


私はいま、過去の出来事を
時系列で書き直しながら、
当時は見えなかったことに、
次々と気づいています。

「あのとき、ここでもう少し違う動き方ができたかもしれない」
「ここで誰かに頼るという選択も、あったのではないか」

でも正直に言うと、
その渦中にいた私は、
そんな余裕を持てる状態ではありませんでした。

だからこれは、
反省でも、後悔でもありません。

ただ、
「あとからだから見える景色がある」
ということを、
静かに実感しているだけです。


もしかしたら今、
読んでくださっているあなたも、

・その時は精一杯だった
・選べなかった理由があった
・今だからこそ気づくことがある

そんな思いを、
どこかに抱えているかもしれません。

答えを出す必要はありません。
言葉にできなくても大丈夫です。

ただ、
自分の中に何かが動いた
それだけで、十分だと思っています。


物語は、まだ続きます。
出来事も、気持ちも、
もう少し先まで書いていくつもりです。

その途中で、
同じような場所に立っている人と、
静かに話せる時間があってもいいのかもしれない――
そんなことも、最近は考えています。

今はまだ、形にする段階ではありません。
ただ、そんな「場」を思い描いている、
ということだけ、ここに置いておきます。



ここから先も、
簡単には終わりません。

それでも、
続いていく話です。


少し立ち止まって
#振り返る時間
#答えを出さない
#自分の人生を考える
#同じ場所にいる人へ

こんにちは。Matthiasです。
 
前回の続きとして、今でも胸が痛む出来事をもう少しだけ話をさせてください。




 
今振り返ると、
私は人のせいにしてばかりで、現実から逃げていました。
何も前に進めていなかったのだと思います。
 
関係各所に連絡をしたり、
自分なりに動いているつもりではいました。
 
「何かしなきゃいけない」
 
それは分かっている。
でも――
何を、どうしたらいいのか分からない。
 
そんなことを考えているうちに、
月日だけが過ぎていきました。
 
そんな頃、
叔母の一周忌の法事の連絡をきっかけに、従妹から一本の電話が入りました。
 
母を見かけたのは、
30年通っている近所の美容師さんでした。
 
美容院の洗濯機が壊れ、
仕事終わりにコインランドリーへ行く途中
 
薄着のまま小雨の中、
夜10時過ぎに橋の近くを歩いている母を見つけたそうです。
 
また別の日には、
パジャマ姿で夜中に外を歩いているところを見た人もいる――
そんな話を聞き、
「これはおかしい」と強い違和感を覚えたといいます。


 
その美容師さんから話を聞いた従妹が、
一周忌の連絡をするついでに、
「おばちゃん、こんなことになってるけど…知ってる?」
と、私に心配して知らせてくれたのでした。

そのとき初めて、事態が自分の思っていたより、ずっと深刻だと気づきました。
 
驚きとショック。
そして、
なぜ車を止めて声をかけてくれなかったのか?
――そんなふうに、人を責める気持ちばかりが湧いてきました。
 
自分では、何も動いていないのに。
 
 
 
認知症の母を介護している友人に相談すると、
「地域包括支援センターに連絡してみたら?」
とアドバイスをもらいました。
 
そこに、ようやく一筋の光が見えた気がしました。
 
けれど現実は厳しく、
包括センターは人手不足で、
新規の相談に十分対応できる状況ではありませんでした。
 
対応は後手後手に回り、
思うようには進みません。
 
かかりつけの脳神経外科の先生も、
その頃になってようやく
母の異変に気づき始めたようでした。
 
 
 
そんな中、
地方に赴任している兄が帰省し、
母の運転する車に同乗しました。
 
「これは危ない」
 
そう判断した兄は、
母が配達の仕事をしていた職場に連絡し、
強引に退職させてしまったのです。
 
本当は、
脳外科の先生も、母も、私も、
「あと2か月、年末まで働いて区切りよく辞めよう」
そう話していました。
 
それなのに――
 
突然、
50年続けてきた仕事を奪われた母は、
一気に認知症が進んでしまいました。
 
 
 
色んなことが、同時に起こりました。
 
先生が、もっと早く気づいてくれていたら。
兄が、あんなに強引でなければ。
包括センターが、ちゃんと動いてくれていたなら。
 
――全部、人のせい。
 
 

心配している「つもり」で、
私は何をしていたのだろう。
 

事態の深刻さは、分かっていました。
 

「仕方ない。離れて暮らしているんだから」
そう自分に言い聞かせて、
私は現実から目をそらしていました。

書こうとして、手が止まりました。

書けなかったわけではなくて、
むしろ、
ちゃんと伝えたいと思ったからです。

この一年の出来事と、
その時々の心の動きが、
あまりにも早くて、細かくて、
順番にたどらないと、
自分でも追えなくなってしまいました。

だから今日は、
結論を書くのではなく、
その途中にある心の動きを、
そのまま残しておこうと思います。





今晩は!Matthiasです。


書こうとして、手が止まった理由は、
ちゃんと時系列を整理して、
心の変化を伝えたいと思ったから。

これは、特別なことではなくて、
多くの人が通る思考回路だと思う。

起きた出来事ごとに、
私はその都度、自分と会話をしてきた。

「これは何?」
「どうして分かってくれないの?」
「私が間違っているの?」

そして、
「出来ることを、出来る範囲でやろう」と
考えるようになった。

今、私が母にしていることは、
ずっと母が私にしてくれていたことだった。

母は、最初から何も変わっていなかった。
変わったのは、私の受け取り方だった。

だから私は、
どこで、どう考え方が変わっていったのかを
出来事の順に、残しておきたい。

「あれ?」
その違和感は、
とても小さくて、
見過ごそうと思えば見過ごせるものでした。

でも、
一度気づいてしまった現実は、
なかったことにはできませんでした。

これは、
母の変化に気づいた
私自身の迷いの始まりの記録です。

こんばんはMatthiasです。

皆さんの中にも、
はっきりと言葉にできない
心の葛藤や揺れがあるのではないかと思い、
この1年の私の心の変化を、
少しずつ綴っていこうと思います。



コロナ禍で、
人と接する仕事をしていた私は、
ほとんど実家に足を運ばなくなっていました。
 
母から
「お母さん、最近ちょっと変なの…」
そんな言葉を聞いても、
その頃の私は、どこかでさらっと流していたと思います。
 
一昨年の3月、叔母が亡くなり、
久しぶりに実家を訪れました。
 
噛み合わない会話は、少しありました。
それでもその頃は、母も
「あー、そうか!」と
思い出せていたんです。
 
「あれ?」
と、引っかかったのは、
リビングに置いてあった大きなクッキーの缶でした。
 
今まで、
こんなものを好んで食べる人ではなかったのに、
気づくと、少し減っている。
 
数日後、もう一度実家を訪れた時、
その缶は、ほとんど空になっていました。
 
え?
こんな短期間で、この量?
 
ちゃんと、ご飯を食べているんだろうか。
 
不安になって、
私はいくつか作り置きをして、
自分の家へ戻りました。
 
次に実家へ行った時、
それらはすべて
同じ場所、同じ量のまま
冷蔵庫に収まっていました。
 
ラベルまで貼っていったのに。
 
その瞬間、
「あぁ…」と、分かってしまったんです。
 
もう、
母はキッチンに立つこと自体が、
負担になってしまっているのだと。
 
ご飯を作ることも、
出来たものを冷蔵庫から出すことも、
とても“面倒なこと”になってしまったのだと。
 
だから、
リビングに置いてあったお菓子で、
お腹を満たしていた。
 
そう考えた時、
もしこの食生活が続いたら、
症状の進行も早まってしまうんじゃないかと
強い不安がよぎりました。
 
この時はまだ、
「一緒に暮らす」とか
「介護をする」とか、
そんな覚悟は、正直ありませんでした。
 
でも、

一度見てしまった現実は、
もう、なかったことにはできませんでした。

ここから、
私の中の迷いが、
静かに始まったのです。

もし今、
「分かっているのに気持ちが追いつかない」
「ちゃんとしなきゃと思うほど、苦しくなる」
そんな感覚を抱えているなら、
これは、過去の私の話であり、
もしかしたら、あなたの話でもあります。

答えが出なかった一年を、
少しずつ言葉にしていく記録として、
ここに残していこうと思います。


 

こんにちはMatthiasです。

皆様 お久しぶりです。

しばらく、ブログから離れていました。
書きたい気持ちはずっとあったのに、
言葉にならない時間が続いていて。

 

 
昨年の私は、
何が正解なのか分からないまま、
ずっと気を張って過ごしていたように思います。
 
頭では分かっているのに、
気持ちが追いつかない。
 
「悪気があるわけじゃない」
「病気なんだから仕方ない」
 
そう分かっていても、
以前のようなやり取りを無意識に求めてしまって、
うまくいかないたびに、
イライラして、落ち込んで、
あとから自己嫌悪になる。
 
怒られる側もつらくて、
怒ってしまう自分もつらくて、
結局、誰も幸せじゃない時間が流れていました。
 
あの頃の私は、
「どうすればいいか」を急いで決めようとして、
自分の感覚をちゃんと感じる余裕が
なかったのだと思います。
 
ちゃんとしなきゃ、
前向きでいなきゃ、
理解ある人でいなきゃ、と。
 
でも今振り返ると、
立ち止まって、揺れて、
分からないままでいる時間が、
とても大切だったのだと感じています。
 
すぐに答えを出さなくてもいい。
整っていなくてもいい。
 
あの一年は、
私にとって必要な「過程」でした。
 
この一年を、
少しずつ言葉にしながら、
振り返っていこうと思います。
 
また、ここから。