射撃は音がはげしくなり、時折、砲も打ち込んできた。壕内は極限状態になった。

突然、隊長が壕から飛び出した。
途端に一斉射撃を受け、私の面前で、もんどり打ち、溝中に倒れた。
制止するひまもない、一瞬のことだった。
しばらくして、溝中でガーンと爆発音が聞こえた。

隊長は自決したなあと思った。私達を見つけた米軍の機関銃、小銃の猛射は一段とはげしくなった。壕近くにはこなかったが、代わりに人家や草むらに焼夷弾を立て続けに打ち込んだ。
人家、草むら付近はもうもうと煙が立ちこめ、その付近は全然見えなくなった。

今だ、と私は直感し、壕から脱兎の如く飛びだし、近くの小川の森の中に飛び込んだ。戦友も続いた。ああ、助かったと、小川の森の中で喜びあった。

その後も戦況は極度に悪くなった。

兵器はもちろん、食糧も全然補給はなく、戦友は餓えとマラリアで次々と倒れた。どの家にも行き倒れ、息絶えていた。

その頃、私は現地食糧探しを命ぜられ、戦友と夜を期して出発した。日中進路をおおよそ目星をつけていたが、夜は全然見当がつかない。ままよ、と行くところまで行き、ようやく芋畑らしいものを発見した。もう、薄明るい朝だった。戦友とおお喜びで必死に探った。

夜が完全に明けてしまった。
突然ヒューっという音とともに米軍砲弾が落下炸裂した途端、猛烈な砲撃と変わった。米軍陣地に深く入り過ぎ発見されたのだ。しまったと思った瞬間、私は倒れ何もわからなくなった。

気がついた時は壕内に助け入れられ、顔面、扁、大腿部をシャツにて、ぐる巻にして寝かされていた。耳もほとんど聞こえなかった。危険なため急ぎ帰らねばならなかったが、私は頭痛と、傷口の痛みのため歩けず、その夜戦友に託し、私は仕方なく、一人壕内に残った。

夜に入っても米軍砲撃はやまず、極度の不安と恐怖に一睡もしなかった。
そして3日壕内にとどまったが、いたたまれず、夜を期し、びっこを引きながら本隊を目指し帰隊したが、本隊はすでに出発して、いなかった。命令により別行動せよとのことを聞いた。それから、孤独と傷に苦しみながら本隊を追った。傷口は化膿し、苦しい山中行軍の連続だった。

それからどのくらいたったか、ようやく本隊にたどり着いた。  

その後も戦いは、ますます悪くなり、私達は山腹から山上へと退いた。
そんな日、米軍観測機によりビラを落とした。
内容は、日本兵に告ぐ、戦いは終わった。日本と講和条約ができたので、みな一か所に集まれ、と書いてあった。

一枚拾い上げて見せたら、こんなもの信用ならんときつい言葉だったが、その後、本部お達しにより、事実と初めてわかった。

講和というので負けたと思わなかった。
ああ、ようやく生きたかとほんとうにうれしかった。その内、米軍使者がきて、細部打ち合わせがあり、各所ばらばらにいた戦友も一か所に集い、宮城を拝み、軍旗を焼いたがさすがに涙が出て仕方がなかった。

それから間もなく武装を解除された。そして湿地帯草原に運ばれ、捕虜収容所を作った。

天幕寝台は米軍より貸与され一年余、捕虜生活に入った。

そんな日々、演芸会をやってよいと許可があった。久しぶりに楽しかった。
戦友のひとりに、旅姿三人男なんとか(清水港の名物)を節回しよろしく歌い、大かっさいだった。
私もこの歌を比島の思い出に時々宴席で歌う。そしてあの頃をつくづく思い出すのである。

昭和21年12月、無事名古屋港に帰還、母国の土を踏んだ。